◇禁転載◇
その後、本城正徳氏(日本学術振興会奨励研究員)による「天保期の米穀市場と大塩の乱」と題する講演がおこなわれた。同氏は、近年専心されている大坂をめぐる米穀市場研究の成果に立って大塩事件に問題をなげかけられた。市中飯米政策が、天保期に初めて堂島米市場の抑制をかかげ、町続き在領への米販売を特例として認めるなど、救恤をふくめて総合的に実施されるなかで、飯米によっで市中と周辺下層農民が連帯する条件はありながら事実上その結びつきが領主政策によって否定されていることを論証され、経済史研究からの厳密な規定にもとづいて、事件をとりまく条件を明示された。しかも飯米市場論から説明されえない点として、地主・豪農が蜂起に参加した理由を、大塩の思想・政治的意図に求め、経済的要因から飛躍したこの論理に、乱の最大の特色があると指摘された。
討論では、船場豪商の前期独占と河内農村の関係、平戸藩士聞書にみる一種の「二重米価」制、価格を操作するものへの怒りに乱の根源があるのではないか、大坂で早くから普及していた先物取引をどうみるか、などの質問が出された。
総会では、会務報告などがおこなわれた。役員のうち米谷修氏の逝去にともなう副会長一名の補充については、この日までに実現せず、郷土史的観点からの人材をさがすこと、若手の役員の補充などが委員会に一任された。中間会計報告は、二月二八日付でおこなわれ、これについては、三月十一日付で相蘇一弘・内田九州男両会計監事による「会計は適正に執行されていることを認める」旨の報告をうけ、承認した。なお三月三一日付の決算は、本誌に掲載したとおりである。
会への要望として、たとえば大塩蜂起時のコースを歩くなど見学会の充実の必要、会誌にも、史料の所在と内容、関係文献の紹介、さらに大塩の珍談・奇談などよみやすい記事をもりこんでほしいなど、有益な意見が出された。
懸案の会費値上げについては、諸般の事情をくんで、普通会員の会費のみ原稿の年間二千円を三千円にあげることが承認された。六年ぶりの値上げについて、第十五号の発送時に会長名でその理由を示し会負に周知することとなった。その内容は、左のとおり。
花便りに心のなごむ頃となりました。平素は大塩事件研究会のために何かと御協力を賜わり誠に有難うございます。
さて、さる三月二十六日の総会におきまして、普通会員会費を現行の二千円から三千円に値上げすることに決定いたしました。会の財政問題につきましては、昭和五十三年三月の賛助会員制の設置や、バックナンバーの売上げ、寄付金、広告料などで対処してまいりました。しかし昨年春の総会で会計監査委員から会費値上げの検討が求められており、また二年後に本会創立十周年、三年後に大塩平八郎関係者の百五十年忌を控えて記念事業の企画にとりくみ、会財攻を強化すべく、六年ぷりに値上げすることになりました。
何卒趣旨を御諒承の上、新会費にて御納入の程お願いいたします。
なお新年度会費は雑誌第16・17号分にあたります。
大塩事件研究会
会長 酒 井 一
会 員 各 位
新委員についても、全員留任が承認され、欠員の副会長および若手委員の捕充については、委員会に一任された。
過日酒井会長が生玉寺町の銀山寺に大塩の高弟松本乾知の墓があり、その撰文が中斎の記し、松浦誠之の書になるものであることを鎌田春雄『近畿墓跡考』や『大阪訪碑録』で知り、政野委員が二度にわたって同寺墓地を調査して、ようやく小さな砂岩の墓碑を確認した。剥落がはげしく胸のつまる思いがしたが、銀山寺のご好意で応急の処置として大塩撰文の大半をよみがえらすことができた。事件に先立って天保六年(一八三五)七月十六日に弱冠二三歳で逝去した乾知は、天資純粋、もし数年を仮してその業を卒えしめば、わが門の徐曰仁(じょえつじん)と称すべしと、中斎はその死を惜んでいる。徐曰仁は王陽明の妹婿でその門弟、王門の顔回ともいわれ、三一歳で死去して陽明を悲しませた人物である。
