Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.6.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


大塩平八郎

その2

田中惣五郎(1894〜 1961)

『日本反逆家列伝』解放社 1929 所収

◇禁転載◇

大塩平八郎 二管理人註
   

 大塩平八郎は、寛政五年に大阪の与力大塩家に生れた。七歳にして父 母を失つた彼は、十三四歳にしてもう祖父代理として御番方見習にも出 仕したらしい。この境遇が、彼を老成せしめ、冷厳ならしめたものであ らう。加へて、寛政の時代は、王覇の弁を唱へて、内政上の衝突を暗示 し、外船の渡来によつて辺警を説いた時代である。更に、彼れ大塩は、 王陽明の知行合一説に親んでその深奥に達せんとした。吏務の傍ら彼は、 刻苦精励した。そして得るところあつた大塩は傲然として天下に嘯いた。 彼れの容貌は、変乱後の逮捕に添えられた人相書によると、 「一、年齢四十五六歳 一、顔細長く色白き方 一、眉毛細く薄き方 一、額開き月代青き方 一、眼細くツリ候方 一、鼻常体 一、耳常体 一、セイ常体中肉 一、言舌サハヤカにて尖き方云々」  彼は早く肺を患へて、危篤を気づかはれたことが最三に及んだ。その 生立とその職業、そして此の体質であるが故に、その言動の烈しさが極 めて人を打つたのであらう。  彦根藩の岡本黄石翁の話に  「平八郎が彦根に行つた時、黄石翁は、彼を自邸に延いて、兵書の講 義を請うたところ、平八郎は色を正して、足下何の用あつて兵書の講義 を望まるゝか、僕には分らぬ、願はくは其の説を聞かうと詰め寄つたの で、翁も意外に感じ、御承知の如く、私の祖先は兵学を以て藩に仕へ、 私も不肖ながら今太夫の班に列して居るから、祖先の志をつぎ、聊か国 家に尽したいと思ふ迄のことであるといつたら、平八郎は漸く顔色を和 げ、兵は活物で、一二講論の尽すべきところで無い。お望みならば予の 家に孫子小解といふ珍書があるから、之をお貸ししやう。之を御熟読に なつたら思ひ半に過ぎるものがあらうといつて辞し去つた。平八郎の最 初の辞気の獅オさには、殆んど答に窮した云々」  と大塩の面目が躍如として居る。  斯うした鋭どさと学識と、時代への目とを持つた大塩には、社会の病 弊がマザ/\と見えたのである。















(うそぶ)いた












最三
ママ






岡本黄石
(1811-1898)
宇津木矩之丞
の弟

















(はげ)しさ
   


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