Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.18訂正
2000.2.12

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「洗心洞通信 13」

大塩研究 第14号』1982.11 より

◇禁転載◇

 

◇白井孝右衛門ゆかりの地守口で例会

 ニュースが少しおくれて会員の皆様に申訳ない次第であるが、昨年十一月二八日午後、守口市竜田通一丁目三五の白井孝彦氏宅で、研究例会が開かれ、駒井正三氏(関西女子短大教授)が「大塩の乱と守口町−白井孝右衛門を中心に−」と題して熱弁を振われた。孝右衛門ゆかりの白井家の屋敷を提供して頂き、茶菓の接待までうけて、折りからの冷え込みを忘れるほどであり、永年にわたる守口町の研究の上に立って、守口宿の特色を、明冶四年の戸籍から非農業部門従事の多いこと、災害、出入関係のつよい土地柄などを指摘し、大塩門弟のうち最大の組織者であり、この人を欠いては乱の考察はできないと考えられる孝右衛門の役割を示された。多く農民に依存した大塩勢のかなめに町場の豪商的役割のあったことの指摘は重要であろう。報告の詳細は、本誌第十三号の駒井氏の論文を参照されたい。

 このあと、同氏の案内で京街道守口宿を見学し、さらに有志は白井家の墓碑に参拝して解散した。この会では、故菊田太郎氏所蔵で未公開であった大塩の軸二本が展示された。一本は文政十二年己丑重陽のときの後素の名による七言絶句で(「黄菊満離不暇培」で始まるもの、他は年欠ながら二百十日の大風後によんだもので、同じく「畝々掃花遂日繁」で始まる七言絶句であるが「洗心洞主草」とある。菊田氏所蔵の大塩画像(門生相原塊堂謹写)も公開された。

◇「大塩の乱と八尾」展と郷土文化講座

 八尾市では例年市民を対象に「郷土文化講座」が行われ、一月から三月にかけて十回の講座が開催されている。本年二月十二日午後六時から市立労働会館においてその講座がもたれ、八尾市教委指導主事の森田康夫氏が「大塩の乱と弓削村七右衛門」と題して講演された。厳寒の夜にもかかわらず勤め帰りの途中でかけつけた人や、高齢者或は主婦など約七十人が参加した。

 大塩門弟西村七右衛門については、昨年七月二十五日八尾市立志紀文化センターにおいて開催した研究会で、森田氏が最近発見された史料(左殿家文書)にもとづいて綿密な報舎をされたが、今回は、より平易に一段と熱のこもった講演で、近世農村の状況、大塩平八郎の人となりと事件の模様、西村七右衛門家と七右衛門の行動、さらに渡辺良左衛門や瀬田済之助も八尾の地で最期を遂げたことなどを聞いて、ゆかりの地に住む受講者たちはすっかり引き入れられて身近な歴史を学び心を強くうたれた。

 また、八尾市では二月十六日から二月二十七日まで市のサービスコーナー(近鉄大阪線八尾駅前)において「大塩の乱と八尾展」を開催された。史料、パネル、関係図書など部屋いっぱいに展示され、ことに始めて公開された左殿家文書は、いままで明らかでなかった西村七右衛門に関する貴重な史料が豊富で感慨深く読ませていただいた。

 関係史跡の写真は、大塩平八郎の知友、僧愛石が造園したと伝えられる感応院の庭園(恩智)、西村七右衛門の墓(志紀町南)、七右衛門遺族が寄進した聞法寺の釣鐘(弓削町)、渡辺良左衛門終焉の地五条の宮(老原)瀬田済之助が自害した恩智山中などで、八尾展の特色がよく現われていた。連日大勢の人がコーナーを訪れた様子が芳名録にうかがえるが、会場に置いてもらった『大塩研究』第十二号二十冊が売り切れてしまったのは予想外のことでまことにうれしい。せまい会場ながら充実した効果的な展覧会であったと思う。今後もそれぞれの地元で特色ある大塩展の開催されることを期待し、それによって人びとの関心が高まり、郷土の歴史が堀り起こされ大塩研究が進展することをのぞむ。     (M)

◇戦前の「朝日」記事にみる尊延寺の大塩遺跡

 枚方市の山手、尊延寺は大塩関係地として著名で、碑も建てられているが、朝日新聞の昭和十六年一月十日付に、当時の尊延寺村の大塩ゆかりの記事が掲載されている。枚方市史編纂室編集の『朝日新聞記事集成 第九集』(昭和五十七年三月発行、枚方市)に収録されているので、参考までに転載する。

 

