Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.10.20更新

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◇◇◇ 特別室 ◇◇◇

◆ 地方史研究協議会 大阪大会 A室 ◆

1999年10月16日〜18日

盛況のうちに終了しました


「地方史研究協議会」の第50回大会が、1999年10月16日〜18日、大阪府堺市で開催されます。 その間、随時レターニュースが発行されます。ここでは、大阪大会実行委員会の了承のもとに その一部を掲載します。

『地方史研究協議会 第50回(大阪)大会レター二ュース
−新しい地域史研究の方法を求めて−』

(編集発行) 地方史研究協議会第50回(大阪)大会実行委員会 (担当:藤田・古川)
(事務局)大阪電気通信大学 小田研究室 〒572-8530 寝屋川市初町18-8
TEL(0720)24-1131(呼) FAX(0720)24-0014
e-mail oda@isc.osakac.ac.jp

○協賛金の送り先○

 郵便振替 00930−8−130314  ロ座名:地方史研大阪大会実行委員会   こ面倒ですが、最寄りの郵便局からご送金ください。   若しくはお知り合いの実行委員に直接お渡し下さっても結構です。                     (会計事務担当・堀田暁生)


『地方史研究協議会 第50回(大阪)大会レター二ュース No13』 1999.10.1

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<私の提言>
●大阪大会の開催に際して● 高島緑雄(地方史研究協議会会長)

 はからずも昨年の地方史研究協議会総会において会長に選出された私の初仕事は、11月8日に八尾市立歴史民俗資料館で開催された第1回大阪大会準備研究会に出席したことでした。すでに昨年の4月には、委員長北崎豊二氏、事務局長小田康徳氏を中心に実行委員会が発足していましたから、私は中途参加ということになりました。そこで感激したことは、「高安城を探る会」など市民の研究会による生き生きとした報告があったことでした。私は地方史研究の原点をそこに感じ取りました。

 その研究会を通知する本誌第1号の発行からちょうど一年間で、大会直前のこの号を入れて13号が発行されました。そこに掲載の諸論考、研究会と実行委員会・事務局の活動記録等々に、大阪の方々がきたる大会に懸ける強い意気込みが籠められています。実行委員会は10月3日プレ大会前日の第15回目の開催で、その任務を完遂するとのことです。私は実行委員会が果たされていた昨年以来のご努力に、深い敬意を表し、厚く御礼いたします。

 ふりかえって25年前の大阪大会は、大阪歴史学会と地方史研究協議会との共催でした。しかし今回は15団体の協賛があり、関西と大阪中心の専門学会にならんで、多くの市民の研究団体に賛同をいただいています。また共通論題の発表者は、大学在籍の研究者にかぎられない、文書館・博物館・自治体史編纂・市民研究団体の方々が予定されています。これこそこの25年間の地方史研究と運動が達成した成果の反映であり、地方史研究協議会が一途に目的としてきたものでもあります。10月16日から18日、中秋の良き季節に「サンスクエア堺」で全国の会員が相見え、研究と親睦の時をともに過ごしたいと念願しています。

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●大阪大会を目前にして●  北崎 豊二(大阪大会実行委員長)

 昨年春から準備を進めてきた地方史研究協議会第50回記念大会も、いよいよ目前にせまってきた。

 大会実行委員会は、発足以来たびたび会合を開き、大会にむけてさまざまなことを試みてきた。その一つが、大阪大会を単に会場が大阪であったというだけで終わらせないために、八尾その他の地で準備研究会を開催した。幸い、どの準備研究会においても、多くの参加者があり、地方史研究協議会に対する理解を深めることが出来た。これを契機に、各地の研究団体や研究者との交流が深められることを期待したい。

 次に、大会運営のための費用を、主として大会協力者の協賛金によってまかなうことにした。各地で開催した準備研究会の席上や、大会レターニュースなどで協力を御願いしてきたが、皆様方の御協力により、ほぼ目標額に近い額に達した。それだけに、大阪大会は是非成功させなければならない。

