Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.24

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「洗心洞通信 37」

大塩研究 第49号』2003.7 より

◇禁転載◇


◇大塩中斎忌法要・講演と研究会総会

 二〇〇三年二月二二日午後一時三〇分から成正寺本堂において、同寺主催の大塩父子及関係殉難者怨親平等慰霊法要が有光友信住職を導師として営まれ、本堂前の記念碑、本堂其の大塩家墓所に展墓した。有光師から、本堂改修に伴い、一時大塩父子の基を本堂裏の同家墓所に移し、「殉じた人びとの碑」は前方へ移転したい旨報告された。

 その後本会主催の講演が行われ、会員で大阪樟蔭女子大学教授の松尾寿氏による「大塩事件と隠岐」と越して隠岐の史料をもとに流人の実態を示す興味深い講演があつた。

 小憩のあと、総会が開かれた。酒井一会長挨拶の後、井形正寿副会長から会務報告があり、例会を四月に衣摺・大蓮、六月に門真市立歴史資料館での講演会参加、同月淡路地方史研究会、大阪民衆史研究会との共催による淡路集会、一〇月に東海道守口宿、一一月に玉造同心屋敷跡とその界隈、同月小野市好古館と堀井儀三郎の記念碑と墓碑を訪ねたこと(会誌四七、四八号「洗心洞通信」参照)、研究会誌『大塩研究』を四五号〜四七号の三号分発刊(うち第四六号は「天満と大塩平八郎展」特集)したことなどが報告された。

 続いて新年度の活動について会長から、三月十五、十六日の第三回「天満と大塩平八郎」展とシンポジウムの開催、夏期セミナーとして江戸時代の裁判、江戸時代の本作り、大塩平八郎−幸田成友と森鴎外の三回開く、見学会として野崎観音、彦根市、神戸市須磨区車などを予定する。また会誌についても三月のシンポの記録を含めて年三回発刊したいこと、長く続いてきた「大塩の乱関係資料を読む会」については、会場の成正寺本堂改修を機に、研究会との関係を明確にするため「読む会部会」とし、毎回会費五百円、配付資料代は研究会会員は無料、非会員は実費を徴収すること、四月から大阪市天王寺区の大阪府教育会館で再開することが提案された。会計報告に移り久保在久委員所用のため代わって大野尚 一委員が報告書をもとに報告、二月一六日相蘇一弘・政埜隆雄両会計監査委員が監査を執行し、政埜隆雄委員から、適正に執行されている旨の報告がなされ、議題がすべて拍手で承認された (会計報告書は本号掲載)。

 本年は委員改選にあたり、和田義久委員から辞任の申し出があつたのでこれを承認し、後任に新しく常松隆嗣氏が就任した。新委員のメンバーは酒井一(会長)、井形正寿・向江強 (副会長)、久保在久(事務局長)、石橋彦徳、泉谷昭、大野尚一、尾崎真二郎、島田耕、島野穣、常松隆嗣、薮田貢、会計監査相蘇一弘・政埜隆雄、顧問有光友信。

 【出席者 省略】計三四名。

◇例会・大塩平八郎の被差別部落民観

 六月一五日午後一時半から大阪市北区のPLP会館で実施された。本会会員の森田康夫先生(樟蔭東女子短期大学名誉教授)が、標題のテーマで講演した。講演は檄文に見られる救民観、大塩の被差別部落民観をめぐつて、大塩の人間観、非人をどう見たか、を柱に論を進められ、部落民利用説に立って論を展開されてきた人達に批判的見解を示された。論旨は別途、本誌に掲載される予定である。

 【参加者 省略】計一六名。

◇大塩の乱関係資料を読む部会の発足

 八九年以来一〇余年にわたり、会場を提供されてきた成正寺様、講師を続けてこられた向江強氏と事務局担当の皆様のご努力により、営々と続けられてきました。このほど成正寺様の本堂改築工事に伴い、二月例会をもって一旦は休止することを決定しましたが、参加の皆様の強い要望があり、これに応えて四月から新たに、本会の直属部会として発足することになりました。

 その第一回目が四月二八日大阪府教育会館(たかつガーデン、大阪市天王寺区)で開かれ、二三名が参加、盛況の裡にスタートしました。目下テキストとして『塩逆述』を読んでおり、今後さらに様々な史料に取り組んで行く予定です。今後毎月第四月曜に実施します。会員の皆様のご参加をお待ち申し上げます。

◇淡路地方史研究会会誌『あわじ』

 同誌(〇三年一月一五日発刊、第二〇号=通巻三六号)が「平成一四年度淡路地方史研究会例会記録」として第三九八回例会(〇二年六月二三日)の記録を掲載している。

 また、「編集後記」では、「(大阪民衆史研究会の木津力松氏と)お二人の講師先生の内容豊かなお話は満員の聴衆を魅了しました。この講演会の開催に当たっては、映画監督としてご活躍中の島田耕氏(三原町八木出身)のお力添えがありました」とも記載されている。

