Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.12.9

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「洗心洞通信 59」

大塩研究 第71号』2014.8 より

◇禁転載◇


◇大塩中寿忌法要・記念講演と総会

 二〇一四年三月二九日午後一時半から成正寺において、同寺主催の「大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要」が有光友昭副住職によって営まれ、本堂にて看経の後、墓碑に展墓した。
 その後、本会主催の記念講演会が行われ、岩城卓二氏(京都大学教授)が「大塩鎮圧に関わった代官所役人水野正太夫」と題して講演した。氏によれば、水野正太夫は大坂・鈴木町代官所役人のときに大塩の乱の鎮圧に参加、さらには能勢騒動にも遭遇している。その消息が前任地(石見大森陣屋)で懇意となつた商人の熊谷氏への書状の中に残っている。それには大塩の乱の初手の代官所の狼狽振りから体制を立て直し鎮圧に至るまでの経過が、かなり事実に即して活写されている。乱について鎮圧する側からの記録は極めて少なく、その正確性とともに貴重な資料といえる。その後、水野正太夫は手代から手附(幕臣)へ出世し、江戸、佐渡、蝦夷と役替えを命ぜられていくが、武功だけではなく、有能な官僚としての能力をも評価されていたことを窺わせる。水野正太夫の子も同じく正太夫を名乗っているが、彰義隊に関わり、またアムール川の探検にも行っているなど、父子ともに波乱の人生を送っている。鎮圧する側からの大塩の乱の記述に加え、低位の役人ながら最終履歴としては箱館奉行支配組頭まで昇進した水野正太夫の人生を垣間見ることができ、聴講者からは肝銘を受けたとの感想が寄せられた。
 小憩の後、内田正雄事務局長の司会で総会が開催された。常松隆嗣副会長から二〇一三年度会務報告、内田事務局長から会計報告、政埜隆雄会計監査委員から会計監査報告がなされた。続いて二〇一四年度行事計画が内田事務局長から報告された。最後に閉会挨拶が井上宏委員からあり、総会は終了した。
 当日の参加者は、(中略)、計四二名

◇五月例会

 五月四日兵庫県立歴史博物館(姫路市)で開催中の「NHK大河ドラマ特別展 軍師官兵衛」展の見学会を実施した。黒田官兵衛の一生を編年体で、その時々に関わりのあつた人々とともに振り返るという構成であった。展示されている歴史資料には貴重なものが多く、中でも官兵衛が織田信長から拝領したという「刀 名物・圧切(へしきり)長谷部」(国宝)は見学者の目を釘付けにしていた。NHK大河ドラマの人気は凄まじく午後からは入場制限が行われ会場外に行列ができるほどだった。尚、本会会長薮田貫氏(関西大学教授)は四月より兵庫県立歴史博物館館長を兼務している。
 当日の参加者は、(中略)、計一九名

◇八尾市立歴史民俗資料館歴史講座

 大阪府八尾市に所在する当館は二〇一三年一〇月から二〇一四年三月まで「人物でみる八尾の歴史」というテーマで六回の連続講座を実施したが、その第五回(二〇一四年二月一日)に本会副会長の常松隆嗣氏が「大塩平八郎と門弟たち」と題し講演を行った。
 八尾市は大塩平八郎の門弟で弓削村の豪農・西村七右衛門の出身地であり、同じく門弟の同心・渡辺良左衛門が逃亡中に田井中村で自害した土地でもある。
 講演は乱当時の政情から、乱の経緯、門人たちの動静、乱後の影響・評価など多岐に捗る内容を平易に説かれたことから聴講者の関心も高く講演後の質疑も活発で盛況に終わった。

◇旧河澄家歴史講演会

 旧河澄家(きゅうかわずみけ・東大阪市日下町)において二〇一四年五月一一日開催された歴史講演会で本会会員の松永友和氏が、「大坂町奉行と大坂代官」と題し講演を行った。日下村は江戸前期大坂西町奉行の支配下にあり、知行地であった。講演は地元の神社(丹波神社)で祭神にもなつている大坂西町奉行・曽我丹波守古祐(ひさすけ)を軸に、大坂町奉行と大坂代官についてパワーポイントを使いながらわかりやすく解説された。(会場の旧川澄家は曽我古祐が隠居後居住したと伝えられている)
 日下地区は上田秋成が隠棲し、地元の文化人と交流した土地としても知られている。また、神武東征伝承では長髄彦との戦役地にも比定されているなど、歴史との関わりが深い土地柄である。参加者からの質問も活発で盛会であった。

