その2
『近世地方経済史料 6』小野武雄編 吉川弘文館 1958 より
天保四年の春の頃、江戸の客舎を出て所々の名所旧跡を探り、同じき秋の初には遂に蝦夷松前の地に渡りぬ、今年はいてゝ天順にならず、夏の最中にも扇を用る日なく、秋の初よりは綿入を重ねざれば肌寒くして難
堪、九月朔日松前より船にのり津軽の三馬屋に著す、何心なく放籠屋に泊り朝になりて宿銭を聞けば四百五拾文といへり、打驚きながら銭を払ひ外ケ浜迄をたどり行に、稲穂真直に立実のりし者は壱つもなし、予不
計も足を痛て一日に五六里ならでは行事叶はず、放籠屋に著て宿を求むれば、米はなしとて借る事なし、依て蕨の粕など買求めて無理に一夜の宿を乞ひ、又はいぶせき民家に入りて、昆布シンハ草ヱテ抔いへる海草を稗麦に交て飯又は粥雑炊にしたるを喰ひ、或は旅籠屋に泊りて「ねこ」とやら云へる莚の如き物を蒲団の代りにし、長夜にも夢も結ばず、又は漁人のもとに行て鰹魚十五六尾も買求めて、ふら/\重荷のはしに結ひ附け朝暮是ばかりを食と為して行し事もあり、四五日の間は米といへるものは目にだも見ず、是等の事は中々筆にも尽し難し、此辺村里猫を殺せし事夥しく、犬は未だよろ/\として死もやらず、人は日々乞食非人と為りて他国へ出る事の幾千万人と云ふを知らず、或は餓死せし人を「あり」とやら云ふ物に載せ村送りにして行となり、半死半生にして道端に臥たるも数多し、道行乞食を見るに、大根などかぢり青葉に塩を付て食ふもあり、四五日食事せぬとて、袖にすがり弁当を取られし事度々なり、依て常に能便の所にては米を求め握り飯を絶えず持ありきしなり、され共大体餓人の為に奪はれ予が口に入りしは稀なり、四歳計の児と当歳の赤子を連て夫婦非人となり出しも喰ふべき便りなきまゝ、女房二人の子を抱て川に沈みければ、男も後より同く川に入りて死せりと云へり、是等の事も一事ならずと承る、或時馬を飼ふ事叶はずとてたゞ人に呉て他国へ出す、又は袷など米壱升とかへし事もあり、実に狂人の所為に近し、弘前城下の宿屋さへ客に一度はかてめし二度は粥雑水なり、去共泊銭は三百文を取りぬ、津軽堺境には非人小屋を建て、地図より追返さるゝ者に粥を食はしめ、此処に泊らしむる為なり、秋田に出れば作物少しは宜し、然ども皆かて飯粥抔にて食事大方津軽に同じ、庄内はさほど騒がしからず、最上は秋田に同じかるべし、仙台南部も悪しゝと聞けり、米沢より伊達郡に出れば先は半毛共見へたり、予も初て餓死人仲間を出し心地してほつと一息つきたりき、下野の国に出て寺子宿熊久保氏は兼て相知る人なれば、是にたよりて二三日長途の疲を養ふ、依て羽州にての物語をしぬれば、其事を記し呉よと内室の求に、矢立を執てあらましを斯く書付けるものなり。
尚ほ書残せしあり、秋田より庄内へ越る浜辺にて蘆の中へ野宿し、又其次の夜観音堂に一宿し、庄内の六十里と云へる峠の絶頂に夜を明せし事もあり、去ども天運未だ尽ざるにや食に飢し事もなく、斯く野宿しても貯の握飯あり又鰹節の用意あれば、目出度こゝ迄たどりつきぬ。