 今大会の共通論題を「巨大都市大阪と摂河泉−新しい地域史研究の方法を求めて−」としたが、この共通論題に対する報告を10人の方に御引き受けいただいた。それらの方には準備研究会での報告につづき、10月3日のプレ大会での報告、そして大会当日の報告と、3度にわたって報告していただくことになった。すべての方の予備報告を聞かせていただいたが、ユニークな報告が多く、大会参加者の期待にこたえ得るものであると、わたしは思っている。

 ところで、大会運営委員の方々には、実行委員会や準備研究会に、遠路はるばる毎回御臨席給わり、種々御助言をいただくなどした。また実行委員会事務局の方々には、レターニュースの発行や会場・巡見の準備などで御世話になった。この機会をかり、大会開催に御協力いただいた皆様方に、大会実行委員長として、厚く御礼申し上げると共に、大会の成功を祈念したい。

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○その他の記事
 ・巡見についてのご案内
 ・催しのご案内 
     「久米田の歴史と美術」 岸和田城天守閣
 ・大阪と摂河泉を考える「大阪の町びとの「誉れの自治」とは何であったのか」
       伊勢戸佐一郎(地方史家)
 ・地方史の文箱「大阪市報効会」(北泊謙太郎 大阪大学大学院)
 ・実行委員会・事務局の活動日誌
  ほか


『地方史研究協議会 第50回(大阪)大会レター二ュース No12』 1999.9.10

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<私の提言>
●大阪大会を契機に考えたこと● 中野 達哉(板橋区史編さん室)

 1997年秋、地方史研究協議会では、西暦2000年に50周年を迎えるにあたって会員の方々にアンケートをお願いした(結果は『地方史研究』273・275号に掲載)。そこでは、現在の問題点として「活動が中央(関東)にかたよっていて、必ずしも地方史になっていない」「東京中心」というご意見が多数聞かれた。やはり、東京・関東中心というイメージであり、実際、活動も偏っているのであろう。こうした批判とともに、回答者624名のうち、関東居住者が353名(56.6%)を占め、第二位の近畿86名を大きく引き離していることも事実としてみられた(名簿でもほぼ同様の比率)。

そうしたなか、第50回記念大会が大阪で開催されることになった。大阪で大会実行委員会が組織され、八尾・泉佐野・大阪天満宮・尼崎・堺・大阪狭山とまわり、地域の人たちと共同しての研究会が催された。各地の研究者や研究団体・機関と接触し、研究と研究者の底の深さ・地域の多様性を目の当たりにした。巡回式での準備研究会は初めての試みと思われるが、大会を広め、また、地方史研究協議会として運動していく上でも、基本的な活動ではなかったのではなかろうか。今後、「協議会」として再認識することの必要性を考えさせるとともに、各地の横のつながりが、より一層求められている。

 一方、関西・関東ともに地方史・地域史研究が盛んな地域で、近年では両者による共同研究会なども開催されているが、両者の交流は多いとは言えない。私自身も関東をフィールドに近世史を研究しており、関西の研究は耳にしても、大枠を掴むだけでそこで終わってしまう。しかし、ともに大阪・東京といった大都市を抱える関西・関東は、近世の広域支配の問題など近似する点が多いことも明らかになっている。準備研究会での渡邊忠司氏の発表でも、近世大坂周辺の村々が町方・代官の両支配を受けた点などを注目されたが、江戸での本所・深川などの支配体制を思い起こさせた。広域な地域のなかで地方史・地域史を考えるとともに、関西・関東といった広域な地域間での研究のつながり・協業がより密接に行われることも必要になってくるであろう。

 第50回大会の準備を進めるなか、関西地区の研究者および研究団体・機関の連絡会をもとうという気運が高まっていることをうかがった。東京の多摩地区では、1990年の第41回(多摩)大会を契機に市町村の社会教育課が共同して出版物の販売会「多摩郷土誌フェア」を開催し、今年で11回を数えている。地域を軸とした活動、そして、地域間でのつながりや協業が、より一層重要になってきている。

