Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.6.12

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「大塩の乱関係論文集」目次


大塩平八郎

その1

田中惣五郎(1894〜 1961)

『日本反逆家列伝』解放社 1929 所収

◇禁転載◇

大塩平八郎 一管理人註
   

 檄  文――――――  四海こんきういたし候はゞ天禄ながくたゝん、小人に国家をおさめし めば、災害並至ると昔の聖人深く天下後世、人の君、人の臣たる者を誡 め置かれ候、  東照神君にも、鰥寡孤独に於て尤もあはれみを加ふへくば、之れ仁政 の基と仰せ置かれ候、然るに茲二百四五十年太平の間に、追々上たる人 驕奢とておごりを極め、大切の政治に携はり候諸役人ども、賄賂を公に 授受とて贈り貰ひいたし、奥向の女中の因縁を以て道徳仁義をもなき拙 き身分にて身を立て重き役に経上り、一人一家を肥し候工夫のみに智術 を運し、其領分知行所の民百姓共へ過分の用金申し付け、是迄年貢諸役 の甚しきに苦む上へ、右の通り無体の儀を申し渡し、追々入用かさみ候 故、四海の困窮と相成候に付、人々上を怨まざるものなき様に成行候へ ども、江戸表より諸国一同右の風儀に落入り、天子は足利氏已来別して 御隠居同様、賞罰の柄を御失ひに付、下民の怨何方へ告愬とてつげ訴ふ る方なき様乱れ候につき、人々の怨気天に通じ、年々地震火災、山も崩 れ、水も溢るゝより外、色々様々の天災流行、遂に五穀飢饉に相成候、 是皆天より深く御誡めの有難き御告に候へども、一向上たる人々心づか ず、猶小人奸者の輩、大切の政を執行、只下を悩まし金米を取り立てる 手段計りに打ちかゝり、実以て小前百姓共のなんぎを、吾等如きもの、 草の陰より常に察し悲み候へ共、湯王武王の勢威なく、孔子孟子の道徳 もなければ、徒に蟄居いたし候ところ、此節米価いよ/\高値に相成り、 大阪の奉行並に役人ども、万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道をいた し、江戸へ廻米いたし、天子御在所の京都へは廻米の世話もいたさゞる のみならず、五升一斗の米を買に下り候ものどもを召捕などいたし、実 に昔葛伯といふ大名、其農人の弁当を持運ひ候小児を殺し候も同様、言 語道断、何れの土地にても、人民は徳川家に支配の者に相違なき処、か くの如き隔りを付候は、全く奉行等の不仁にて、其上勝手我儘の触書等 を度々差出し、大阪市中遊民ばかりを大切と心得候へば、前にも申す通 り、道徳仁義を存ぜざる拙き身故にて、甚だ以て厚かましく不届の至り、 且つ三都の内大阪の金持共、年来諸大名へかし付候利徳の金銀並に扶持 米等を莫大に掠取、未曾有の有福に暮し、町人の身を以て大名の家老用 人格等に取り用ひられ、又は自己の田畑新田等を夥しく所持、何不足な く暮し、此節の天災天罰に、其身は膏梁の味とて結構の物を食ひ、妾宅 等へ入込み、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘ひ参り、高価の酒を湯水を 呑も同様いたし、此難渋の時節に絹服をまとひ候、かはらものを妓女と 共に迎へ、平生同様に遊楽に耽り候は何らの事か、紂王長夜の酒盛も同 じ事、其所の奉行諸役人、手に握り居り候政を以て、右の者共を取入り、 下民を救候儀も出来がたく、日日堂島相場計りをいぢり事いたし、実に 禄盗にて、決して天道聖人の御心に叶ひ難く、御赦しなき事に候、蟄居 の我等最早堪忍なり難く、湯武の勢孔孟の徳はなけれども、拠ろなく天 下のためと存じ、血族の禍をおかし、此度有志のものと申し合せ、下民 を悩し苦め候諸役人を先づ誅伐いたし遣し候間、摂河泉播の内、田畑所 持致さざるもの、たとへ所持いたし候共、父母妻子家内の養ひ方出来難 き程の難渋の者へは、右金米等取らせ遣はし候間、いつにても大阪市中 に騒動起り候と聞き伝へ候はゞ、里数を厭はず一刻も早く大坂へ向け駆 せ参るべく候、面々へ右米金を分け遣し申すべく候、  鉅橋鹿台の金粟を下民に与へられ候意思にて、当時の飢饉難儀を相救 ひつかはし、若又其内器量才力等これある者には、それ/゛\取立、無 道之者どもを征伏いたし候軍役にも遣ひ申すべく候、必ず一揆蜂起の企 とは違ひ、追々年貢諸役にいたる迄軽くいたし却つて、中興神武帝御政 道の通り、寛仁大度の取扱にいたしつかはし、年来驕奢淫逸の風俗を一 掃いたし、質素に立戻り、四海万民いづれも、天恩を有難く存じ、父母 妻子を養はれ、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せつかは し、堯舜、天照皇太神の時代に復しがたく共、中興の気象恢復とて立戻 り申へく候、  此書付、一々村々ヘしらせ度候へ共、数多の事につき、最寄の人家多 く候大村の神殿へ張付け置候間、大阪より廻しこれある番人どもにしら れざる様に心懸け、早々村々へ相触れ申すべく候、万一番人ども眼付、 大阪四ケ所の奸人どもへ注進いたし候様子に候はゞ、遠慮なく面々申し 合せ、番人を残らず打ち殺し申すべく候、若し大騒動起り候を承りなが ら、疑惑いたし、駆せ参り申さず、又は遅参に及び候はゞ、金持の金米 は皆火中の灰に相成り、天下の宝を取失ひ申すべく候間、跡にて必ず我 等を恨み、宝を捨る無道者と陰言を致さゞる様致すべく候、其為一同触 れしらせ候、尤も是迄地頭村方にある年貢等にかゝはり候諸記録帖面類 は、却て引破り焼捨て申すべく候、是れ往々深き慮ある事にて、人民を 困窮致させ申さゞる積りに候、去りながら、此度の一挙、当朝平将門、 明智光秀、漢土の劉裕、朱全忠の謀反に類し候と申す者も、是非これあ る道理に候へ共、我等一同心中に天下国家を簒盗いたし候慾念より起し 候ことには更に之れなく、日月星辰の神鑑にあることにて、詰る処は、 湯、武、漢高祖、明太祖を吊し、君を誅し、天誅を執行候誠心のみにて、 若し疑はしく覚え候はゞ、我等の所業終り候処を爾等眼を開いて看よ、 但し此書付、小前の者へは道場坊主、或は医者等より篤と読聞かせ申  すべく、若し庄屋年寄、眼前の禍を畏れ、一己隠し候はゞ、追而急度  罪行ふべく候、                             某   天保八年酉年月 日     摂河泉播村々     庄屋年寄百姓並小前百姓共へ  以上は、大塩の乱を醸成した気運と、乱の行動を規定した所謂「檄文」 である。巧みな宣伝文ではある。



成正寺蔵では
「明太祖、
を吊」
とある。
他も欠文あり


「檄文
   


「大塩平八郎」目次/その2

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