◇禁転載◇
講演については、豪農を中心勢力とみるのに対し、守口宿の白井孝右衛門は商人的要素がつよいのではないか、門真三番村の高橋九右衛門も比較的持高が少く、金融活動を中心とした経営ではないか(乾宏巳氏)などの意見が出された。大坂市中の動きをみる上で、奉公人の実態についても種々意見が出された。奉公人は縁故で採用する場合が多い。下男などは口入屋の紹介によるが、一般に船場では人を雇うにも一つの系統があり、主人・番頭の出身地から雇うことが多かったという。大坂では株仲間の結束がつよく、これを大塩が掌握できなかった点に注目すベきで、とくにかれが高利をどうみていたかが興味のある問題点だ(米谷修氏)など、新しい問題提供があった。
文化センターでは、作家前田愛子氏が「大塩関係者を薩摩の島々に訪ねて」と題して、はるばる薩南の地、種子島と屋久島に大塩事件関係者の流刑地を調査された内容を話された。千メートル以上の山のある屋久島と気候に恵まれた種子島の風土の比較や流刑者子孫についての詳しいもので、改めで流刑の厳しさと子孫の生き方から学ぶことが多かったとされた。屋久島調査については、本誌10号所収の前田氏の文章を参照されたい。
つづいて、八尾市教委指導主事の森田康夫氏が、「大塩門弟弓削村西村七右衛門のこと」と題して、最近発見された弓削村の豪農七右衛門の史料(左殿家文書)にもとづいて、綿密な報告をされた。七右衛門の分家筋と思われる西村市郎右衛門が、正徳四年(一七一四)の大旱魃にさいして、無断で新大和川に新樋をつけ、自らは大阪城内で獄死したと伝えられる。現在国鉄志紀駅近くにその碑が建てられている。
七右衛門家は、大塩事件後の天保九年(一八三八)に持高一六九石七斗三升七合、反別一一町二反三畝二五歩という豪農であることが今回初めて明らかにされた。父正盛の後妻十枝(とし)の兄は、天満同心松浦六郎であり、かれの長姉ことは、文政六年(一八二三)に与力戸田勝之丞と結婚したことがあり、次姉みちも天満組同心岡本森三郎に嫁していることなど、与力・同心とのつよい血縁がみられた。
事件前日に七右衛門が大塩邸に行ったことが母十枝からの届書でわかる。逃亡のさい立寄った堺の医師寛輔は、長姉の再婚先で、その紹介で伊勢海会寺を経て仙台の大念寺まで走り、ここで容れられず江戸の冷月の弟子となって、天保八年五月九日死亡し浅草の遍照院に土葬された。この年二月九日に七右衡門のとりついだ施行は一六人におよび、この人たちは取調べをうけて、そのうち四人が家出、行方不明となった。そのほか、事件後の七右衛門家についても詳しく触れられた。本号所収の森田氏の論文を参照されたい。
会場には、とくに七右衛門から四代目の子孫にあたる左殿正昭氏(八尾市弓削町)の御好意で、関係文 書の一部が展示され、感銘をよんだ。
講演会のあと、暑さのなかを見学に出かけた。聞法寺(八尾市弓削町二の一〇六)の本堂軒先に、七右衛門らの「記念鐘」として遺族の左殿貫(弓削)・西村弥七良(神戸在住)・西村七三郎(大阪)・西村雅貫(神戸)・壺井秀吉(大阪)が寄進した半鐘がつるされている。
弓削霊園では、母十枝(妙誓)の墓、西村履三郎・由美の墓などに感概深く参詣し、志紀駅近くの弓削神社で解散。さらに健脚の有志が、渡辺良左衛門終焉の地である五条宮址に足をのばし、土盛りをした繁みのほこらに往時をしのんだ。このあたりは、「馬の前」「大門」「宮あと」「垣内」という小字名があり、塚のあるとこは約二十坪あると伝えられ、付近一帯は以前は土が高く盛られて現在の道路より高かったという。古瓦がよく出土していたが、すっかり面影がなくなっていると、七十歳すぎの農夫が説明してくれた。
当日は、地元から市民の参加もあって、なかなか雰囲気の盛り上った、よい例会となった。
また、『三魚堂文集』全八冊と『呂新吾先本語録序』全一冊は、いずれも文政十二年に東町奉行所で発刊を許可されたが、まだ板行にとりかかっていないと、天保八年四月二八日付で本屋年行司が町方へ届けている。
駒井氏の『ふる里守口を訪ねて』(守口市長室広報公聴課、一九七九年)には、さらに詳しい説明があり、同寺に般若寺村の檀家があったことから、同村の橋本忠兵衛・柏岡源右衛門・柏岡伝七の三人のうちのだれかの墓とされ、橋本・柏岡家の定紋や過去帳の調査の必要を主張されている。どなたか御存知の方の一報を期待したい。
なお、橋本氏は、これにつづいて、一九七七年に『写真集京街道』を出版され、京街道を丹念に歩いて守口から伏見寺田屋にいたる風景の数々を秀れたタッチで撮影れている。『守口の石造物』八〇〇円、『京街道』は一二〇〇円(送料別)で在庫あり。一読をおすすめする。
また中尾捨吉についても、「あれは奇傑だよ。陽明派の学問をして、大塩中斎に私淑して居った」が、年少のころしばしば海舟のもとへ議論に来て閉口したとのベている。中尾は土佐出身の民権家判事として知られる。かれが明治十二年に編纂した『洗心洞詩文』はつとに知られる名著である。
天照皇大神や奉天命致天討といった反官僚の大塩スローガンに対し、太平天国のかかげた奉天誅妖、奉天討胡に示される中国を支配した清朝満州民族排撃の具体的な内容。大塩が東照神君、生田万が白河楽翁をもち出した手ぬるさとはちがって、満州皇帝を血祭りにしなければやまぬ民族主義、耕作地の私有を禁じて国有として耕作者に均分する天朝田畝制度の構想など。
しかし、当時中国は、近代産業の点でも、また近代思想上でも「明代の陽明学が日本で生んだ大塩のような子供」を持たず、洋学も日本ほど発展せず、「いわば大平天国は近代産業と啓蒙思想との両翼をもたない、生一本の農民運動」とみる。開国前の大塩と世界列強の直接の侵略にあえぐ中国の太平天国との比較は、単純には行かないが、広範な農民戦争をもたなかった日本との対比に、重要な論点を提出している。この著書は、その後同氏の『中国の二つの悲劇』(一九七八年、研文出版)に再録されている。