◇『千早赤阪村誌』に大塩の名

 与力在任中の大塩について直接地方文書に名の出る例はあまり多くないが、大阪席南河内郡の『千早赤阪村誌』本編(昭和五十五年三月発行、同村役場)をみると、河内国石川郡二河原辺村の新田勝五郎が、同国古市郡の壷井八幡宮の社役人を勤めた関係で、文政九年に同宮の富くじの建札をたて、同十一年十二月に満会になってこの札を引払ったときの届書が収められている。文政十二年正月十七日付であるが、前年暮れに大坂両町奉行と岸本・辻両代官所あてに寒気見舞をしたことを記したあとに、「盗賊方与力衆東」として、「瀬田藤四郎 八田満太郎 大塩平八郎」の名がみえる。

◇荒尾五山の後素先生句

 枚方市津田在住の会員西村享氏からの便りで、反骨の俳人荒尾五山の若い頃の句に、大塩平八郎を偲んだ「後素先生の霊在天の雲の峰」というのがあることを教えられた。昭和五十一年八十九歳で亡くなった五山の句碑が、生前句会を開いて愛好された枚方の意賀美神社の境内の小高い丘に建っている。

 藤沢桓夫氏は、かつて大阪島之内の竹屋町に同町の住民として五山といたことかあり、下大和橋に近い大きな醤油問屋の次男で、長兄の家業を手伝いつつ俳句に励んでいた姿を、かって読売新聞の夕刊に連載したなかでとり上げておられる(『随筆人生座談』昭和五十六年刊、講談社)。五山主宰の雑誌「かぷら」にのった上記の夏の句に子供心にひどく惹かれたと述懐されている。大阪商人の大塩観をうかがわせる文章である。

◇第八回総会と研究発表

 さる三月二七日中斎忌を記念して、成正寺において恒例の関係者慰霊法要、大塩家墓碑参拝のあと、記念講演に入り、矢内昭氏(清水谷高校教諭)による「暮末期船場の町割と町並」と題する長時間にわたるお話をうかがった。氏は大阪の地形を歴史的にたどり、地域的な特徴を詳しく説明された。かつて中世渡辺の津が川の湊として重要であり、八軒家もその付近にあったが、川に土砂が堆積し港の位置が西へ行くことを、則治期の築港と対比してのべ、また水運と陸運の多様なひろがりを示された。とくに町方の水帳をつかった復元図は精細をきわめたもので、歴史地理学分析のユ二−クさを物語っていた。

◇故米谷修氏を偲んで例会

 去る六月五日に急逝された本会副会長の米谷修氏をしのび、生前の思い出を語る集いをかねて、七月一七日の午後、大阪市天王寺区のなにわ会舘において例会が開かれた。

 例会は最初に、堺鉄砲研究会群沢田平氏の報告「大塩の乱における銃撃戦」を聞いた。当日演壇には、大塩の乱に使われたのと同種の銃砲や武具が展示され、また堺鉄砲研究会に所属する会員のみなさんが、大塩平八郎や町奉行堀伊賀守利堅など敵、味方双方に扮し、臨場感をいっそう盛り上げた。ふだん身近かには余り眼にしない武器、武具だけに参加者一周の関心をあつめ、報告後には活発な意見交流がおこなわれた。

 本会の例会はつねづねジャーナリズムからも注目をうけているが、この日も『読売新聞』が取材にかけつけ、同紙七月一八日付朝刊にその模様が報じられた。

◇本会会員田結荘金治氏のご逝去

 本欄にのせるのが大幅に遅れてしまったが、本会発足以来の会員田結荘金治氏が昭和五三年一月六日、島根県松江市にて長逝された。氏は日本有数の切手コレクターとして著名であるが、同時にご祖父田結荘斎治(号千里)翁は永く大阪に住み、大塩平八郎の門に学び陽明学を修めた人である。その関係から金治氏も大阪市に生れ(明治三○年)、また告別式も大阪市南区中寺町の禅林寺にて営まれた(昭和五三年二月五日)。氏のどご訃報を的確に掲載しえず、洗心洞通信子としてはまったく怠慢の誹りをまぬがれえない。今回ここに掲載しえたのは、同氏ご令嬢内藤治子氏からのご教示によるものである。内藤治子氏からはその折、田給荘金治氏および千里翁に関する資科を多数、ご提供いただいている。近い機会に本誌に収め、そのご厚情にお応えしたいと考える。

◇会長酒井一氏・一年間の予定で渡欧

 本会会長酒井一氏には、この度、竜谷大学から海外研究出張を命ぜられ、イギリスのロンドン大学LSEに留学された。留学期間は本年八月から翌年八月までの一カ年、イギリスと日本の経済史の比較研究をテーマに研鑚につとめられる予定である。


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