◇山田方谷宛佐藤一斎書冊の中の大塩像

 二〇一四年五月二三日〜六月二九日岡山県立博物館に於いて開催された特別展「山田方谷」に「山田方谷宛佐藤一斎書簡」(天保八年三月六日:個人蔵)が出品されていた。同図録の解説を引用する。
 「佐藤一斎が山田方谷に宛てた書簡。元大坂町奉行所与力の陽明学者大塩平八郎が、先月おこした乱について触れ、「愕然の至」と率直に驚きを伝えている。また、陽明学の根本の一つである「致良知」をもって、事件を振り返り、大塩の行動に対して批判を加えている。」

◇近藤重蔵と大塩平八郎の出会い

 大阪歴史博物館が発行している「なにわ歴博カレンダー」第五〇号(二〇一四年五月二八日発行)で同館にて展示中の文政二(一八一九)年八朔版の『浪華御役録(なにわおんやくろく)』について巻頭で取り上げ、解説している。
 『浪華御役録』は江戸期の大坂で勤務した武士の名鑑であるが、文政二年八朔版には千島探検で名を上げ、江戸で書物奉行となつたものの左遷人事により大坂の「弓奉行」に任じられた近藤重蔵と、「目安役並証文役」与力の大塩平八郎の名が見える。二人は大塩が近藤の子弟の鑓の師を紹介するなど私的な交流があった。
 『浪華御役録』は同館において常設展示場九階「武士の支配・町人の自治」コーナーにて九月八日(月)まで展示「予定」である。また、同コーナーでは、佐藤一斎宛大塩平八郎書簡(天保四年六月)も展示されている。見学される方は念の為事前に確認されたい。(同館の電話番号は、〇六−六九四六−五七二八)

◇「大塩平八郎の乱の跡をたどる」

 と云う記事が日本経済新聞の二〇一四年三月一三日の夕刊、関西View欄に掲載された。編集委員の毛糠秀樹氏が薮田会長をはじめ大塩事件研究会の関係者や成正寺などを取材し、資料の提供を受けて纏めたもの。
 本文には乱の発生から終結までと背景を、短くはあるが分かりやすく書かれている。また「檄文の裏に一通の秘策」と云う見出しで決起前日に、幕府の老中等に送られた「建議書」に触れる。これについては薮田会長の「倣文と建議書を合わせてみることで、乱に新たな光があたる」他のコメントも記載されている。(内田)

◇新聞記事・白井孝右衛門と大塩の乱

 産経新聞二〇一四年五月一一日「河内幻視行」欄で守口市の白井邸跡を訪ね、白井孝右衛門を軸に大塩の乱を振り返る記事が掲載された。題して「大塩平八郎一派の無謀な蜂起」。
 冒頭、白井孝右衛門が邸の土蔵脇の「野太い松の木」を根元から伐採させ、「大筒」を造ったことが語られ、次いで乱の背景、真因、経過に触れた後、白井邸跡の一角に建つ石碑(碑銘:「大塩平八郎ゆかりの書院 門弟白井孝右衛門屋敷跡」)の側にある「小さな松の木」について「大筒となった松から枝分かれした松なのだろうか」と写真入りで結んでいる。しかしながら実際はこの木は松ではなく槙である。後日の為書き留めさせていただく。(白井孝彦氏からの情報提供)

◇森田康夫氏の新書

 本会会員の森田康夫氏が和泉書院から『大塩思想の射程』を出版された。(二〇一四年六月一〇日 定価 本体六〇〇〇円+税)
 本書は一四章、二九五頁に及ぶ大作であるが、一四章のうち一〇章が書き下ろし。また、「大塩」の文字がある章が九章に及んでいる。(内田)