乾知はその死の三か月前、『洗心洞箚記』に乞われて跋文を寄せているが、その文末は「乾知は適(たま)たま病に嬰(かか)り、深く思ひて文を綴る能はず、故に纔かに是の数字を書して以て命(めい)に逆(さから)はざるのみと云ふ」と夏四月に記している。現存する『儒門空虚聚語』などにみる乾知の筆致は、線の細い字で風貌を髣髴とさせるものがある。同じ時期の松浦誠之のは肉太でがっちりした書体である。
例会は、乾知の祥月命日を期して同寺で、住職末高真瞳師のもと法要・墓前祭を営んで、若き俊英の死を悼んだ。
銀山寺の過去帳には、天保六年の項に
七月十六日 志嶽崇篤居士 |
廿二才 枩本保三郎 |
土葬 | 三月十六日 松林院石鉄居士 | 四十五才 枩本寛吾 |
小 松運信女 | 枩本氏後家 |
戦災をまぬがれた銀山寺の本堂・庫裏は、戦前の寺町をしのぷ懐しい建築で、毎年三月の大相撲大阪場所には花籠部屋一行の常宿にもなっている。この寺でのひとときは、夏の暑さを忘れさせ、ほっとさせるものがあった。
このあと、坂本鉉之助碑のある大倫寺、鴻池一家建立で一族の五輪塔のならぷ顕孝庵、田結荘千里碑のある禅林寺、天満惣年寄今井家の墓のある妙徳寺、さらにとび入りで大仙寺、住友家・天王寺屋五兵衛家の巨大な五輪塔の林立する久本寺まで歩いで、ここで一応解散。健脚組はさらに、大塩父子死なず、清国を経てヨーロッパに難を避けたと刻んだ、縁者秋篠昭足墓碑のある城南寺町竜淵寺にいたり、寺の御好意による茶菓に疲れをいやして、夕刻散会した。
各寺ごとに種々お世話になった。ここに厚く御礼申し上げます。また盛夏の墓めぐりとで、行く先々で蚊の攻撃に会い、御婦人の参加者にはことに御迷惑をおかけして申訳ない次第である。なお大倫寺の坂本鉉之助・禅林寺の中島貫斎の二人の砲術家については澤田平氏、大仙寺の鉄砲同心牧田家については志村清氏、久本寺については住職増田宏雄師がそれぞれ説明を加えられた。
銀山寺での会合には、大塩事件当峙十七歳で惣年寄の家筋として関係された今井克復(かつもと)孫娘にあたる田村登波さんと曾孫の今井三郎氏夫妻が、東京からはるばる参加された。菩提寺妙徳寺の過去帳・墓碑などを手がかりに天満今井家の系図を作成中の由で、晩年の克復の写真を披露され、登波さん自身も祖父の思い出を紹介されたが、登波さんが写真の祖父によく似ておられるのに一同おどろきの声をあげた。
なおこの見学コースについては、好評のイラスト入り地図を作成された政野氏が、いずれ本誌に群しく大塩事件からみた上町台地の寺々を平易適確に紹介されるはずで、紙面刷新の呼び水になると期待されている。
五月二七日、「大塩の乱にルーツを求める」と題して、本会の事務局の屋台骨を支える政野敦子さんが登場した。同紙は、「彼女は、いま、血というものの不思議さを感じている。保健帰として保健所で働いていた彼女は、格別、歴史に興味を持っていたわけではなかった。それが現在は退職して無職である気軽さからとはいえ、大学教授や歴史研究家など全国の一六六人が参加している「大塩事件研究会」の世話人になって、会誌の編集、発送、会費の徴収、会合の連絡などを一手に引き受けている。なぜこんなにのめり込んだのか。その答えが〃血〃である」と書き出し、当研究会の紹介と、政野さんの研究会事務局としてのある一日の仕事や研究成果を、書店との折衝、内外履物新聞社での郵便物の受け取りなども含めて、起床から就寝まで克明に追っている。
