Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.25

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「洗心洞通信 38」

大塩研究 第50号』2004.3 より

◇禁転載◇


◇江戸時代の出版と本作り一正板と重板−

 〇三年七月二六日午後、天満のPLP会館において永井一彰・奈良大学教授による講演が行われた。席上和本を一冊解体し一丁ずつ参加者に配布した後、まずその綴じ穴の特徴を示した上で、具体的に江戸時代の本作りの過程を詳しく説明し、併せて桜の板の裏表に彫られた板木(版木)が回覧された。出版については芭蕉ブームに支えられた俳譜七部集を例に、京都本屋仲間記録「上組済帳標目」による史料と、安永三年の原板が板権の移動をみせながら文化・天保・安政時代に重板(海賊版)される実態を実物のコピーで詳しく説明した。なお同氏の「『芭蕉』という利権(一)」(『奈良大学紀要』第三一号、〇三年三月)が小本七部集の正本をとりあげ、近世の本屋にとって利権の対象であつた芭蕉を検討している。当日の参加者は、【略】計二一名

◇「もはや堪忍なりがたし」その一

 〇三年一二月六日午後、天満のPLP会館において酒井一氏(本会会長、三重大学名誉教授)の講演が行われた。

 檄文の内容を一つずつ史実と哲学によって読み解くことをめざし、今回は椒文で激しく非人を批判したことの裏付けと理由を考察した。町奉行所と癒着して「民害」を生んだ非人問題を、大塩の在職中の処断から天保二年に実現した摂河二〇四か村の天満非人頭作兵衛の直支配休制、その後の反動によって不正が再発し、これに反対した村方からの動きを内山彦次郎が抑えたことなど一連の改革と反改革の流れ、大塩の怒りが噴出するに至る実態を示した。また大塩の乱後も村々が一貫してこの民害の除去に取り組んだことの意味にも触れ、維新による非人制度の解体に言及した。当日の参加者は、【略】計一九名

◇近世大坂の裁判と民衆

 〇四年一月三一日、天満の、PLP会館において橋本久氏(大阪経済法科大学教授)の講演が行われた。

 氏は、先行法制史の詳細な整理の上に立つて、大坂町奉行の経歴、御役録を示し、大坂らしい裁判のあり方を明示した。圧巻は、氏が目下整理翻刻中の篠山・青山文庫の史料による問題の指摘で、寺社奉行・大坂城代・老中を勤めた青山忠朝の評定所一座での記録による、作州皮田大法寺一件の新史料の紹介、単純な武家支配としてでなく町人の言い分を聞きながら裁判を処理して行く気運を伝える大坂法の意味をクローズアップした点にある。  また、大坂法を支えるものとして、「御役録」にある与力。同心の役割が注目され、住民がこれを活用したことを考えさせる興味深い論点も提示された。

 当日の出席者は、【略】計二八名

◇豊中曽根、岡町を訪ねる

 〇三年九月三日午後−時半、阪急電鉄曽根駅集合で実施された。法華寺で曽根八幡宮から移設された文化七年八月の石灯龍と無縁墓、阿部備中守正次(武蔵岩槻藩主、大坂城代)愛馬ほととぎす碑を見学、住職大岩泰英師から説明を受けた。ほど近くにある大塩の乱で檄文配布した伊丹の馬借額田善右衛門終焉の地である曽根八幡宮跡を防ねた。豊中市曽根酉町二丁目二〇一三界隈がそれに当たり、水路(「八幡水懸り」)の北に添う一角である。付近は住宅地になつているが、乱当日の額田の行動などについて酒井会長の説明を受けた。次いで川崎東照宮関係の遺構・文書を引き継いでいる「萩の寺」としても有名な東光院を妨ね、一般では見ることの出来ない川崎東照宮関係の社地絵図、文書などを見せて貰うことが出来た。能勢街道を北上し、曽根八幡宮合祀の原田神社に至り、同社の小宮社四柱の一つとして「八幡宮大神」として祭られていることを確認。ここでも毎年九月一五日に曽根の総代と世話人が参拝するという、酒井会長の説明を受けた。最後に豊中市立岡町図書館前で、岡地出身の峠三吉の詩碑に至り、解散した。今回の見学には、豊中市史編纂室 の協力を得、とくに曽根八幡宮跡の確定には高市光男氏のご尽力を仰いだ。当日の参加者は、【略】計二四名

