Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.27

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「洗心洞通信 39」

大塩研究 第51号』2004.9 より

◇禁転載◇


◇大塩中斎忌法要・講演と研究会総会

 二〇〇四年三月二七日午後一時三〇分から成正寺において、同寺主催の大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要が有光友信住職及び有光友昭副住職によって営まれ、工事中の本堂裏で大塩家墓所に展墓した。

 終了後午後二時二〇分からPLP会館に場所を移し、本会主催の講演が行われ、会員で大阪歴史博物館副館長の相蘇一弘氏から、「大塩平八郎の書簡を読んで」と題して講演された。相蘇氏は昨秋、現時点で判明する大塩の書簡をすべて網羅し、懇切な解鋭と読み下しを付した著書『大塩平八郎書簡の研究』を清文堂から発刊されており、発刊を決心した動機、時期を明らかにするために要したさまざまなご努力や、いろいろな条件を付き合わせて許される範囲での推理を駆使しながら、年譜作成の苦労、そして新事実を明らかにできた喜びなどを豊富な実例を参考に、明らかにされた。

 そして、この手紙を読み解いたことにより、大塩が決起に至るまでの到達点が書簡を通じて浮かび上がつてきたと結ばれた。当日の出席者は、【略】計三四名

◇〇四年五月例会

 五月一五日天満のPLP会館で、常松隆嗣氏(本会会員、関西大学経済学部非常勤講師)が「豪農と武士のあいだ−茨田郡士の帯刀をめぐつて」と題して講演を行った。氏は門真市史の編纂に長年に亘って携わり、茨田那士について深く研究を重ねてきた実績があり、豪農についても独自の研究を発表している。茨田家(堂山町=旧門真三番村)は相続人がなく廃絶し、取り壊されて土地は門真市に寄付され、いまは公園となって「茨田邸跡」の記念碑が残るのみである。

 氏は茨田家が帯刀を許された経緯について解説の後、郡士が豪農と武士のあいだのいわば「グレーゾーン」に位置するととらえながら、しかし武士になりきれない部分があり、それが彼を大塩の学問の世界にのめり込ませる要因になつたと指摘した。それは茨田家に残された「金銭出入帳」の分析からも明らかで、乱の二、三年前から大塩に傾倒してゆく過程がよく示されているとした。なお、本号に講演の概要が掲載されているので参照されたい。当日の出席者は、【略】計二二名

◇〇四年七月例会

 七月三日天満のPLP会館で、中川すがね氏(甲子園大学助教授)が、「近世中後 期の大坂経済について−金融史研究より」と題して講演した。昨年同氏が出版した「大坂両替商の金融と社会』(清文堂出版)にもとづいて、従来の経済史研究の扱った史料と方法を再検討したもので、大坂経済の地盤低下への疑問、人口減が必ずしも経済停滞を意味しないといった斬新な観点から低成長期の質を問うものとして、大坂本両替仲間の実態から金融史を軸に論証した。幕府政策・貨幣相場・大名貸と本両替の関係・大坂と全国の人口を表示し、文書史料と地図を活用した、新鮮かつ堅実な内容で、新しい近世経済史研究の登場を告げるものであつた。当日の出席者は、【略】計二二名

◇能登半島を訪ねる

 念願だつた能登半島の大塩ゆかりの地の見学が、会員で金沢在住の長山直治氏の尽力で実現。〇四年八月二〜三日(月〜火曜)にかけてマイクロバスによる楽しく有益で本会として最遠地への研修ツアーとなつた。内容は本号掲載の松浦木遊氏の紀行文を参考されたい。

 歴史調査の面から若干蛇足を加えたい。珠洲市飯田町の春日神社では宮司葛原(かつらはら)秀文氏から説明をうけ、天保期大塩と交流のあつた非公開の葛原秀郷の「随筆」(日記)を閲覧する機会を与えられ、同町乗光寺では落合住職夫妻から寺史と大塩潜伏の伝承を伺った。同寺には大塩がここに逃れ、折戸から九州へ走つたとする言い伝えがあり、事件後加賀藩の役人が部屋中を槍で突いて捜査したという。家付きの響子夫人は、市議としてこの地に計画された原子力発電所設置反対の先頭に立つて中止させるという成果を挙げられたが、大塩伝承と一貫した精神という響子さんの熱弁に一同耳を傾けた。珠洲市の調査 には地元の西山郷史氏のお世評になった。富来町ではこの地の歴史を調査し、地域の活性化に渤海との交流シンポなど多彩な活躍をされている瀬戸松之氏の案内をうけ、河内尊延寺村の才次郎一行が訪ねた巌門の不動尊および福浦(ふくら)の潜伏地で才次郎終焉の地となつた船宿跡(昨年建物は解体していまは更地)を見学した。船宿は大坂や松前などの絵馬のある金比羅神社や風待ちの港に近く、ときに道筋の遊所で大坂弁がきかれたことを推察すると、才次郎らの望郷の思いに胸が痛む。瀬戸氏はさきに『客人の港福浦の歴史』を、この六月『福浦ものがたり』を編集責任者として発刊されている。

