下巻 国事及安寧第二 |
大阪御代官根本善左衛門風聞取御勘定奉行へ被差越候書付の写(続)
一 昼八時頃淡路町辻合にて山城守も玉造組与力同心を随出会、纏を先に立、纏に随分、先手を進退致し候積、先手与力同心は町屋左右の軒下に立並、引続山城守手勢、横町に相備候処、徒党方よりしきりに玉込候大筒を打候に付、先手は玉下を潜り、鉄炮打出候処、竹槍を持候百姓二人打倒し候処、徒党方大筒玉込致候処を、玉造与力坂本源之助儀、覘打にて右玉込致候者を打倒候に付、勝色を顕し、凱を揚、相進候に付、徒党の者共、大筒小筒、火矢、槍太刀其外荷物捨置逃散、山城守人数の内手負の者も無之由、御威光盛の儀奉存候、
一 出火の儀は西北風強焼広がり、町方人数も相防き、曲淵甲斐守、本多大膳并人数召連相加り、消防二十日夜四つ半時頃鎮火に相成、御城内向御別條無御座候、
一 御城御門々、御城代御定番厳重に相固め、松平遠江守人数は二十日昼頃岡部内膳正人数は、同日夕刻追々出張相固候由御
座候、
右は大阪騒動始末、先達てより追々申上候得共、書面の趣尚又申上候、以上
西三月 根本善左衛門
下げ札
町奉行手配の儀は、徒党の者共定て天神橋を渡、押寄可申に付、天神橋手前切落、徒党の者共橋半途迄渡り候節、俄に町奉行の手天満橋を渡り、後より打立候はゞ不残搦捕可申手筈の由、然る処、天神橋切落有之趣、徒党候者聞及候哉、直に難波橋を渡り候趣に相聴申候、