Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.8.29

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「洗心洞通信 3」

大塩研究 第3号』1977.3 より

◇禁転載◇

 

◇特別展「大塩平八郎」開かる

 七六年十月九日から十一月十五日にかけて、大阪城内の大阪市立博物館において、大塩平八郎展が開催され、多大の反響をよんだ。大塩事件の一三○周年のときにも講演会などが盛大にひらかれ、関係者遺族の調査が成正寺や読売新聞社の尽力ですすめられたし、七五年一二月にも大阪府立中之島図書館で、主として同館所蔵の関係文書を中心に一室で史料展をおこなったことがある。しかし今回の展示は、ときあたかも一四○年忌にあたり、大阪市・大阪市教育委員会の主催で、公的機関による正式の企画として大規模なもので、現在可能なかぎりの史料を整理・公関し、観客に多くの感銘を与えた。

 平八郎の肖像一つにしても、周知の菊池容斎筆のものだけでなく、菊田太郎氏蔵相原槐堂筆のものなど数種をあげ、墓碑についても写真で一族の家系を明示した。平八郎の独特の筆致を示す書画、初めて檄文が二点あいならぶ様相、平八郎の心情を物語る書状や事件後の儒者・交友の評価、東京国立博物舘所蔵の平八郎注文による脇指、石清水八播宮奉納の朱塗唐櫃、伊勢神官文庫所蔵の「洗心洞箚記」など、約三八○点に及ぷみごとな内容であった。 大塩の思想と行動を知るうえにはまことに好素材で、天保四年の平松楽斎あての書状で「災害並至候者財用ヲ務小人之招処ニ而」とし、「勤役中百万右の粟の儲蓄を内々建義」していることも、檄文の構想に直接つながるものであり、他の史料とともに同年前後にかれの決意が固まりつつあることをうかがわせるものがあり、「大阪府騎吏致仕大塩後素子起」という署名にも濃厚な武士意識をとどめている。今後の研究は、この展示史料を基礎的な史料として出発しなければならないだろう。

 なお展覧会目録として市立博物館から「大塩平八郎」が発刊され、写真による展示内容の紹介と適切な解説がつけられている。

 なお同博物館では、開催期間中に岡本良一氏と相蘇一弘氏の講演をおこなった。とくにこの展示を担当された相蘇氏は、最近とみにもりあがりをみせている平八郎阿波出生説についても、問題点の整理をし、新説をのぺられた。七六年十月九日付の「毎日新聞」タ刊に、同氏は「大塩平八郎のナゾ」および右の目録でその意見を披歴されている。 

◇第二回例会

 「大塩平八郎」展が関かれていた機会を利用して、大阪市立博物館の御好意によって会場を提供していたださ、学習と観覧をかねて、七六年十月三一日の午後一時半から、第二回例会を開催した。はじめに名古屋学院大学教授小林茂氏の「勤王思想の発展と大塩の乱」と題する講演をうかがった。文政十三年のおかげ参り、翌天保二年の淀川筋川浚えや瀬田川大浚えなどを通して、幕府の強引な政策にたいする批判がはぐくまれ、宮方勢カへの期待が高まってきたことが、大塩の檄文に反映しているのではないかと指摘された。ついで同館学芸員で今回の画期的な特別展を推進された相蘇一弘氏から、展覧の見どころを解説していただき、会員は三々五々閉館まで大塩展を満喫し、大塩事件の意義を改めて再認識して散会した。

◇閑谷学校を訪問

 昨年十月十六日、好便を得て岡山に閑谷学校を観る。丁度大塩中斎が天保五年秋九月、大井正一郎らを従えて訪遊したのと同じ頃である。閑谷学校は現在の岡山県和気郡備前町閑谷にあり、岡山城下から三一キロ余。途中には長船の刀匠らが集団していた所や備前窯元などがあるから、その頃徒歩時代でも、さして退屈しなかっただろうが、随分辺鄙な処、従って学習には好適な処である。

