Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.9.14

玄関へ

「洗心洞通信 11」

大塩研究 第11号』1981.3 より

◇禁転載◇

 

◇研究会創立五周年記念例会開かる 

 本会が結成されてから早いもので五周年を迎えることになり、さる一九八〇年一一月八日(土)午後一時から、創立総会の思い出も深いなにわ会館で記念例会が開かれた。

 西尾治郎平副会長の挨拶にはじまり、会長酒井一氏が「研究会五年間のあゆみ」を短く語った。そのあと記念に大阪らしい雰囲気を盛り上げる意味で、旭堂南陵師が講談「太閣と大阪」を演じた。大閣さんと大塩さんは全く対照的な人物でありながら、大阪を代表する二大人物であるが、太閣秀吉の活躍をユーモラスに語って、最後に天保期の大塩におよんで話をまとめられた。なごやかなムードで参会者一同楽しくくつろいだ。

 そのあと詩人の井上俊夫氏が「文芸でとらえられた大塩像」と題して講演された。「野にかける虹」でH氏賞をうけられ、淀川と大阪を見つめた作品を問いつづけておられる氏は、とくに森鴎外の「大塩平八郎」について評論された。幸田成友と鴎外の二人が、大塩研究のおいしい部分を食ぺてしまい、私たちの仕事は「残飯整理」みたいなものだが、それなりに深い意味があり、未解明な点がまだ多く残されているとして、作品に沿いながら話をすすめられた。鴎外が「暴力的な切盛」をしないといいながら、蜂起の日に一切の事実を盛り込んだため、文学上必要な「暴力的切り盛り」が事実上認められるとされた。

 美吉屋五郎兵衛に関しても興味深い議論をされ、美吉屋へ辿りついたとき大塩は二回の自殺に失敗して、内的変革があり革命家・陽明学者ではなく、犯罪者として来たのではないかと推理された。講演の一部を本号にまとめて頂いたので参考されたい。

◇「大逆事件と鴎外」

 尾形仂氏(当時東京教育大学助教授)が、この題で七二年一一月九日付朝日新聞夕刊の「研究ノート」に小文を示しておられる。参考のため再録しておく。

 本会の会員有志数人は、大塩事件の研究のかたわら、大逆事件を調ぺている。ことし一月二四日が十二名の処 刑者の七十周年記念にあたる。その調査の関心と意図も、この尾形氏の文章から十分推察できるように思われる。

◇『船場両替商の記録』(抄)

 大坂尼崎二丁目にあった両替商助松屋の文書の一部を、縁者にあたる藻井泰忠氏(大阪市淀川区)が表記の書名で、一昨年十二月に発刊されたが、そのなかに、天保八年の「毎日用事留」から大塩の乱の記事が三ぺ−ジ収録されている。

◇『ほおずき忠兵衛』

 大塩の重要門弟であった船若寺村橋本忠兵衛を主題に、鈴木喜代春氏(松戸市立第三中学校長)が、昨年十二月に表示の題名で鳩の森書房から出版された。小中学校の読み物であるが、畿内の国訴の闘いに始まり、渡辺村の源八に「わては死なん」と生きつづける大塩像を追わせるところで終る内容で、民衆の味方大塩を児童生徒に与えさせようとする意図が平明な文章のなかに清流のように貫いていて、すがすがしい読後感が残る好品である。実地調査のあとも十分よみとれるが、地名などのルビにまちがいがあるのと(「交野(かたの)」を「こうや」、「高津(こうづ)」を「たかつ」とするなど)や大阪弁の不自然な使い方が気になるのが残念。なおついでながら、本書だけでなく研究者もよく間違っているのに、高槻藩士柘植牛兵衛がある。高椒の史料に丑兵衛とあるのもあり、牛が正しいが、半兵衛と誤記する例が多い。

◇旧鴻池本邸の一部を奈良市に移築中

 大阪市東区今橋二丁日にある旧鴻池本邸は、戦後一九四七年十二月に大阪美術倶楽部に譲渡されたが、その門長屋と玄関が同倶楽部の改築にさいして撤去されることになった。そのことを新開紙上で知られた三宅製粉株式会社々長三宅一真氏が、奇特にもこれを引き取って、奈長市鳥見町(近鉄富雄駅下車西へ数分、近鉄線路沿い)の自宅付近の所有地に移され、目下造築中である。大塩事件によって焼失したあと新築したもので、あれほどの衝撃をうけたあとにも、玄関も二間と二間半の広さ、門長屋は棟木一一本をもつ立派なもので、建坪約四六坪にあたる。栂材を主につかい、一部松を使用している。鴻池本邸の他の部分は、美術倶楽部の所有として住時の偉容をとどめている。役員有志は、さる一九八○年十二月七日に三宅一真氏の御案内で移築中の建物をつぷさに見学した。生駒山を越えたとはいえ、大阪の重要建築物が、このように民間人の好意で残されたことは喜びに堪えない。三宅氏はこの建物を公開し広く活用の場として提供される意向である。
洗心洞通信 10」/「洗心洞通信 12」/ 「洗心洞通信 一覧

玄関へ