◇高源寺と彦根城博物館を訪ねる

 〇三年一〇月一八日午前河瀬駅集合で実施された。タクシーに分乗して滋賀県多賀町楢崎の臨済宗妙心寺派の高源寺に行き、住職の桂木善啓師から、寺の歴史について脱明を受けた。鎌倉時代の創建だが、廃寺となり、戦国期の砦の面影を伝え、慶長年間に彦根藩の宇津木・脇両家が再興した。乱に当り師を諌めて斬殺された宇津木静区の墓及び碑があり、舟橋聖一の『花の生涯』で脚光を浴びた村山たか女の晩年の画像があることも新聞紙上で紹介された。

 寺の内部を案内され、禅寺特有の名庭も見せてもらい、宇津木の墓と碑を見学の後、彦根市で昼食、引き続き彦根城博物館で、重要文化財彦根藩井伊家文書の内、「侍中由緒帳」宇津木治郎右衛門家・岡本半介家を学芸員の解説で閲覧を許された。博物館と彦根城と玄宮園を見学して帰途についた。なお、見学に当たっては東京の倉島幸雄氏及び、会員馬場 宏三氏から資料の提供を受けた。当日の参加者は、【略】計八名

◇宝塚の中山寺と宝寿院を訪ねる

 〇三年一一月八日午後一時阪急電鉄中山駅集合で実施された。中山寺では同山のご好意により会議室を貸してもらうことができた。冒頭酒井一会長から大塩平八郎と中山寺のことについて解説があり、次いで同山で資料集編集に関わつた内海寧子さん(関 西大学大学院博士課程)から中山寺の概要や安産信仰について参詣人などの分析を中心に懇切な脱明を受け、同山所蔵の文書の内、「大坂尼西宮伊丹近在年頭廻礼帳」(嘉永七年=一八五四)など五点の実物資料を見せて貰うことができた。内海氏の案内で境内を見学後、中山駅から逆瀬川に至り、平林寺宝寿院を訪ねた。幕末明治史料館で住職の川入宥性師から膨大なコレクションの説明を受け、大塩平八郎と跡部山城守の書軸などを見せて貰うことができた。当日の参加者は、【略】計一七名

◇相蘇−弘著『大塩平八郎書簡の研究』発刊

 〇三年一〇月三〇日清文堂から発刊された。本書の構成は、大塩平八郎書簡の翻刻、読み下し、語句注、現代語訳、解説及び大塩政之丞書簡、大塩格之助書簡、解題、大塩平八郎年帝、索引からなり、「本書の特色」として、次のように紹介されている。

 新発見も含め、現在知られる大塩平八郎書簡のすべて一九一通について、全文を翻刻し編年順に排列する。宛先不明や年紀のない書簡については綿密に顕彰し、その確定にカを注ぐ。翻刻に続いて、全文の読み下し文を添え、難解な語句とくに漢語の多い書簡については語句の注釈を添える。また一般読者にも理解しやすいよう現代詩訳を付けるなど著者の親切な配慮が随所に窺える。圧巻はその解説にある。それぞれの書簡について、宛先・年紀を確定する綿密な考証、傍証史料の援用などの手法は、さながら秀逸な推理小鋭が持つ迫力と緊迫感がただよう。大塩平八郎にまつわる妄説や毀誉褒乾を科学的な論証で排除し、その人物像のありのままを再現し彼の思索と行動の真実を明らかにする。