 なんだか感想めいた提言となった。関西について右も左もわからないまま大会準備のお手伝いをしてきたが、第50回大会は意外とおもしろい。これがこれからは本当におもしろくなってくる。

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●プレ大会のご案内

大会での報告時間は、一人当り報告30分、質疑応答5分とたいへん短くなっています。このような中で、報告を充実させるため、大会を間近に控えた10月3日、大会と全く同じ条件で報告討論をやるプレ大会を実施します。報告者の準備状況を確認し、大会での報告を支えるためにも多くの皆さんの御参加を期待します。

     日時  10月3日(日)午前9時50分より午後4時15分まで。
                                                  (昼食時休憩)
     場所 大阪市立こども文化センター
                 大阪市西区北堀江4−2−9
                       電話 06−6531−5975
論 題 報 告 者
古代都市難波京と摂津・河内 積山 洋 氏
港湾都市に集う念仏僧たち−中世和泉・摂津における四条道場系時衆− 小野澤眞 氏
在地勢力と南北朝内乱−和泉国から見る− 井田寿邦 氏
中近世移行期における在地「寺内町」の動向 大澤研一 氏
摂河泉における近世都市遺跡の様相−伊丹郷町遺跡を中心として− 川口宏海 氏
近世畿内の地域編成と「支配所」−大坂三郷と周辺幕領農村を中心に− 渡邊忠司 氏
近世灘酒造業と水車業−産業技術の展開と地域社会−寺田匡宏 氏
近世・近代の堺と巨大都市大阪 吉田 豊 氏
近代大阪の住宅と住宅地について−長屋建住宅の場合− 和田康由 氏
大阪西淀川地域における公害問題と住民運動 片岡法子 氏

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○その他の記事
 ・巡見についてのご案内
 ・催しのご案内 
     「高野街道と狭山」 大阪狭山市立郷土資料館特別展
 ・刊行物のご案内
     「河内長野市史」
     「大阪狭山市史」
     「泉大津市史」    
 ・地方史の文箱「北摂農民の「野望」」中川すがね
 ・実行委員会・事務局の活動日誌
  ほか


『地方史研究協議会 第50回(大阪)大会レター二ュース No11』 1999.8.12

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〈私の提言〉
大阪大会への期待● 久保田 昌希(駒沢大学)

 地方史研究協議会は1950年に創立され、それまでの中央史的な研究や、また狭隘な「郷土史」から脱却し、全国的な視野に拠って一地方の史的究明をめざすために、全国の地方史研究者や研究団体が相互の連携をもち、地方史料の整理と保存を運動体として実践しつつ今日まで活動を続けてきています。

 当初は協議会という団体相互の連絡機関として出発しましたが、現在は他の歴史学会と同じく個人会員に支えられています。会員数は全国で約1850人(機関会員も含む)です。もちろんここまで本会の活動に問題がなかったわけではありません。高度経済成長下における社会のさまざまな変貌や歪みにたいして、本会が地方史研究を掲げながら、それへの対応の未熟さを起因として、幾多の批判があったことも否定できない事実です。「地域史」の提唱は、その最たるものといわれています。

 しかし今日、地方史と地域史と「どこ」が「どう」違うのかということになりますと、地域史が提唱された時点とくらべると、その「違い」がきわめて曖昧になっているといえるのではないでしょうか。とすると、かつて地域史が強調・提唱したほど、実態としては地方史と地域史にもともと大きな違いはなかったのでは、とも思えてきます。何も地方史への批判をはぐらかしてしまおうという意図ではありません。これは大阪大会のサブタイトル「新しい地域史研究の方法を求めて」について、なぜ「地方史」ではなく「地域史」なのか、という点についての取り敢えずの感想です。

