Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.1.26
2000.2.19訂正

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「洗心洞通信 10」

大塩研究 第10号』1980.10 より

◇禁転載◇

 
◇第六回総会と記念行事

 恒例の三月末にひらく予定であった総会が都合でのび、四月五日午後一時から成正寺で開かれた。大塩父子および関係殉難職者怨親平等慰霊法要と墓参をおこなったあと、大阪城天守閣学芸員内田九州男氏の「大塩の乱と渡辺村」と題する記念講演があった。

 内田氏は本誌(6)・(7)に発表した「大塩の乱と部落住民」に対する批判をとり入れて、改めて大塩事件と部落問題の関連を考えようとされた。部落住民の参加の実態はなかなか明らかにしにくいが、大塩蜂起のねらいは、腐敗下っ端役人と市中の大金持の暴利を「除去」しようとして全体として封建体制擁護論者であり、垣外番(「四ケ所奸人」という表現、うち殺しても可とする考え)や歌舞伎役者をことさら「河原者」と表わす檄文の文言からして強く身分制イデオロギーを抱いていたとする。したがって大塩は、するどく部落住民の解放への願いをとらえながら、そのエネルギーを乱のために利用する組織方法をとったとされた。部落住民側の意識は大塩には好意的で、しかも大塩とは別の考えで解放を口にする動きを示した(泉州南王子村)と位置づけられた。

 このあと第六回総会を開き、二月末日付の会計中間報告、会務報告などあった。また会則の一部改正があり、第五条の役員について「会計監査 若干名」を加えることが承認され、相蘇一弘・内田九州男の両名が選出された。任期は他の役員と同様二年間で、四月一日の新年度から就任される。若手の両氏の活躍が期侍されている。

◇第九回例会と大塩平八郎史跡顕彰碑除幕記念行事

 かねてから大阪市の手で大塩家菩提寺である成正寺に墓所碑が建てられることを住職有光友逸師や関係者が念願していたが、ついに実現し、四月二四日に同寺門前の東隅に建てられた。

 大阪市教育委員会による顕影史跡碑の建立は、市政七〇周年の記念行事としてさる一九五九年からスタートし、市文化財顕彰委員会の選定で毎年三・五カ所ずつ建てられ、ついに成正寺がその対象に選ばれた。

 碑はみかげ石づくりで高さ一・三メートル、二二センチ角で、正面に「中斎大塩平八郎墓所」、右側面に「東町奉行与力で陽明学をきわめ 天保八年(一八三七)民衆の窮状を救おうと決起したが事敗れて自刃した 明治になって門人らが墓を建て戦後再建された」とあり、裏面に「昭和五十五年三月 大阪市建立」とある。残念なことに碑が寺の塀に接して建てられたため、右側面を写真撮影できないようになっている。

 今年度の文化財顕彰碑は、このほかに手形交換所発祥の地(東区北浜五、住友銀行本店東玄関前)と新町九軒桜堤の跡(西区新町一、新町北公園内)が建てられ、全部で建立碑は一〇四カ所を数えることになった。なお中斎碑の建立には本会副会長米谷修氏の尽力があった。

 六月七日午後一時から成正寺(大阪市北区末広町一−七)で法要・墓参のあと、小雨のふるなかを史跡顕彰碑の除幕式をおこない、読経後岡本良一氏の手で除幕された。

 つづいて記念講演に入り、大阪市教委文化振興課長有田嵩氏が「大阪市の史跡顕彰事業について」、岡本良一氏が「大塩平八郎を語る」と題してそれぞれ講演された。岡本氏は「役人録」をつかいながら、文化四年には大塩政之丞と文之助(中斎の幼名)の父子が記されていたが、のち文化年間は名がなく、文政元年にいたって平八郎の名が再ぴ記されていることから、世にいわれる「江戸遊学」が文化期にあったのではないかと興味ある問題を示唆された。なお住職有光友逸師も「大塩家と成正寺」について過去帳を示しながら報告をされた。

