Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.2.16

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「洗心洞通信 14」

大塩研究 第15号』1983.4 より

◇禁転載◇

 

◇復原の鴻池邸で例会

 昨年十一月二十三日の勤労感謝の日、奈良県富雄に昨年移築復原された旧鴻池邸で、竹内一男氏(三和銀行調査室・竜谷大学講師)を招き、「天保期の鴻池と大塩事件」と題する例会発表をおこなった。この会場は、「洗心洞通信」11でも報告されたが、これが完成して「旧鴻池邸、富雄町民史料舘」となり、公開されるに至ったものである。紺の暖簾も「河内木綿」の特別誂いで、庭には旧邸の生きた丹頂鶴の例にならい、鶴の置物を置くなど、移築者である三宅一真氏の凝りようが微笑ましく感じられた。

 竹内氏は、鴻池家の経営を論じ、世上評されるような豪奢なものではなかったこと、質実なものであってその大名貸も暴利をむさぼるほどの高率の金融ではなかったことを陳述した。ただ鴻池家の家系等につき斯界の大家が余りにも安易に通説に拠るところが多い事は、強く批判された。鴻池家では、天保八年の大火(大塩焼け)を直接表現せず前代の火災をもって暗愉しているのではないかという、記録表現上の疑点について指摘されたことは注目される。また事件後鴻池家においては、莫大な資金を投じて、書画骨童類の美術品を多量に買入れている事も特異な点としてあげられた。大名貸の利子率が低利であったか高利であったか経済史学界でも論争のある所て、竹内氏ばそれぽど高利ではなかったが年限のながいために次第に蓄積したと論じた。質疑にあたって、竹内氏の分析した帳簿が表帳簿であってあるいは裏帳簿のようなものも存在するのではないかという疑点も提出された。

 終会間近帰宅された三宅氏の挨拶があり、この莫大な費用を要した移築復原の動機等や復原の苦心談が披露された。

 この例会には、遠く福岡より矢野氏、松山より石丸氏等熱心な会員が参加され鴻池両替店のアンティークな雰囲気の中で楽しく懇談した。また奈良の島野氏、高槻の村上氏など、最近入手の貴重な砲術関係史料などを提示され、専門家である澤田氏との研究交換があった。

◇流刑日記の語る大塩事件

 天保八年二月十九日大坂に勃発した大塩事件は、幕府当局にあった武士をはじめとして、広範な諸階層へ絶大な衝撃を与えた。わずか数時間の蜂起がどのように伝わったのかよく判らないが、驚くほどの速度と広さで日本の各地に裏件の情報がもたらされている。

 大塩事件を解明するために、各地への情報伝達と受容状況の考祭は重要な課題といえるが、このほど北陸で貴重な資料が公刊された。『島もの語り,寺島蔵人能登島流刑日記−』がそれで、金沢近世史料研究会の編集になり、一九八二年四月北陸出版社より出版されている。(一、八○○円)

 本書の解説によると寺島は加賀藩実務官僚の一人で、政治上のことで藩の年寄と対立し能登島に流された。「島物語」は天保八年、配流地から金沢の留守家族にあてられた蔵人の日記・手記である。当時加賀・能登にも飢饉の苦しみは深く、「農民に同情し、藩のやり方を批判する蔵人の立場は、天保八年二月十九日大阪町奉行の元与力が、窮民救済を叫んで立ち上がった、大塩平八郎と共通するものがあっだ。(中略)「島物語」の中に、(元十村堀松村)平蔵が近日家族の許に、大塩の乱を扱った『難波潟塩のさしひき」という本を届けるだろうと記している。そして蔵人は大塩平八郎に大変傾倒し、恩も知らぬ人の訪問を嫌い、『たゝたヽ逢度人ハ大塩平八郎ニ御座候』と書いている程である」。

 本書は会員の宮城公子氏と金沢の中野節子氏よりのご教示をえた。全国各地の会員諸氏にも、様々な情報提供を期待したい。

◇会員の訃報

 本会の熱心な会員であった河本乾次(かわもとけんじ)氏が昨年七月十四日逝去された。 同氏は一八九八(明治祖)年大阪市東区に生まれ、高等小学校を卒業後、車夫や新聞配達をしながら独学し社会主義に目覚めた。

 一九二四(大正13)年、南海鉄道の大争議を指導し、首にされたあと大阪のアナキズム運動に加わり、敗戦後は神崎川改修工事人夫として府従組の労働運動に参加した。

 氏の八十四年の生涯は、組合幹部や議員などとは無縁のものであり、自らが現場の第一線の働く労働者であり続けることをかたくなまでに堅持された。

 本会に入会されたのも、おそらくそのような氏の信条が大塩事件に大きな共感を呼び起こすものがあったからであろう。  大阪城から門真まで大塩事件の史跡めぐりを行った(一九七九年)とき元気に参加されたのを最後に病を得られ、昨年六月二日筆者が和歌山市のご自宅にお見舞いしたのがお別れになりました。謹んでご冥福をお祈りする次第です。 (久保在久)


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