 ところで大阪での大会は25年前にも開催されています。大会共通論題は「地域概念の歴史的変遷」でした。それまでの共通論題にありがちだった「…地方の諸問題」から脱却した、斬新な取り組みだったと思います。当時私は、本会の事務局書記をつとめさせて頂いており、大阪に参りましたが、全国学会へのほとんど初めての参加ということもあったと思いますが、その会場の熱い雰囲気に緊張したことを覚えております。それは今回、改めて当時の『地方史研究』や大会成果論文集をめくった折りにも伝わって参りました。もちろん25年前と現在の議論を直に結びつける必要はありません。しかし本会大会というものが今後、再度或いは再々に同一地域で行われていく可能性もあるわけですから、当該地方・地域にとって、また本会にとっても、新たにどのような研究視点と成果が得られたのか、25年というその時間的経過のなかで蓄積されてきた摂・河・泉における地方史研究の重みを、しっかりと受けとめたいということです。

 一昨年より、本大会準備の過程で大阪に伺いながら、大会実行委員の方々との交流や、新たな地方史研究者の方々との出会いを通して実感できることは、大阪大会とは本会にとりまして、「何か」新しい大会設定の一方法を考える上にも貴重な経験ではないかということです。まさに50回大会として、実質的な意味での「記念大会」として、ふさわしいものになるだろうと期待しています。

 なお、大会内容については、大阪大会実行委員会との議論の結晶でもある「大会趣意書」により、すでに大会での発表・討論の指針は明白ですが、私なりにまとめるならば、大阪という「巨大都市」の歴史=成り立ちを通して、人びとの生活の有り様が、その構造と予盾にどのように立ち現れ、連鎖し、また現代都市およびその周辺部を含む地域社会を規定していくのか、ということだと考えています。

 さて、残暑のなか、これから9月にかけまして、最後の調整や確認が行われ、いよいよ10月を迎えますと大会は差し迫って参ります。大阪大会実行委員会、本会大会運営委員会・常任委員会・事務局それぞれが、役割分担をもち大会への流れが作り出されていきます。月並みな言い方ではございますが、会員の方はもちろんのこと、非会員の方も地方史研究に興味をお持ちであれば、10月16日(土)・17日(日)に「サンスクエア堺」へ、また18日(月)には摂・河・泉の巡見へ、多数お出かけ下さいますよう、よろしくお願いいたします。

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●第9回準備研究会御案内

 準備研究会は大会での報告を充実させるため、報告予定者の報告を中心に実施しています。前回は炎暑の下4人の報告者、24人の方々のご参加によって、充実した研究会となりました。今回は、井田寿邦・大澤研一・吉田豊の三氏の報告です。それぞれの方の報告内容については、この後の報告要旨をご覧いただければお分かりになると思いますが、大阪と摂津・河内・和泉に視座を置き、その構造や支配のあり方を中世から近代にわたり検討していくことができるのではないかと考えています。今回も暑い日が予想されますが、多くの方々のご参加と積極的な意見を期待します。


 日時	8月28日(土)	午後1時30分より5時まで
 場所	大阪市立西区民センター(地下鉄西長堀駅下車7番出口)
在地勢力と南北朝内乱−和泉国から見る− 井田寿邦氏(泉佐野の歴史と今を知る会)
中近世移行期の在地『寺内町』の動向 大澤研一氏(大阪市立博物館)
近世・近代の堺と巨大都市大阪 吉田 豊氏(堺市博物館)


報告者と報告要旨

 
在地勢カと南北朝内乱−和泉国から見る−井田寿邦氏(泉佐野の歴史と今を知る会)

 数多くの歴史書が出されているが、たとえば南北朝時代の和泉地域ではどのように展開したのか、という課題に即した歴史書を見たことがなかった。そこで以前に和泉地域における南北朝期の内乱の展開を、出来るだけ多くの史料によって描き出そうとした(拙稿「泉南地域における南北朝内乱」−泉佐野の歴史と今を知る会『会報』第95〜110号参照)。その結果、和泉地域に視点を置いて南北朝期の内乱の展開を見た場合、5つの時期に大きく区分され、また1350年代前半までは足利方の影響力が強く及び、それ以後、70年代半ばまでは後村上天皇・長慶天皇方の影響下にあり、その後ふたたび足利方の影響下に入ることがわかった。