 本体価格二万八〇〇〇円+消費税であるが、本会会員に限り特典があるので、詳細は事務局へ。なお、三月二七日の「中斎忌」に相蘇氏の本書をテーマにした講演が予定されている。

 また、大阪歴史博物館の「なにわ歴博講座シリーズ3『幕末・近代の大阪』で、二月二七日、同氏が「大塩平八郎の手紙」と題して講演された。

◇『天満人』に特集大塩平八郎の乱

 本会会員で、情報誌「あるっく」の編集者である井上彰氏が『天満人』第二号(〇三年七月二〇目発行)に、特集として「大塩平八郎の乱」を取り上げた。一、大塩平八郎の乱、二、白井孝右衛門と大塩の乱、三、大塩平八郎の乱と隠岐島、四、旅籠町の豊嶋屋と大塩の乱、五、大塩はんの刀鍛冶、六、内山彦次郎暗殺からなり、二では本会会員の白井孝彦、 政野敦子の両氏が登場、三では本会会員で、〇三年二月二二日成正寺における本会記念行事で講演された松尾寿・大阪樟蔭女子大学教授の講演内容をダイジェストしている。また六では本会会員の相蘇一弘、井形正寿氏が内山昌居氏とともに対談している。本書に関するお問い合わせは電話(略)。

◇八木淳夫『宮内黙蔵全集 上巻・下巻』

 伊勢国亀山藩士の家に生まれた宮内黙蔵(一八四六〜一九二五)の著作・関連記録を網羅した大著、B5版一七三四頁を遠縁に当たる八木氏がまとめた。早く伊勢津藩の斎藤拙堂らに学び、明治十五年に天皇批判をした洋学派教員の辞職を招いた津中学校事件で漢学派としてその名が知られていたが、今回各地に綿密な調査を重ね、地質学者らしい精緻な方法でその生涯を詳述した。国学院大学などで講義した陽明学の著作「陸象山」「伝習録講義」「王学指常」なども収められている。中尾捨吉との交流やとくに石崎東国との交際も「陽明学」「陽明主義」から復原していて、髭を蓄えた東国の写真もある。近代陽明学の流れと史料を追うのに絶好の書。三重県郷土資料刊行会(津市・倉田正邦方)、〇三年七月刊、本体九〇四八円。問い合わせは八木氏あて(略)

◇長山直治『寺島蔵人と加賀藩政 化政天保期の百 万石群像』(桂書房・富山市、〇三年九月刊)

 加賀藩政について永年堅実な研究を重ねてきた金沢在住の会員長山直治氏が、高校教員退職を記念して優れた地域史研究をまとめた。藩政を批判して三度も咎められた寺島蔵人の生涯(一七七七〜一八三七)を一九世紀前半の具体的な藩政史の動きの中で分析した。藩主前田斎広に対して藩主は民のために存在するのではないかと痛烈に批判し能登島に流刑された。能登の珠洲郡飯田の春日神社の神主葛原秀藤とも交流があつたが、秀藤は天保五年八月大坂に大塩平八郎を訪い、『洗心洞箚記』を贈られている。蔵人も民衆を救うことのできない政治への批判から、乱後「ただただ逢いたき人は大塩平八郎に御座候」と語っている。寺島蔵人の旧邸は金沢市大手町で公開されており、すでに能登島の蟄居の地から金沢の家族に送った日記と手紙も翻刻され、その絵と文も刊行されている。地方・小出版流通センター扱い、本体二〇〇〇円。問い合わせは長山氏あて (電 話 略)

◇木南真一『楠葉だより』

 「もののあわれと求道精神」と副題して、表記の著書が〇三年九月明徳出版社から発行された。木南氏は中国哲学を専攻し、日本の儒学にも造詣が深く、書状など基本文献も精査して哲学的考察をすすめている。刊本を坐して解説する学風とは異なり、居住地から「楠葉だより」を発行し、東西に走ってその教学を説いている。帝塚山大学名誉教授。本書はこの「たより」の最近の号を集大成したもので、第二五四号に、讃岐多度津藩の林良斎をとり上げている。

