Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.2.14
2000.4.27訂正

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「洗心洞通信 9」

大塩研究 第9号』1980.3 より
 

◇第八回例会ひらかる

 昨年十一月二四日午後一時三○分からなにわ会館において盛大に第八回例会が開かれ、藪田貫氏(橘女子大学)が「大坂騒擾再論−天保と慶応と−」と題して、大阪天満宮の滋岡日記(大阪大学文学部所蔵)をもとに本誌第七・八号に掲載された成果を、さらに都市騒擾のなかに近世史の最近の研究到達点のうえに立って、するどく問題点を提起されたものである。

 大塩の乱を都市で起った百姓一揆とみる考えから、都市騒擾としての特異性を三点にわたって分析された。町民参加者が少ないといわれるが、その内容を四つのグループにわけ今後参加者数の再確定の必要をのベ、近世社会において民衆運動史上も都市と農村の落差、都市民と農民の同盟の困難さを前提にしつつ、一般の民衆闘争とことなって掠奪・放火の行為があったことが指摘された。

 また価格史研究の成果をくみいれて、商品別の物価の変動差やタイム・ラッグなどが都市と農村の間にあり、両者の連帯の困難さと関連しているのではないかと、興味深い論点を出された。檄文がかなり都市民へも配付されようとした形跡をも明らかにし、さらに都市騒擾でみられた張紙や口頭の情報伝達が、大塩の乱の場合になく、門弟に配付する檄文による組織にも特異性があるとされた。

 討論は、町人一般を問題とするより上層町人批判の観点が必要(中瀬寿一氏〉、河内でも名ざしで攻撃することを命じた大塩の発言があるが、大坂での蜂起と連動して計画されたものなのか(政野敦子氏)、檄文を民衆はよみこなしえたのか、大工など職人との関連(向江強氏)など多岐にわたるものであった。

◇古河市史に大塩資料

 昨年発刊された市町史などに大塩の史料がいくつか紹介された。いままで事件と関係した土地でも、十分に触れられることがないか、たとえ触れられても通り一遍の叙述ですまされることが多かったが、基本資料をそれぞれの土地からさがし出して紹介する例がふえてきたことは、喜ばしいかぎりである。茨城県の『古河市史』資料近世編(藩政)もその一つで、昨年三月に刊行された。下総国葛飾郡の古河(こが)町は、土井氏の城下町で、その十一代にあたる土井大炊頭利位(としつら)が大坂城代をつとめていたときに、大塩の乱が起った。在任期間は天保五年四月から同八年五月までであるから、大塩逮捕に功をあげたあと、京都所司代に転じ、さらに老中に栄進した。「雪華図説」をあらわし、雪の研究にも関心をもった大名である。

 市史に収録されたのは、千原忠夫氏所蔵の文書で、「大坂放火騒動一揆一件諸家御届・諸所文通、其外風説等之書付写 壱巻目」と「大坂放火騒動追加 三巻目終」の二点で、このほか二巻目にあたると思われる「大塩平八郎父子召補一件」は、すでに「古河郷友会雑誌」第十一号(明冶31年5月)に掲載されたが、原文が現存しないため、市史には収められていない。

 鎮圧に動員された諸大名からの通達などもあるが、興味深い新史料もいくつか含まれている。たとえば天保八年三月十七日付の江戸の親類からの書状には、当時大坂海上にあった薩摩の大船二艘がどこへ行ったのか見当らなくなり、大塩がこの船で逃げ去ったと種々風説があったという。大阪では薩摩逃亡の伝承がいまでもあるが、事件後すぐにおきたものらしい。

 また画家谷文晁の伜文二が、二年前(天保六年)に上坂したとき平八郎とたびたび面会したので、その面貌を思い出して画いたという似顔絵がある。平八郎の風貌は種々の肖像画があって確定しえないのが現状であるが、この画は、「蒹葭■説」 (後藤捷一氏所厳)所収のそれときわめて類似している。

◇高槻市史史料編にも大塩史料

 摂津の高槻藩(永井氏)の家臣のなかには、拓植牛兵衛・芥川庫次郎ら大塩と関係の深い人物が何人かいて、門弟になるものもあり、幕臣の与力・同心以外の武士たちのなかでは、大塩と最も交流のあった藩である。『高槻市史』第四巻(二)史料編V(昭和54年2月刊行)に「大塩平八郎一件」の一項をたてて、史料一六点を収めている。大部分はすでに本誌第二号に岡本良一氏が紹介された福岡市の三嶋秀三郎文書で、事件当時藩の大目付をつとめた三嶋源之允に関するものである。このほか同じく家臣であった奥野喜久氏文書も加えられている。

◇斑鳩町史の大方家文書

 奈良の法隆寺をふくむ斑鳩町の五百井にある大方家も大塩事件と関係があり、参加者の一人瀬田済之助が親類のよしみで逃路ここに立寄ったことが知られている。昨年十一月に刊行された『斑鳩町史』続史料編に、事件後大方家(新太郎)が吟味をうけ庄屋役を罷免されたときの史料が収められている。これ以外にもまだ少し史料があり、済之助の逃亡記の一環として大和の動きが本誌に発表されることが期待される。

◇『ふる里守ロを防ねて』

 昨年七月に会員の駒井正三氏が守口市々長室広報公聴課から『ふる里守口を訪ねて』を出版された。長年にわたる研究の成果が確実な史料分析のうえにたって平明に語られている。「大塩平八郎ゆかりの書院」「奈良道との分岐点」の項で、守口宿の豪農白井家がとりあげられている。

◇会員の訃報

 おしらせがおくれて誠に恐縮至極ですが、会員の方の御逝去を報じ心から御冥福を祈る次第です。

 一昨年二月に鶴崎儀三氏、昨年二月二五日に谷口ナヲ氏が亡くなられた。谷口さんは若き日には浪曲師で活躍され、大塩の熱烈なファンで、大塩未だ死せずと主張され、自費出版するほどの傾斜ぶりで、例会にも熟心に出席されていた。名物ナヲさん逝く、享年七九歳。

 吹田市の助役も勤められ、吹田泉殿神社の宮司であった宮脇芳三氏が、昨年七月二三日に七六歳で逝去された。平八郎の叔父にあたる宮脇志摩の末孫で、本会に対しても格別の御協力をいただいた方である。


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