 しかしそれぞれの局面で在地の諸勢カがどのような行動を取ったのか、あるいは取らなかったのか、検討すべき課題も数多い。とりあえず南北朝内乱の開始時期および1350年代前半の転換点に焦点を合わせ、在地の諸勢カがどのように関わり、また関わらなかったのか、またそれぞれの背景は何であったのかを整理しておきたい。これといった「新しい地壊史研究の方法」を即座に提示することはできないが、地域あるいは地域の動向・特徴を考えていく素材としていきたい。

  
中近世移行期の在地『寺内町』の動向大澤研一氏 (大阪市立博物館)

 寺内町とは主として浄土真宗の寺院を中心に展開した町場で、16世紀以降、摂河泉で多数誕生した。この寺内町をめぐっては、これまでにも経済史の側画から在郷町との連続性や、また一向一揆の拠点という側画から織豊政権成立のための克服対象という観点から研究が進められてきた。また、近年ではその杜会構造が注目され、都市民の志向という視点から先進性をもった中世都市との評価が与えられてきている。

 これらの研究はいずれも重要なものであるが、在地の寺内町の多くが現在でも人口密集地である点や、近年の発掘事例が寺内町の現地割が中世まで遡らない可能性を強く示唆している点を念頭に置いた場合、寺内町が中近世移行期の激動の時代をどのように乗り切ったのか、またその背景となる条件とは何であったのか、という点について明らかにする必要があると思われる。私見では、そのためには従来あまり触れられることのなかった豊臣政権期−慶長期の寺内町の動向と地域内における機能についての検討が不可欠であると考えている。

 本報告では主に河内国の寺内町を題材に、以上の見地から中近世移行期の在地『寺内町』の動向について検討を試みたいと思う。

 
近世・近代の堺と巨大都市大阪吉田 豊氏(堺市博物館)

 室町後期の堺は「全国の金銀の大部分が集まる所」(ザビエル書簡)であったが、『西遊草』に「堺は古しへ豪富の地なるを、坂都に城ありてよりしだひに衰微いたし、世に三衰徴という。堺及奈良・鎌倉なり」(安政2年・岩波文庫)と記されたように、江戸時代になるとしだいに大坂に無栄を移す。また明治初年に堺県が置かれ、和泉・河内のほか大和全域をも合わせた大県となるが、14年には府知事の要講等で大阪府に合併される。このように、近世以後の堺の盛衰は、大阪との関係を抜きには語れない。

 しかし、大阪と同じ摂津国に層した兵庫(神戸)が県庁所在地として現在に至るのに対して、和泉(北半は摂津)に属した堺はなぜ大阪府に吸収されたのだろうか。あるいは、都市の繁栄はどのように移動するのだろうか。都市間における政治的、産業・経済的な関係については、都市と周辺農村との関係以上に明らかになつていない部分が多いように思える。

 本報告では、巨大都市大阪の発展が周辺地域にどのような影響を与えたかについて、堺という都市の盛衰を中心に考えてみたい。ただ、発表時間や史料上の制約、予想される報告者の準備不足などのため、以下に例示した項目のうち主として(2)と(6)、および(3)と(6)の一部をとりあげ、できるだけ具体的に堺と大阪および周辺諸都市どの相関関係をみていくことにより、これらの疑問の一端を明らかにした。

(1)江戸前・中期の糸割符貿易。
(2)江戸中期の各種職人数。
(3)江戸中期から明治前期の商品移 出入数・額。
(4)幕末期の関港・開市。
(5)明治期の鉄道路線の開設。
(6)明治後期から大正期の大都市近郊リゾート開発。