◇府立中之島図書館「玄武洞文庫展」

 本会会員の田結荘哲治氏の御尊父田結荘金治氏と哲治氏によって同図書館に寄贈された田結荘千里関係の文書が「玄武洞文庫展」として「平成一五年度初夏の展示」で、六月一五日から二八日まで開かれた。

 文庫名の由来は、金治氏の祖父に当たる田結荘千里の父の出身地である但馬の名勝にちなんでつけられたものといわれ、希有なコレクションとして高く評価されている。

 同図書館のパンフにより、大塩関係の「大塩中斎門」の記事を紹介します。

◇滋賀県安曇川町の小川家文書調査報告

 中江藤樹書院の所在地として知られる安曇川町上小川の旧家小川秀和家文書は、早くから中江藤樹記念館に寄託され、時折調査者も訪れていたが、本会会員島田耕氏のお世話で、同町から酒井一氏が小川家古文書調査事業委託業務をうけ、一九九六年八月から整理に着手した。この業務に大塩事件研究会有志が協力する形を取り、主に会員と一部天理大学お よび神戸大学の学生の参加も得て藤樹記念館で順次作業に入った。当初九八年一月一〇日に目録を作成し終える予定であつたが、まとまりのない一紙文書が多く、書簡と封紙類や近代の役場からの領収書などを細かく収録したため、作業に手間取り、主要メンバーが宿泊しながら鋭意努力したものの、繁雑を極め、委託業務の期間を同年三月二七日に延長した。

 この時点で未盤理分の古文書を天理大学文学部歴史研究会に移し、もっぱらここで追い込み、文書目録を完成し、安曇川町に届けた。小川家の系譜や志村周次、石崎東国、富岡鉄斎と関係のものもあつたが、まとまりはあまりよくない。

 最終段階で、小川家の手元に史料価値の高い近世前期の古文書が十数点残されていることが判明し、急遽写真撮影を終え、その分の釈文と全体の解説をつける予定であったが、期限内に処理することができず、すでに送付の一九〇頁近い目録をもって完了することにした。

 古文書は、目録作成とともに藤樹記念館の収蔵庫に分類目録の順に配列して返納したが、文書のサイズが区々で今後閲覧に際して錯乱する恐れがある。この目録は町で印刷する手筈であつたが、事情で当方から届けた目録を同町社会教育課が保管する形で終了することとなった。

 この間、多くの方々に安曇川町や天理大学にご足労をおかけした。とくに整理の最終のまとめを担当された政野敦子氏、会計を担当し、目録の編集にたびたびの変更があつたにもかかわらず労を惜しまず印字に当たられた久保在久氏、目録カード作成に従事された故野市勇喜雄氏はじめ尾崎真二郎、荻野準造、馬場宏三、井形正寿らの各氏をはじめ遠路ご協力いただいた皆様に、遅ればせながらお詫び旁々御礼とともにご報告申し上げる次第である。

◇旭堂南海「講談・大塩平八郎」

 〇三年六月二四日午後七時から薬業年金会館(大阪・地下鉄谷町六丁目駅下車、徒歩六歩)で旭堂南海師が「何回続く会?」の六周年記念として、読み切り講談「大塩平八郎」を一時間半にわたって熱演した。さる三月本会でも一席演じられ、そのストーリーは本号に掲載されている。大塩が「平さん」の名で新町の料亭に張り込んで与力と商人の癒着を摘発するもので、奉行所の門に張り出された一連の不詳事件の犯人は「おおさかよりきしゆうのなかにあり」(大坂より紀州?、実は……)がキーワード。チラシにも東町奉行所跡や成正寺門前の大塩墓所の碑の写真、講演の内容を示すカットなどがあり、同師の研究ぶりがうかがえる。

◇鷹見泉石日記第三巻・事四巻の発刊

 乱当時大坂城代を務めた下総国古河藩(今は茨城県)土井利位のもとで家老職にあつた鷹見泉石の日記が順次吉川弘文館から発刊されているが、第三巻に乱から大塩捕らえ方に向かう様子が詳しく判明する。蘭学者として渡辺崋山らとも交流した人物の記録で、しかも逮捕に臨む当事者だけに三月二七日の記事は短いながら緊迫の雰囲気を伝えている。天保七年の播州地方の不穏の動き、播州河合中村の堀井儀三郎の逃亡の様子も辿れる。第四巻では天保九年の動きが分かる(両巻とも〇二年出版)。誤読が散見するのが惜しい。なお、靭油掛町美吉屋五郎兵衛宅に古河藩グループが踏み込む様子を伝える生々しい記録も別に守口市にある。折を見て紹介したい。