「昭和四八年、白井家の土蔵の長持ちの中から約一三○年間隠されていた孝右衛門の位はいを偶然発見し、胸が高鳴り、理屈では説明できない感動がわき上がり、大塩の乱の中に目分のルーツを探り、明らかにすることを使命だと」感じさせた彼女を取材したのは、大阪本社社会部遊軍の吉井秀一記者。大阪生まれで記者生活一三年のホープさん。人情にもろく酒と演歌を愛する好漢でもある。
彼は、しめくくりに「彼女の顔は〃万年娘〃のように明るい」と結んだ。(久保 在久)
なお、委員久保在久氏の横顔も、この欄の四月八日付に掲載されて、公社づとめのかたわら砲兵工廠など近代史の研究に専念されている姿が紹介されている。
初午燈籠は、石ならずともかなり普及したもので、渡辺崋山が江川太郎左衛門にあてた書状にも「朝夕僅かなる暇にて画を学び、初午燈籠、あるひは絵馬の類を認め候て、右貧を助くるのみを心と致し候」とある。また崋山の「退役願書之稿」にも「初午燈籠の画を作り、百枚にて壱貫の銭を取」とあって、得意の絵で貧をささえた孝子渡辺崋山の生活が初午燈籠とともにうかび上ってくる。
【略】
『洗心洞箚記』の復刻などが福永光司・宮城公子氏らによっで行なわれている。宮城氏の『大塩平八郎』(朝日新聞社)は歴史学と思想研究を融合させるユニークなものである。中斎第一の門弟と目される讃岐多度津藩の林述斎の新史料を示した木南卓一氏(「林述斎伝」『帝塚山大学論集』第21号など)や朱王学の日本的展開を解明した岡田武彦『江戸期の儒学』(木耳社)も発表されでいる。
またマルクス主義の方法で、経済史の素養を生かして日本思想の体系を論じたなかで、大塩の限界を示した守本順一郎『日本思想史 下』(新日本出版社)もある。海原徹『近世の私塾』(思文閣出版)は、全国の私塾を三つの型に分け、政治結社の先駆として洗心洞塾をおき、教育史の立場から私塾の特徴を活写している。民衆思想史では、周知のように、日本独自の思想にどう近代化への歩みをさぐるかを熱考した、安丸良夫・布川清司氏のするどい提言がある。
私たちは、これらの方法とその研究成果にもっと学ぶ必要がある。明治維新を軸に近世と近代を通観したうえで、大塩を考えるなら、単なる現象的な事例の羅列や異質のものの混合ではなく、幕末にととのえられた経済・思想・政治の独自の到達点とその限界、開国・維新以後の外来文化の摂取の仕方など、こまかく分析し再構成することが大切ではないか。弁証法の教えるところでは歴史は決して単純に直線的にはすすまないからである。思想史研究の成果をもっと学べば、大塩はあるいは民衆の中にさらに鮮明によみ返ってくるかもしれない。どうもそのような時期にさしかかっているようだ。大塩事件が、幕末最後の形態をとった乱なのか、維新への起点となるものなのか、大塩事件のなにが近世的で、なにが近代的なのかを、識別する透徹した史観が必要になっている。そうすれば大塩事件研究も、おかれていた時代の制約とそれをやぶる方向を、経済・思想・政治の各分野で示しうるのではないだろうか。
大塩が引よりはやき川浚え 上は金もち下は砂もち よみ人しらずこのあと天保大飢饉、大塩の乱とつづく。「大阪21世紀計画」の開幕をつげる十月九日の御堂筋大パレードをみて『摂陽奇観』のこの落首を思い出した。大塩はん、どない思いはりまっか。