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○その他の記事
 ・巡見についてのご案内
 ・催しのご案内 
     門真市歴史資料館「消防の歴史」
     リバテイおおさか「皮−今を生きる技−」
     WTC「開化大阪と川口居留地」 
     堺市博物館「百舌鳥古墳群」
 ・地方史の文箱「地域と「宝物」」村上大輔(大阪市史料調査会)
 ・実行委員会・事務局の活動日誌
  ほか


『地方史研究協議会 第50回(大阪)大会レター二ュース No10』 1999.7.21

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〈私の提言〉
都市史、阪神大震災、そして記録の保存● 芝村 篤樹(桃山学院大学)

 阪神大震災から四年半がたったいまも、震災直後に被災地で見た風景は忘れられない。尼崎市と西宮市を分ける武庫川を渡ると、世界が一変していた。一日を被災地で過ごして大阪にもどると、そこではネオンのもと、いつもと変わらない日常の風景が広がっている。倒壊した家、傾いたビル、ガスのにおい、恐怖と緊張のさめやらぬ人々の表情。被災地で見たものが幻影なのか、それとも見慣れた情景が嘘であったのか。そのあまりの落差に、吐き気をもよおす程の衝撃を受けた。

 かつてのわたしの生活圏は、震度七の激震地の帯にすっぽりとおさまる。十数年前に大阪に引っ越すまで、何年かの中断をはさみ、場所も三カ所ほど変わってはいるが、西宮は人生の過半を過ごした地である。当然、親類・縁者、友人・知人も多い。関東の人には解りにくいだろうが、大阪・京都・神戸は、それぞれ微抄に異なった都市圏を形作っている。西宮は神戸都市圏に属する。たとえば中・高生のとき、遊ぶ街といえば神戸であった。その原風景が崩壊した。被災者に比べ取るに足りないが、悲哀の思いはある。

 被災地で、1995年1月17日の「まえ」と「あと」ということが語られていると聞く。それは、新しい歴史意識の芽生えのように感じられる。とはいえ、被災地でも、まだその中味は明確ではないようである。わたしも、あのときのあの衝撃と原風景喪失の悲哀の思いを手がかりに、都市史における阪神大震災の意味を考えたいと思っている。

 1923年9月の関東大震災について、同年11月の「国際産業上の覇権と社会改造」と題する講演において、当時は大阪市助役で、やがて第七代市長に就任する関一(せき・はじめ)は、おおよそ、つぎのように述べている。明治文明の「精華」たる東京の崩壊は、維新以来の明治文明が「いかさま」であったことを表す。震災に際して人々を救ったのは、芝公園など徳川時代の産物であった。一見立派に見えるビルも、基礎のしっかりしていないものはことごとく倒壊したように、日本社会の基礎の脆弱さを露呈したのが今回の震災であると。関は維新後50年余の関東大震災の結果を、明治文明=日本近代総体のゆがみの表れととらえた。同じように、戦後50年にして勃発した阪神大震災も、戦後総体の矛盾が露呈したものと考えられる。震災の「まえ」と「あと」という被災地の歴史意識には、もっと大きな文明史的スパンが内包されているのかもしれないが。

 阪神大震災に関わる書物の刊行が盛んである。学会や行政の行なった調査報告の類、マスコミなどの映像資料も数多く作成されている。これら震災記録の収集、保存・公開の動きも広がっている。主なものだけ挙げても、神戸大学付属図書館の「震災文庫」、ボランティア団体の「震災・まちのアーカイブ」、尼崎市立地域研究史科館、それに被災県・市で組織されている阪神・淡路大震災記念協会などにおいてである。わたしは震災記念協会の仕事の手伝いをしている。課題の重大さに対して、なし得ることの小ささに呆然とさせられることが多い。たとえば、刊行物はともかく、避難所の資料など一次資料の収集には困難が多く、被災自治体の行政資料の収集体制も未確立である。

 歴史としての阪神大震災の研究は、まだ本格的には始まっていない。わたしが現役のうちには無理かもしれない。しかし、資料保存の手伝いは続けようと思うし、阪神大震災の歴史的意義は模索し続けたいと思っている。