【写真 省略】
(成正寺門前の「中斎大塩平八郎墓所」碑と住職有光友逸師)

◇会員の訃報

 前号につずいて会員の訃報をのせることになった。これからますます大塩研究の成果をあげられることが期待された会員があいついで急逝され、本会としても痛恨のきわみである。謹んで御冥福をお祈りする次第である。

 大森実氏が、本年六月十四日に急逝された。享年六五歳。同氏は近年能勢騒動の研究に意欲を燃やし、能勢地方をくまなく踏査して多くの史料を収集されていた。昨年六月に「天保八年北摂百姓一揆考−山田屋大助騒動−」を自費出販された。克明な調査を基礎に、多田銀山の堀子の参加の推定、銅輸送にあたった池田馬借の役割など卓見を示され、今後さらに研究の大成が期待されていたが、にわかに病状を発し、白血症で死去された。

 氏は広島高等師範を卒業され、その後中国で七年間転戦されたのち、志をたてて神戸大学経済学部および大学院で中国経済を専攻された。大阪府立池田高等学校に一八年勤務され、このときに能勢騒動についての関心を深められたのではないかと思われる。のち茨木高等学校教頭に進まれたが、学園紛争中体調をくずして退職された。その後甲南女子大学・箕面学園に勤められ、本格的な研究にとりかかられた折柄であった。

 入院の直前に郷里松山へ墓参され、その折本会々員で同窓の石丸和雄氏と会談された。氏の遺骨を納めたとき、石丸氏が漢詩を添えられた。一周忌までに遺稿をまとめる計画が御遺族の手で計画されていると聞く。

 イギリスのオックスフォード大学のポードレイアン図書館の東洋書籍部のジョン=パン氏(MR.John Bunn, Department of Oriental Books,Bodleian Library Oxfordが最近若くして急死された。本号記念特集号の会員一人一言の寄稿をお願いしたところ、上司のA.D.S ロバーツ氏(Roberts)からの八月二一日付航空便で不幸にも死亡されたむねの便りが届いた。

 バン氏は「大塩研究」のパックナンバーを申込まれ、東洋研究資料として本誌を高く評価され、たぴたび日本語の便りがよせられていた。

 この五月には、本会役員の中瀬寿一・大阪産業大学教授が留学中の一日をさいて、オックスフォード大学で三時間にわたって面談され、数万冊におよぶ日本関係図書の書庫の案内をうけたばかりであった。同教授の会談ニュースによると、バン氏は一九七三年から一年半東京大学に留学し、七七年二月からオックスフォード大学に勤務されていた。専攻は日本近代文学であるが、『史学雑誌」(回顧と展望)や『地方史研究』で本誌を知り、徳川時代がここから終る重要な事件として大塩の乱に注目し、地方史研究上貴重な文献として高く評価されていたそうである。

 ロバーツ氏の便りは、この悲報を報ずるとともに、引続き同図書館への送本を継続するよう希望し、後任のきまり次第担当者名を連絡するとのことである。そしてこの「悲劇」を本誌で触れてくれるよう要望されている。国際的なひろがりの場を最初に提供されたバン氏の夭折を心から悼むとともに、同大学との一層の交流がすすむことを希望する。

◇岩佐富勝氏『天保の青雲 −阿波人・大塩平八郎」を発刊

 平八郎の出生については、かつて阿波説が有力であったが、幸田成友氏の『大塩平八郎』が大阪出生説を唱 えて以来姿を消していたが、石崎東国氏が再生させた阿波説をくんで、徳島の人岩佐冨勝氏が十年余精力的に調査し、本年一月教育出版センターから一書を出版された。徳島県脇町の墓石を手がかりに多方面にわたる執念の調査がついにみのったもので、平八郎自身の語らなかった阿波出生を強力に主張している。大いに論議をよぶことであろう。参考文献・図書目録と解説もありまことに行届いた内容である。「大塩中斎その出生の秘密をば脇町学叢のなかに探ねむ」と氏の短歌が地を這うような努力を語っている。本誌上で論争が展開されることを期待する。