 この旅行にはこの地の研究に通じた長山直治氏のお世話になり、長年の調査にもとづく説明をうけた。おかげで「能登はやさしや土までも」という土地柄に触れ、朝市のみやげとともに充実した二日間であつた。能登の皆様ありがとう。事務局として万端世話された久保在久氏ありがとう。参加者は、【略】計十三名。

◇相蘇一弘氏「大塩平八郎と頼山陽」

 〇三年九月大阪歴史博物館『研究紀要』第一号に、「−文政十三年『日本外史』の譲渡を巡って−」と副題された標記の論文が発表された。

 相蘇氏は長年にわたる大塩書簡の研究によってすでに大塩研究について新しい観点からのいくつもの論考を発表しているが、今回は大塩と頼山陽の出会いが従来の文政七年三月説に対して同五年一〇月以前であること、文政十三年の『日本外史』贈呈をめぐるトラブルが契機で親交を深め、天保三年九月山陽葬儀の当日京都にいながら参列しなかつたことなどを証明した。

◇旧彦根藩家老・宇津木文書の紹介

 東京都『世田谷区立郷土資料館だより』No.40(〇四年三月)に、武田庸二郎氏による標記の史料紹介が掲載された。区内在住の宇津木清氏所蔵文書の調査概要報告を兼ねたもので、このなかに宇津木静区が末弟房之助に宛てた、天保七年の六月一四日付と八月一八日付の二つの書簡が翻刻されている。前者では弟の洗心洞入塾の希望を喜んでいるが、二か月後の後者では、「至而深き子細」があり、入門を断然思い止まるよう求め、この件は口外しないように伝えている。この二か月の間に兄弟は高宮河原(彦根市)でこれにかかわる話をしていたようだ。大事な鍵が隠されているらしい。

◇斎藤拙堂展

 伊勢国津藩の儒者斎藤拙堂の資料展が〇四年五月一四日〜六月二〇日、津市の石水博物 館で開催された。本会会員で拙堂五代目の子孫に当たる斎藤正和氏の優れた解説がつけられ、主に同家伝来の資料を中心に石水博物館蔵など関連の記録も合わせて展示された。このなかに、拙堂宛大塩の天保五年二月(三月)一八日付書簡(大阪歴史博物館蔵)が写真で展示された。

◇桑原宛大塩平八郎書状など二点

 『思文閣古書資料目録』第百八十七号(善本特集第十六輯=〇四年七月)に水戸藩に属していたと思われる桑原某宛の欠年一一月一二日付書状と年月日・宛所を欠く書状が掲載されている。前者には、「兵庫・西宮が尼崎藩から明和六年に上知されたことに触れ、備前から西はよく知らない」としている。後者は宇津木俵二(静区)を二八歳としているから、天保七年と推定される。まだまだ大塩書状は発見されそうだ。

◇相蘇一弘「岡熊岳宛大塩平八郎書簡」

 思文閣出版の『鴨東通信』No.54(〇四年八月)に、大阪歴史博物館所蔵の標記書簡が写真と解説によって紹介された。すでに発刊された同氏の大著に収められているが、大坂尾張坂町に住む画家岡熊岳宛てに天保四年七月六日に出されたもので、伊勢の御師足代弘訓 の突然の訪問を受け、『箚記』を熟覧して「海内一人にても忠孝之豪傑」が出ることを祈る心境を語ったものである。一通の書簡から伝わるメッセージを深い読みで紹介している。

◇成正寺本堂、客殿建立工事

 本会の事務局が置か れている成正寺の「立教開宗七五〇年、成正寺開創四〇〇年慶讃」の標記工事に関して三月六日に上棟式が行われた。その後工事はつつがなく進捗し、予定通り一〇月一七日に落成の運びとなつた。同日落慶法要及び祝賀会が開催される予定である。

◇「関係資料を読む部会」の一年

 〇三年三月から本会の直営として会場を大阪府教育会館(天王寺区東高津町)に移して、毎月第四月曜日に実施してきました。テキストは『塩逆述』で、巻八から九に移っています。酒井一会長をチュ一夕ーとして、最多で二六名、平均二〇余名が参加して学習を重ねています。会費は一回五〇〇円(本会賛助会員は無料)、テキストのコピー代は会員に限り本会負担となつています。いつからでも参加できますので、参加ご希望の方は事務局へお知らせ下さい。ご案内を差し上げます。

◇会見の訃報 山脇修身氏

 〇四年六月病没。九二年九月二〇日入会され、各種行事に熱心に参加された。大塩平八郎展では実行委員として会場に常駐し、成功のために奮闘された。

◇『蔕文庫』の受賞

 会員の松井勇さんが主宰している標記の文芸誌が〇四年六月「第七回日本自費出版文化賞」の部門賞(文芸A)を受賞し、関係者、友人らによる祝賀会が八月二八日大阪市中央区で盛大に開催された。同誌は季刊で発行部数一〇〇〇部。ユニークな編集で知られ、会員も徐々に増加しつつある。お問い合わせは松井さん(略)

◇訂正

 前号八〇頁掲載、松浦木遊民『世直し平八郎』の左側下段の説明文の末尾に「(左‥伊賀和洋 画)」が抜けていました。お詫びして訂正いたします。


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