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第8回準備研究会御案内

前回から、準備研究会は大会での報告を充実させるため、報告予定者の報告を中心に実施しています。前回は梅雨空の下3人の報告者、25人の方々のご参加によって、充実した研究会となりました。 今回は、積山洋・小野澤眞・寺田匡宏・片岡法子の四氏の報告です。それぞれの方の報告内容については、この後の報告要旨をご覧いただければお分かりになると思いますが、大阪と摂津・河内の都市に視座を置き、その構造や支配のあり方を中世から近代にわたり、また、考古学的視点と文献の双方から検討していくことができるのではないかと考えています。暑い日が予想されますが、多くの方々のご参加と積極的な意見を期待します。  

  日時  8月7日(土)
  午後  1時30分より5時まで
 場所  大阪電気通信大学(京阪電鉄京都線寝屋川市駅下車)A号館1階大会議室

報告者と報告要旨

古代都市難波京と摂津・河内 積山 洋氏(大阪市文化財協会)

 都市とは、単に多数の人口の集住地であるのみならず、非食料生産者である都市民の生活を支えるために、周辺地域に大きな経済的基盤を必要とする。都市は周辺村落とつながりがなくては存在できないし、また周辺村落も政治・経済・文化の求心地である都市から絶えず大きな影響を受ける。今回の報告では、こうした観点から古代難波京とその周辺地域の様相を、発掘調査のデータをもとに計画地割の問題に絞りつつ、以下のように探ってみたい。
 1.難波京の諸段階
(前史−難波宮下層遺跡の展開)、@難波遷都と前期難波宮の建設(孝徳朝)、A方格地割の芽生えと挫析(天武朝)、B後期難波宮の建設と京域の大規模建設(聖武朝)  2.摂津・河内の正方位地割
@計画道路の施工(7世紀末ごろ)、A条里制の展開(8世紀) 現時点での見通しは以下の通りである。7世紀中葉の前期難波宮建設段階では、宮のごく近辺の建物群に一定の変化は見られるものの、広域的な京域整備は認めがたい。およそ7世紀末〜8世紀初頭までに京域で正方位の方格地割が部分的に登場し、また「朱雀大路」も敷設されたとみられる。これは天武朝の複都制の詔と連動したものであろう。ほぼこれと相前後して、南摂津・河内で正東西の「磯歯津路」の敷設も想定され、また河内では部分的ながら正方位の水田畦畔も出現している。天武末年に焼失した難波宮は8世紀に再建される。この際、各所で盛土を伴う大規模な京の建設が行われたようである。水田においても、長原遺跡では坪境の大畦畔が現行条里と同位置で検出される例がしばしば認められる。このように、難波京と周辺地域では、遅くとも8世紀初頭、おそらくは天武朝の7世紀後半〜末ごろ、広域的かつ一体的な都市計画と道路敷設が実施されたらしい。だが、その割に天武期の京建設の痕跡が意外に少なく、むしろ盛土を伴う大規模な工事は8世紀に例が多い。それはなぜか。できればこの点も併せて考えてみたい。

港湾と都市に展開する念仏僧たち−中世大阪湾岸における四条道場系時衆− 小野澤眞氏(清浄光寺)

