尊延寺村深尾才治郎の末孫にあたる野田昌秀氏からは、同村の天保八年の墓石のことや、才治郎の母のぷが春日村の出身(実は父であることが後日わかる)であったので、その実家である奥野家も捜索され、離れ座敷の天井を踏みぬかれたこと、尊延寺村の来雲寺の欄間には関係者の戒名が刻まれていて、事件の追悼の意がこめられているのではないかと発言された(本号の田宮氏による調査報告を参照)。
座談会のあと、茨田家の古文書を門真市教委の後藤賢一郎氏の解説で拝見し、さらに寒さのなかを徒歩で約一時間ほど現地見学に出かけた。郡士邸あとは市所有となって茨田公園として残され、東南偶の碑にその由緒をとどめている。ここから少し歩いた守口市との境に接して小路墓地があり、茨田家関係の墓碑を拝見した。「天保丙申孟夏」(天保七年)に郡士が建てた「先祖累世墓」もある。とくに墓地の奥正面に「南无阿弥陀仏」と刻まれた同じく天保七年首夏の供養碑があるが、その施主に、野田五郎兵衛、西島長右衛門、岡田亀松とともに茨田郡士の名もみられ、事件前年に墓地に深くかかわったことがわかる。なおこの墓地は、もとはもっと西にあり、松下電器の工場建設にともなって現在地に移されたものである。
なお当日同じ三番村の参加者であった高橋九右衛門については、十分話題にのせることができなかったが、子孫が流刑地種子島(鹿児島県西ノ表市の徳永逞およぴ武田家)におられるし、例会には三代目庄太郎の弟の子にあたる伊地智善継氏も参加された。
平八郎の叔父にあたる志摩には、妻りかとの間に、発太郎・とく・いく(平八郎養女)・新次郎・ゑい・辰三郎の六人の子があり、このうち新次郎(幼名半七)とゑいが壱岐島に流刑され、現在の勝本町大久保触の坂口武臣家に徒泊したという。流された年月は不詳だが、のち半七は国許へ出した手紙がもとで渡良の原島へ島替えさせられ、維新後一旦故郷の吹田村へ戻ってくるが、その後壱岐に永住し、坂口姓を名乗り、明治三九年頃七三歳で没した。妹のゑいも武生水の角屋に嫁し、壱岐で生涯を終えている。
長男発太郎は、さきの大阪市立博物館の展示にもあったように、天草に流され、明冶三年二月に赦免され(当時四六歳)、吹田に帰住している。三男辰三郎は、隠岐へ流されてここに永住し角新三郎と称したという。さらに現地での調査が期待されるところである。
一九七六年三月刊行の愛知県の『西尾市史 近世下三』も興味深い史料を紹介している。近世史の上ではよく知られている三河国幡豆郡寺津村(いまの西尾市)の寺津八幡宮の神官であった渡辺政香(安永五−天保十一)の一揆記録に大塩事件にかんするものが二点含まれ、現在西尾市立図書館岩瀬文庫に架蔵されている。
政香は、神官として京都白川家に入門し、伊勢の足代弘訓(ひろのり)にも和歌の指導をうけ、また平田篤胤銕胤とも交流のあった人物である。天保七年(一八三六)に百科全書ともいうぺき『参河志』を著わし(のち大正十年公刊)天明以後の飢饉の惨状を詳しく記録している。かれの名を高からしめたのは、天保七年八月に起った甲斐郡内一揆について「天保甲斐国騒立」を、九月の三河加茂一揆について「鴨の騒立」を、同月の寺津村一揆について「寺津村旧記」を記録したことにある。とくに「鴨の騒立」は、早く高橋【石真】一氏によって一九五七年に『歴史評論』84・87・88・89に紹介され、のち同氏の著書『乱世の歴史像』(志摩書房、一九五九年)に収録された。
その後この史料は、近藤恒次編『三河文献集 近世編 下』(愛知県宝飯郡地方史編纂委員会、一九六五年)、『日本庶民史料集成』第六巻(三一書房、一九六八年)および『日本思想大系 58 民衆運動の思想』(岩波書店、一九七四)にも収められ、広くよまれるようになり、「上がゆがむと下は猶ゆがみます」といった一揆方の言葉も周知のものとなった。高橋【石真】一・塚本学氏につづいて、布川清司氏も『近世民衆の倫理的エネルギー』(風媒社、一九七六年)でこの一揆をとりあげている。
この一連の一揆記録でのこした翌年に大塩事件がおこり、政香は早速『天保八酉二月十九日始り 大坂騒動聞書』五二丁、『天保八酉二月十九日始り 浪華騒動略記』一七丁をかきとめているのである。後者は政敬(ゆき)と政乾(もと)の手になり、前者の史料綴りになっている。情報の一つの流れは、大坂鈴木町代官根本善左衛円家来菊田雄助・穂井田兵助からの書状である。事件ニュースの伝播の動きを示している。『西尾市史』のこの項を担当した杉浦敦太郎氏は、政香の一揆についての関心には、足代弘訓の影響があるかもしれないと推定されている。
大塩の著作や書面などをよくよみこんで、いままでほとんど手をつけられなかった降明学者としての大塩の思想を、ひきしまった文章で描き出し、事件にいたる歩みを丹念に追っている。ぜひ一覧を乞う。