Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.6訂正
1999.10.23

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「洗心洞通信 6」

大塩研究 第6号』1978.3 より
 

◇衣摺村市太郎の戒名が判明

 大塩平八郎は難渋人に施行をするにあたって、天満に火事があれば必ず駈けつけよと命じたが、天保八年二月十九日の朝、天満の方角に火の手の上るのを見て駈けつけた一人、河内衣摺村の市太郎は私の曽祖母つゆの兄である。市太郎は、平八郎門人白井孝右衛門の甥で、門人白井(本来は政野)儀次郎の兄にあたる。つまり、孝右衛門は、市太郎の父重郎右衛門の弟で、衣摺付に生まれ、名を三郎右衛門といったが、文化八年二十五歳のとき守口町白井家へ養子入りしたのである。市太郎・儀次郎兄弟や孝右衛門そのほか一族をめぐって大塩事件との関係を、さきに拙稿『歴史研究』第一八一号「大塩平八郎と河内国衣摺(きずり)村」および『大塩研究』第四号「河内国大蓮(おばつじ)村知足庵正方のこと」に発表したが、少しばかり補筆してみたい。

 市太郎は、孝右衛門の指図で二月十日大塩邸に赴いて、衣摺村に対する施行一朱金三十をうけとった。

 市太郎が淡路町辺で召捕えられ、病死したことは判明したが、私の家の過去帳は、市太郎が書いたもので、市太郎をはじめ大塩事件関係者や家族についての記載がなく、その後空白があって再び慶応二年死没者から記載する形をとっているので、肝腎の市太郎がいつ死亡したのかわからなかった。二年前、政野家菩提寺である衣摺村光泉寺(現在の東大阪市衣摺三丁目)の過去帳を閲覧して、「釈正導天保八酉年四月十三日市太郎」とあるのを発見した。死亡の時期や、政野家の戒名に「正」が多いことから、釈正導は政野市太郎に相違ないと考えられるがそれを裏づけるものがなかった。

 ことし五月私は、これまでたしかめたことのない「雪舟末流等悦筆」と箱書きしてある軸の箱をあけてみたところ、法要軸が入っていた。胸をおどらせてひろげてみると、初代「釈道味」から戒名が連ねられ、終りの方に「釈正導天保八酉年四月十三日」と記してあった。これにより光泉寺の過去帳に記載されている市太郎は政野市太郎に相違ないことが明確になったのである。

 この法要軸の発見によって、新らたに一つの疑問が起きた。釈正導の一つ前に「釈正見天保八酉年四月七日」と記されているが、これは一休誰であろうか。市太郎の弟儀次郎は、『浪華異聞』(大阪府立中之島図書館蔵)によると、天保八年五月十八日大坂牢舎で病死している。若しやこれは鶴蔵ではないだろうか。『出潮引潮奸賊聞集記」(大阪市立博物館蔵)に、「御仕置之御沙汰に不及候」として、約二五〇人の名をあげている中に「稲葉丹後守領分河州渋川郡衣摺村百姓市太郎母よふ同人弟鶴蔵同人妹つゆ」とあり、鶴蔵という人物がいたことをはじめて知ったが、鶴蔵の行動や最期については、いまのところ全くわからない。私の幼いとき、祖母が「大塩騒動のとき一人は九州まで落ちて行ったらしい」と話していたのは鶴蔵のことか、それとも、『浪華異聞』に「行方相知不申候」とある同村の八左衛門のことなのか。「釈正見天保八酉年四月七日」とも関連するのか、ともに解明したいものとねがっている。

             (関係者子孫・政野敦子)

◇第四回総会開かる

 三月二六日(日曜日)の午後総会が大阪市北区末広町の大塩家菩提寺である成正寺で盛大に開かれた。恒例のように大塩父子およぴ関係殉難者の慰霊法要と墓参をおこなったあと、大阪産業大学教授中瀬寿一氏の「大塩の乱と泉屋住友」と題する記念講演があった。

 中瀬教授は、専門の経営史研究の関心をふまえて大塩事件に新しいスポットをあてようとされた。両替・豪商がなぜ焼打ちにあわざるをえなかったか、事件の衝撃によって、住友の「家事改革」(当時なりの「財閥の転向」)をおこなうにいたったのではないかなど興味深い論点を示され、天保改革や明冶維新の新しい評価の必要を示唆された。詳細は当日配布された本誌第五号所収の同教授論文「大塩事件と特権的大町人=泉屋住友」を参照されたい。

 このあと一年間の会の活動報告。会計報告がおこなわれた。中間会計報告で十数万円にのぽる赤字が明らかになったため、会員からその解決方法をめぐって活発な意見が出された。

 会財政の危機は会員全体で負担して解決すぺきで、そのためには現行二千円の会費を三千円に値上げすべきだという意見も少くなかったが、会員の実態からみて今年度は会費(普通会員〉をすえおき、別個に賛助会員制を設け、一ロ一万円以上で篤志者によびかけることになった。

 なお役員についても異動があり、脇田修氏が辞任し、かわって藪田貫氏(大阪大学)が就任された。その他は従来どおり。

◇第五回例会

 さる九月九日午後二時から東大阪市中央公民館で第五回例会を開いた。本来なら六、七月中に開くはずであったが、予定していた計画が難航したため、記録やぶりの炎暑のやゝやわらいだ九月にいたった。

 大阪市立博物館の相蘇一弘氏から「江戸時代の刑罰と大塩事件」と題して長時間にわたってわかりやすい詳細な講演をうかがった。大塩事件関係者の牢死者が六三%に達し、一般のケースよりはるかに高いことから、江戸時代の行政、警察、裁判について具体的に例示、解説を加えられた。

 なお三月の総会以後の活動について、奈良県の史料調査の手がかりがえられ、この地方の研究の必要も指摘、賛助会員への加入のよびかけもおこなわれた。


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