◇『日本思想大系46 佐藤一斎 大塩中斎」の発刊

 本年五月に岩波書店から発刊されたが、佐藤一斎の著作とともに、大塩中斎の「洗心洞箚記」およぴ附録として「一斎佐藤氏に寄する書」が収められ、原文とともに福永光司氏の詳細な校注が加えられている。至便・適切な註釈書で、巻末に柏良亨氏による解説「『言志四録」と洗心洞箚記」)もつけられ、一斎の中斎批評と中斎の思想を整理している。蜂起を理解する上では多くの問題をかかえた独特の陽明学=中斎学の思想の研究が不可欠であり、その重要な手がかりを与えている。なお同書に付せられた「日本思想大系月報64」に、宮城公子の「諱は後素」という小文が収められており、論語からとった諱に中斎がこめようとした意図をさぐっている。

◇薩摩国への大塩一味手配

 大塩一件後その捜査網がどれほとのスピードで張られたかは、興味ある問題である。薩摩の『種子島家譜』第四巻(廿三代久道名跡五十三)にみる天保八年の項が、本土再南の地への情報をかきとめている。

 三月四日に「国老、大坂町奉行の命を伝ヘ、二月十九日大坂を乱妨するところの大塩平八郎父子及び其の与党瀬田・渡辺・近藤・庄司等を物色して、これを捜素せしむ」とあり、同じく三月十七日にも「国老島津但馬久風、再び長崎御目付石川数馬の命を伝へ、二月十九日大坂を乱妨するところの大塩平八郎父子及び其の余党を捜素せしむ」とある。

 事件直後すでに大塩らの薩摩逃亡説が風聞としてあり」またのちに種子島・屋久島へ関係者が流刑されることからしても、この間の事情は興味深い。鹿児島県立図書館でガリ版による「家譜」の翻刻で、この事実を知った。(前田愛子)

◇一工夫した機関誌発送局選び

 大塩事件研究会事務局の仕事のひとつに会誌の発送がある。普通便(第一種・定形外)なら一四〇円かかる送料が、書籍小包扱いにすると一二〇円ですむことに着目して郵便局の窓口に持ち込むこととなる。

 切手貼りを手伝ってくれる親切な窓口子もあれば、ぺージ数不足なとを理由に「小包」にならないなどと言い張るご仁もいて、近畿郵政局の見解を求めたこともあったが、正々堂々「小包」として通用することが認証された。

 普通便であれば、その地域の集配局のスタンプとなるが、小包の場合ば差出局(引受局)のスタンプが押捺される。「大塩研究」ふりだしの第一号が大阪市内の出入橋局、第二号が京街道に沿った関目で、以下大塩ゆかりの河内のむらむらの郵使局をつぎつぎと回り、つぎの通りとなった。

 第三号=玉井 第四号=楠根 第五号=野江 第六号=蒲生 第七号=土居 第八号=守口 第九号=布施。

 記念すぺき第一〇号は、いよいよ大塩出陣の地「大阪天満橋局」から発送の予定である。(久保在久)

◇司馬遼太郎の『峠」にみる陽明学

 大塩の蜂起は、勝算あってのことか、単なる大義のためかは議論のまとになることだが、その思想ゆえに行動があったとみることも、単なる経済主義的な解釈以上に必要であろう。幕末に越後国長岡藩の河井継之助がユニークな活動を示しながら、戊辰戦争でついに「譜代藩は徳川家に殉ずぺきである」という美意識から立ったことを、司馬遼太郎氏は「峠」のなかでつぎのように書いている。

 この「美意識」が氏の作品を貫く一つの大きなモチーフである。異論も感ずるが、結果をとわない点に陽明学の特徴を見出したことは大塩事件にも示唆的である。


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