 ★参考 中瀬寿一他「『鷹見泉石日記』にみる大塩事件像

◇鷹見泉石が「ピンと来た」理由

 『古河郷土史研究会報』第四一号に、古河の眼科医で郷土史に詳しい川島恂二氏が「『五霧』地区は歴史の宝庫−理解の為の地図提供−」を発表。鷹見泉石が陣屋のあつた平野郷の女中の話から大塩潜伏を確信した歴史背景に触れている。室町期古河公方の所在地で「小山・古河古地」と呼ばれる細長い半島の南端にある五霧地区に、近世に入って信州から古河城主として来河した小笠原氏に対し、公方旧家臣の流れを酌む一色輝秀が幕府江戸納めの米の運送船を数年にわたって襲い、庄屋方に潜伏していた。庄屋屋敷内の稲荷嗣に庄屋が供える飯類がいつもカラで、狐が毎回食べるのかなと感じた女中が実家で洩らした伝承から藩側の役人が「ピンと来た」という話である。川島氏によるとこの話を泉石がよく承知していたと、先年大阪平野グループと訪河した際にも語られていた。判断は読者にお任せしたい。

◇京都雑色記録にみる大塩事件

 『京都雑色記録一 小島氏留書一』(京都大学史料叢書7、思文閣出版)が朝尾直弘氏の編集・解題で〇三年六月刊行された。近世京都に固有の警察行刑組織であつた雑色仲間の記録で、底本は京大総合博物館所蔵。天保八年の記事に大塩の乱の詳細が記録され、大塩が摂津島上郡(高槻市)の本山寺に立て龍もったという噂で捜査に乗り出す場面がある。これについては『日本通史』(岩波書店)の月報12で富井康夫氏が「祇園祭・雑色。大塩平八郎」(一九九四年九月)に紹介していたが、今回翻刻がまとまった。なおこの記録の全体にわたるわかりやすい解説は思文閣の『鴨東通信』(〇二・一二)に朝尾氏が語っている。

◇島本昭『維新物語−警保頭島本仲道』

 司法・警察の重職を務め、のち自由民権運動に身を投じた土佐出身の島本仲道(一八三三〜八九)のノンフィクションが仲道の子孫の手でまとめられた。文芸書房、〇三年四月刊。維新の激動に参加し、司法大丞、警保頭、大検事を兼ね、退官後法律実務の研修の場である北洲舎を大阪中之島などに開設、自由党結成に際しては常議員、自由新聞の主幹をつとめた。幕末・維新にたびたび投獄を経験し、一八八七年保安条例によって東京の外に追放された。山縣有朋の公金横領事件、豪商三谷三九郎の破産(山縣、井上馨、軍部、三井の癒着)、三菱の岩崎弥太郎の逮捕など、維新政府にかかわる大事件を裁き、さながら明治の大塩といっても過言ではない人物であろう。

 以前本誌第二号に、『横須賀新報』に一八八八年島本鳥歌の名で発表された大塩の乱連載の「民権講釈」があることを紹介したことがある。仲道には有名な『青天霹靂(史)』があり、この二人は同一人物ではないかとかねがね考えていたところである。本書には仲道が大塩に関心を持ち、著作もあることが取り上げられていないので、著者のご教示を得て、民権と大塩、仲道・鳥歌の関係を明らかにしたいと考えている(岸本隆巳氏寄)。

 ★参考 中瀬寿一「大阪における〃弁護士民権〃の先駆 島本仲道

◇長尾剛『大塩平八郎』

 「構造改革に玉砕した男」と副題がつけられて、KKベストセラーズから〇三年六月に出版された。本の帯に「江戸後期、自らの命と引き換えに、疲弊したこの国の体制に修復のメスを入れようとした男がいた。その名は誰もが記憶しているが、知られざる改革者の足跡、意地、信念!とある!」現代に構造改革の必要を感じる著者の視点が大塩に注がれている作品。

◇天満中学校夜間学級だより

 大阪市立天満中学校の教諭Wさんから「大塩さんと生徒さん」と題して、次の一文が寄せられた。  【略】

◇会員の訃報

 謹んでお悔やみ申し上げ、生前の本会へのご協力に感謝いたします。

 関根達郷さん 〇三年四月二三日死去。六九歳。大坂町奉行所東組与力の子孫で、祖父の関根一郷氏が、大塩から荻野勘左衛門倅四郎助(改名七右衛門)に宛てた書簡を所蔵されていたが(幸田成友『大塩平八郎』付録)、今は無い。昨年の「天満と大塩展」のトークに参加され、天満で過ごされた少年期の思い出などを語られた(本誌第四六号参照)。それを機に本会に入会された。鉄道マニアで、夫人から「これからいろいろ楽しめる年代なのに残念です。会の皆様にくれぐれもよろしく」とお手紙をいただいた。


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