 とくに、天保七年二月に門人の良斎が大塩を訪ねたとき、子弟で交わした質疑応答の書と、おそらく良斎の帰国時に贈ったと思われるかれの「自明軒」の書の二点の大塩らしい筆跡が写真で掲載されている。なお但馬の池田草庵と良斎の交流にも触れている。

 木南氏にはすでに『林良斎研究』 (一九八三年、自費出版)があり、その後、多度津文化財保存会編、吉田公平監修の『林良斎全集』(ぺりかん社、一九九九年刊)に序文を寄せている。大冊のこの全集の函文字は大塩が良斎に送った書の「弗慮胡獲 弗為胡成」が採られて、風格を漂わせている(広内理氏提供)。

◇大橋幸泰「文政期末坂『切支丹』考」

 『日本歴史』〇三年九月号掲載。大橋氏には『キリシタン民衆史の研究』(東京堂出版、〇一年一二月)の著書があり宗門史を超えて民衆史の目線でキリシタン史を追っているが、この論文は、キリシタンとは何か、異端とは何かを豊田みつぎの一件から問うもので、浦上や天草の潜伏キリシタンとは異質で、呪術による現世主義の信仰という点で民間信仰、流行神の突出したものとしたが、さらに異端をトータルとしてとらえる根源的な問題を投げかけている。

◇北方嫌三者『杖下に死す』書評

 『文芸春秋』〇一年一一月号から〇三年四月号にかけて連載された標記が、〇三年一〇月単行本として出版された。同書の「帯」には次のように記されている。

 【略】

 文芸評論家の寺田博氏が同誌〇四年新年号に、「この長編小説は大塩平八郎の養子の格之助と友情を結んだ若い剣士が、大塩平八郎の蜂起を予感しつつ傍観することとなり、この事件を自ら内面化することによつて刀を一捨てるという、型破りの成長小説だ」と評し、『週刊新潮』〇四年一月一・八日号の「福田和也の闘う時評」欄にも同書が紹介された。(文芸春秋刊、一八〇〇円)。

◇受贈図書

 龍谷大学史学会『龍谷史壇』第一一九・一二〇合併号。小田義久教授古希記念特集。二〇〇三年三月。記して厚く御礼申し上げます。

◇大塩平八郎の真実の姿を

 本会会員で『曾祖父大塩平八郎』の著者でもある、東京都稲城市在住の小西利子さんから次の投稿をいただきました。

【略】

◇訃報 古川治(日本藤樹会会長)さん

 〇三年七月五日急逝された。享年六八。陽明学の研究家で、文学博士。龍谷大学助手を経て、関西の数多くの大学で講師として教鞭を取られた。日本藤樹会は、一九三三(昭和八)年一〇月一日創立、事務局は滋賀県安曇川町の藤樹記念館に置かれ、会員数約一〇〇人、機関紙『藤樹研究』を発刊、隔年に総会を実施している。(同会員で本会会員の広内理さん提供)

◇大阪市長選に渡辺武さん奮戦

 会員の渡辺武さんが〇三年一一月三〇日執行の大阪市長選に出馬した。低投票率の中、二〇万票弱を獲得されたが、惜しくも当選に至らなかつた。

 本会有志が市民勝手連の一つとして「大塩平八郎勝手連」を組織して「救民」の旗を押し立てて、街頭演説などに参加した。また独自に勝手連をつくり、渡辺さんを支える会員の動きもあつた。

 本会の酒井一会長は、宣伝ビラに「むかし大塩はん いま渡辺たけるさん」と題して次の一文を寄せた。

 なお、渡辺さんは本研究会の一月三一日の例会に出席され、謝意を述べられた。


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