 時衆は史料にその動向はあまり残されず、また学界における時衆に対する概念規定が今ひとつ明確でない点などもあり、研究の俎上に乗せて論及されることは多くない。時衆十二派と呼ばれる諸教団のうち、四条派(以下四条派系の時衆を四条時衆と略)は畿内で強力な教線を張り発展していた。本研究では四条時衆が和泉・摂津においていかなる展開をとげたのか見ることで都市における中世勧進聖のありようをたどってみたい。  一遍の有力な高弟・他阿真教は門弟三名に賦算(念仏札配布)権を認め、うち四条派租・浄阿真観は洛中で後伏見上皇らの帰依により勅許上人号を得、本寺四条道場金蓮寺地は佐々木道誉の寄進で四条通り・祇園一帯は寺内であるなど、下層の民衆から貴紳に至る幅広い崇敬をうけていた。末寺は東海・近畿に広がり尾張・熱田円福寺、近江・木ノ本浄信寺、和泉・堺引接寺(いんじょうじ)、摂津・尼崎寿通寺は中本寺であった。全般に末寺は@都市A街道筋B港湾C大寺大社門前に位置するのが特徴である点、時衆の中でも四条派は顕著である。その日的は結縁にある。大阪湾岸では和泉国堺四、摂津国尼崎四、大和田一があった。
 時衆は人々の決定往生・安心獲得につくす一方、葬送、死者(特に怨霊)鎮魂、下層民衆(含女人)済度などの機能を果たした。それは信不信・浄不浄を問わず悉皆成仏という時衆教説の特質を発揮したからである。さらに時衆には現世利益と来世往生の両面が期待できる性格をもつ。堺が自由都市として発展した背景には時衆的な現世中心の極楽思想が重なるし、阿弥衆に発する千家の茶道などは四条時衆の影響がある。彼らのこうしたいきいきとした活動は近世の寺請制などの政策下で圧殺され、現在の尼崎での六→一、堺での四→〇の寺院の激減は象徴的である。

  
近世灘酒造業と水車業−産業技術の展開と地域社会−寺田 匡宏氏(大阪大学大学院生)

 「巨大都市大阪と摂河泉」「新しい地域史研究の方法を求めて」。この問いかけにどう答えるか。私は近世灘酒造業と水車業の関わりの解明を通じてその糸口を探りたいと思っている。
 なぜ灘酒造業と水車業なのか。その理由は3つある。第一に、近世西摂という地域について考えると、この場所は大坂の近郊に位置し、商品経済の発展により大坂と密接な関係を持った(八木哲浩『近世の商品流通』・津田秀夫『封建経済政策の展開と市場構造』)。その地域を分析することは巨大都市大坂と周辺地域の関係を洗い直すことにつながる。第2に酒造業と水車業の関わりに注目する意味を考えると、この研究は未だ十分展開していない。灘酒造業の研究蓄積はあるものの(柚木学『近世灘酒経済史』)、その地域社会内での位置は明らかではない。水車は経営基盤や水利との関わりにおいて村社会と密接に関わる。両者の関係を見つめることで従来明らかではなかった灘酒造業と地域社会の関係を明らかにしたい。第3に、現在の地域社会論における課題を考えると、従来抜けていた視角を獲得することが求められている。これまでの村連合・村政中心の視座から、経済的・社会的側面への着目の必要が提起されている(99年度歴史学研究会大会)。産業技術と地域社会の関係に着目することでその問いかけに応えたいと思う。

大阪西淀川地域における公害間題と住民運動 片岡 法子氏(あおぞら財団)

 大阪市西淀川区は、淀川の北西部、大阪湾に面し、兵庫県との県境に位置する。阪神工業地帯の中核地域でもあり、高度経済成長によって急激に発展した。一方、大気汚染を始めとする公害問題が深刻化し、国内で最も多くの公害病患者を出した地域のひとつでもある。1978年に提訴した西淀川大気汚染裁判は、1995年には企業との間で、1998年には国・道路公団との間で和解が成立し、現在は行政・企業・市民とのパートナーシップによって公害地域の再生事業が進められている。本報告では、1960〜70年代における西淀川地域の大気汚染問題と住民による公害反対運動について検討する。まず、大阪市域が拡張していくなかでの当該地域の位置と特色について考察したい。次に、当該地域における公害反対や公害病患者による運動の成り立ちと担い手について、運動をリードした側と参加していった側の両面から、その実像に迫りたい。最後に、1970年前後の大阪府内各地における公害現象の表れ方と問題化、反対住民運動において、西淀川地域の公害問題と住民運動がどのような特徴を持つにいたったのかを明らかにしたい。

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