寛文八年五月、岡山藩主池田光政が泉八右衛門と津田重二郎に命じてつくらせた手習所が最初である。泉八右衛門は熊沢藩山の弟で、蕃山致仕後、藩の教育行政に携っている。しかし何故こんな片田舎につくらせたか。 閑谷学校は岡山藩の庶民教育即ち農民を教化する郷学校で、城下にある藩学校−主として武士を教育する藩校と両輪をなすものである。岡山藩の国学は幕府の方針通り朱子学を大綱としているが、池田光政自身の学統は陽明学である。参観途上、中江藤樹の学説を聞くを例とし、熊沢蕃山を重用しその弟泉八右衛門を参画させ、藤樹の子中江虎之助(宜伯)、同藤之丞・弥三郎もまた側近に置いたこともある。そして閑谷学校は農民教育の場である。大塩中斎として此処は見落せない所である。

 さて校内をくまなく見学して誠に残念だったのは、大塩中斉の片鱗だに残っていないことである。最も感銘を受けた講堂には池田綱政の「壁書」があり、続く習芸斎には頼山陽の墨蹟がある。閑谷学校には中斎から洗心洞箚記を贈り謝礼に花瓶をもらい、また訪時、学校掛秋山弘道の案内を受けたにしては、何の痕跡も残っていないとは不思議である。特に案内してくれた係負に聞いても頼山陽・菅茶山については詳しいが、大塩中斎となると〃サア来たでしょうナ〃と甚だ心もとない。 池田光政は孝を重んじその実践をたっとんだ陽明学徒、その伝統をひく閑谷学校、孝を重視した中斎が此処に来て何かを掴んだとしたら、後人又何をか言わんやである。  (米谷修氏寄)

◇政野氏の論文によせて

 昨年政野氏が「大塩平八郎と河内国衣摺村」(「歴史研究」第一八一号・新人物往来社)を発表された。綿作地帯の河内農村が大塩与党を多く生んだ淀川左岸農村と深くかかわり、守口町白井孝右衛門が実は、衣摺村の文政十一年の大騒動で処刑された政野重郎右衛門の弟であり、大塩事件に関係した市太郎・儀次郎の叔父にあたることを論証された力作である。これをよんで二点ほど感じたことがあるので、心覚えに記しておこう。

 一つは、この解明のきっかけになった守口の白井家土蔵二階にある転杜についてである。これは文政十三年二月にお蔭おどりにさいしてつくられたもので、しかも切支丹宗門改めと関連しているという。岩波書店刊の『日本思想大系』58、「民衆運動の思想」のなかに、「浮世の有さま(御蔭耳目第一」が収められており、その一節(三三三〜四ぺ−ジ)に、抜参りの盛行に対して浄土真宗では「旦那寺より兼て家の内に神棚を設て祭る事など、やかましく云ぬるに、昨年の切支丹より別而厳重に留めなどして、六ケ敷云なせるに、此度の御蔭参りにて人々抜参りするにぞ、厳しく寺々より制すれ共」きき入れず、本山の下知でとどめようとするが、兵庫・灘の民衆が反対し使僧を追返すなどの行動に出ている。この切支丹事件は、平八郎の取調べた豊田貢一件のことである。白井家は浄土真宗大谷派盛(じょう)泉寺(守口市浜町一丁目)の壇家であることを思うと、文政十三年の土蔵の転杜は興味深いものがある。

二つ目は、衣摺村市太郎が、「生質正からず米価高値之時節ヲ不顧、一己の強慾のミニ拘り」、小前を非道に扱っため、その居宅を焼払えと指示した四か村の庄屋(衣摺村・恩智村・正覚寺村・北蛇草村)が、すぺて淀藩領であることである。(『旧高旧領取調帳』近畿編、近藤出版社、昭50)。 正覚寺村でその後村方騒動が起きたことは、『加美村誌』に基いて政野氏の指摘するところであり、衣摺村の淀藩領庄屋熊厳が村払いになったことなどを考えると、淀藩政のあり方を調ぺる必要があるのではないかと思わせる。


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