◇『小説 山田大助』 天保八年の能勢一揆の主謀者山田屋大助(「大塩平八郎を解く」に記載された名称。小説では山田大助)の半生を描いた土岐稔氏の小説が大阪市の(株)清心社から出版された。(二〇一三年八月一日 定価 本体一〇〇〇円+税)
 著者は、兵庫県川西市で永く教員生活を送り、同市多田小学校の校長を退職後、執筆活動をはじめた。
 本文では小説仕立てであるが、「能勢一揆」(小説では能勢騒動)について詳しく書かれているほか「大塩の乱」をはじめ「生田万の乱」「百姓一揆」についても触れる。
 また山田屋大助との関係から頼山陽・篠崎小竹が書かれ、大塩平八郎・坂本鉉之助・跡部山城守なども登場して興味深い。(内田)

◇池内紀の「大塩立てり」

 ドイツ文学者でエッセイストの池内紀が『きまぐれ歴史散歩』(中公新書二〇一三年九月刊)の「大塩立てり」の章で洗心洞跡を訪ね、大塩の乱について述べている。もとは雑誌連載の旅行エッセイであるが、流行作家らしく乱の概要について手際よく触れられている。

◇西部邁・黒鉄ヒロシ『もはや、これまで』の大塩像

 西部邁(評論家)と黒鉄ヒロシ(漫画家)の対談集(PHP研究所二〇一三年一二月刊)の中で大塩平八郎が何度か登場している。黒鉄は大塩平八郎について「江戸末期の時代においてナンバーワンに位置するインテリ」であり、「大事がわかっていた」人物で、「(乱が)失敗するということを百も承知だったはずです。それでも立った凄さ」、「人のために生きた」などの発言があり、大塩に傾倒している様子が興味を引く。

◇隠岐の島に残る大塩事件関連の御触書

 奈良市在住の松尾さんを通して松江市の杉原さんより大塩事件関連の古文書が過日提供されました。遅くなりましたがお知らせ致しますとともに、お二人に厚くお礼申し上げます。
 ご提供頂きました古文書は、隠岐の島、那久村の庄屋輿市郎による「天保八年酉七月 御公儀様御触書記」のなかの一部で、大塩事件の逃亡者探索に関する公儀からの御触をうけて、松江藩家老五名が隠岐郡代、島後(どうご)代官、島前(どうぜん)代官の三名に宛てて出した御触書です。
 公儀の御触書は酉四月の日付のもので、「平八郎父子、瀬田済之助、渡辺良左衛門、近藤梶五郎、庄司儀左衛門は召し捕り、又は自滅したので尋ねる必要はなくなったが、大井正一郎、河合郷左衛門は油断なく尋ねるよう触れ置いた。しかし、正一郎も召し捕ったので尋ねる必要がなくなった。尤も郷左衛門はいよいよ油断なく尋ねるよう」とのもので、既知の内容です。松江藩の御触書は、公儀の御触をうけて五月廿日と五月廿八日の日付で家老五名の連名で、隠岐郡代および島後と島前の両代官宛に両島中へ触れるべきことを命じたものです。なお、五月廿八日の御触書の後には、七月十八日の日付で隠岐郡代と島前代官の連名で村の「大庄屋両人」宛に村中へ触れるべきことを命じた御触も付されています。
 隠岐の島まで御触書が廻されたということは、大塩事件の影響がいかに大きいものであつたかを示す証拠ではないでしょうか。(福島孝夫)

◇「出張鑑定IN屋久島」

 テレビ大阪(テレビ東京系 列)の人気長寿番組『開運!なんでも鑑定団』の中で、「出張鑑定IN屋久島」と題して、屋久島での鑑定大会の様子が、二〇一四年三月四日に放映された。
 同番組は参加者の持ち寄った骨董類を、そのエピソードとともに紹介し、番組が用意した鑑定士が評価額を決定するというものであるが、同日の参加者の中で屋久島在住の川崎氏が染付の皿二点を示し評価を仰いだ。氏によると、先祖は大塩の乱の同志として処刑されたが、その子が屋久島へ遠島となり、その際この二枚の皿を持参したということであった。本人の評価額は五〇万円であつたが、鑑定士の中島誠之助(古美術鑑定家)の鑑定結果は、この皿は明治時代前期の伊万里焼であり時代が合わないということで、三万五千円の評価となった。
 川崎氏によれば、その先祖は明治になつて赦免されたのちも島に留まり、石油ランプの普及に尽力したということである。前田愛子氏「屋久島を旅して」(『大塩研究』第一〇号所収)を参照すると、川崎氏は木村司歌之助の縁故の方と思われる。

