総会では、この一年間の活動経過報告と昭和五一年度会計中間報告がなされた。現行の会費運営では財政状況が悪化の一方をたどるぱかりで、今後の対策の必要が痛感された。役員の改選については、現在なお任期々間中であるが、一昨年十一月の総会から二年間とすると、その時点で総会を開く必要があるため、一且この席で全員辞任し、あらためてこの日に重任することとし、全員再任された。
会費も年額千円から二千円に改定された。財政難から自主的な研究活動が行きづまる例が多いことから、本会についても百数十名の会員の規模で、年間二回の機関誌発行はきわめて多くの問題をかかえている。
その後、日本福祉大学の青木美智男氏の「大塩の乱と関東農村」と題する講演をうかがった。いままで大塩研究がもっぱら関西の史料を中心にくみたてられてきたのに対し、氏は、江川坦庵文庫の新史料を紹介しながら、関東農村への影響を興味深く報告された。(詳細は本号に掲載)
市役所で尋ねると、昼食時であったにもかかわらず、係員が親切に大石の埋葬されている市営南谷墓地まで案内してくれた(係の人の話しでは、大石の墓はいまは手入れをする人もなく、市の失対事業で年に何回か草刈りがなされるだけ、とのことで、訪れた日も墓石には草が生い茂り、周りのよく手入された墓石に比べてみすぽらしく胸が痛んだ)。
帰りがけ、墓地内で、新宮市教育委員会のつぎの案内板が目にとまった。
新宮藩医湯川寛仲の長子。文化十一年(一八一四)下里に生まれる。
大塩平八郎の塾に入り、重きをなしたが、世にいう「大塩の乱」には加わらず、弘化四年(一八四七)水野忠央の招きにより帰郷、子弟の教育にあたる。明治七年没。六十才。
昭和三十九年指定。
偶然にも大塩関係者の墓碑にめぐりあったことを喜びながら、案内板の周辺を擦し回ったが、小さな山全体に無数にひろがる墓碑の中で、どれがそれなのかサッパリわからない。墓の手入れにきているひと数人に聞いても知らないという返事、市の係員も帰ってしまったので尋ねようもなく、あきらめかけて案内板の写真だけをとり下山して管理事務所で尋ねたところ、年配の一人がようやく「湯川さん? ひょっとしたら、あれかも知れん」と言って案内してくれた。
案内してくれたところは皮肉にも、大石誠之助のすぐ近くで、湯川家累代の墓碑のある一画の中にあり、古い苔むした大きな石塔にまさしく「麑翁之墓」と刻まれていた。
できうれば湯川家の人々、あるいは新宮の郷土史家に会って話しを聞くことができればと考えたが、時間が許さないので、やむなく写真の撮影のみにとどめて新宮をあとにした。
今後、湯川麑洞についても大いに研究が深められ、本誌にその成果が発表されることを期待したい。
なお『新宮市史』(一九七二年一〇月刊、新宮市役所)に、湯川について若干の記述があるので、つぎにこれを紹介しておきたい。
麑洞の墓は、南谷真如寺墓地南方三〇〇メートルの丘上、湯川家代々墓所の南隅にある。台石は二段の花崗岩
で幅四五センチ、高さ一メートル、側幅三〇センチ、表面には「麑翁之墓」、その裏面には「異撰斎浴風詠師居士」とある。そのかたわらに「常謙院花月清景大姉」とあるのは夫人の碑である。
墓標は、高弟真砂長七郎の筆である。
湯川麑洞、名は裕といい、新宮藩医寛仲の長子である。文化十一年(一八一四)下里町浦神(現在那智勝浦町浦神)に生まれる。幼少のころから俊敏で、一三才の時、父寛仲にしたがい伊勢山田に移る。一六才、津に学び塩出随斎、斉藤拙堂に師事すること三年後、大塩後素(平八郎)の塾に入り、都講として重きをなしていた。
この原稿を書いているとき、旅行に同行の中瀬寿一教授から湯川について貴重なご教示をいただいた。同教授は、かねてから『住友』についてご研究を深められており、大塩と住友家との関連について、数多くの史料を読破されておられるが、湯川麑洞の甥にあたる寛吉がのちに住友家に入り、総理事にまで昇進し、貴族院議員も勤めた住友の功労者であること、そしてこの寛吉の関連で住友の史料の中に麑洞が大塩の乱当時のみずからの行勤をつづった『丁酉遭厄記事』(ていゆうそうやくきじ)という資料の紹介があることなどである。
これらについては、本誌次号にてくわしく発表されるご予定とのことなので、とりあえず紹介し、ご期待を乞う次第である。 (久保在久)