◇「天満 謎の寺町」

 という報道が五月一三日のNHKKテレビで放映されました。関西向けの番組「ニューステラス関西」の中の「ブラモリタ」という、同じNHKの人気番組「プラタモリ」をもじったコーナーです。 この番組のキャスターを務める森田洋平アナが直接出向いて大阪の町の謎を探る趣向です。今回は天満の寺町が一直線の謎、与力町・同心町の謎を探ります。
 寺町は専念寺の住職が案内役となり、謎を解き明かして行きます。続いて与力町・同心町を歩いている時、森田アナも知っている有名人として、大塩平八郎が頭に浮かび成正寺へ。
 成正寺では有光副住職から「中斎大塩先生・大塩格之助君」の墓や大塩事件の説明を受け、「檄文」を見て長文に驚きます。
 また、先代住職が地中から発見した大塩家先祖代々の墓のシーンでは、大塩事件研究会「大塩研究」よりとして、先代住職と墓の写真が画面に映し出されました。(内田)

◇「大塩平八郎は、身長二一七cm?」

 編集子が新しく『大塩研究』の編集担当になった旨を告げた際、会員 以外の数名の方から異口同音に「大塩平八郎?上背が二メートルを超える人ですね」と云われた。その方々の共通項はネット利用者であったので、調べてみると、インターネットポータルサイトgooの中のQ&Aサイト「教えて!goo」に二〇一一年七月、「大塩平八郎は、身長二一七cm?」という質問が投稿されていて、それがYahoo!などの検索結果の上位に表示されていることがわかった。
 質問では他に戦国武将や江戸期の著名人の身長も例示されていたが、質問の表題に何故、大塩平八郎が使われたのかは不明である。寄せられた回答では戦国武将は敵を威圧するため大男と宣伝したのではというものがあったが、大塩の場合には当て嵌まらない。質問内容の出所を知りたいという真っ当な「回答」もあった。些か旧聞に属する話題であるが、ネット情報は若年層のイメージ形成に繋がることが多いので指摘しておく。

◇会見の動静

 島田耕氏はこの度ご自身も会員・副会長である大阪民衆史研究会より『島田邦二郎「立憲政体改革之急務」と帝国憲法批判』(仮題)を共著で刊行することとなった。(本年末刊行予定)島田邦二郎は淡路島出身で兄・彦七とともに明治期の自由民権運動に尽力した。「立憲政体改革之急務」は発布直後の旧帝国憲法を真っ向から批判したものであり、自由民権運動のひとつの到達点を示す貴重な史料として知られる。島田氏は本史料の事実上の発見者であり、邦二郎の兄・彦七は曾祖父に当たる。
 また島田氏は映画監督として、ドキュメンタリー映画「赤野井湾から琵琶湖再生を考える」を製作中。原作の吉川忠司著『古代湖の探訪と現琵琶湖の再生』をもとに映画化し、琵琶湖で最も水質悪化が深刻といわれる赤野井湾に焦点をあて、琵琶湖再生の道を探ろうとしている。(年内完成予定)

◇会員の訃報

長谷川伸三 二〇一四年六月一三日、奈良市富雄の自宅で逝去。享年七八才。
 東京教育大学大学院文学研究科博士課程修了。茨城大学名誉教授、大阪樟蔭女子大学元教授、文学博士。
 『近世農村構造の史的分析』(柏書房)など著書多数。本会では永く顧問を務められ、また「大塩の乱関係資料を読む部会」の講師として古文書及び近世史のご指導を頂いた。

天坂 旭氏 二〇一四年七月一日逝去。享年六九才。枚方市星丘在住。通院治療を受けながらも、普段と変わらぬ活動と最後の整理を進められた由。
 本会には二〇〇七年三月入会。熱心に例会や行事に参加され、講演会では毎回鋭い質問をされていた。また、「大塩の乱関係資料を読む部会」の有力メンバーであった。枚方市の「宿場町枚方を考える会」の会員でもある。

横山清敏氏 二〇一四年四月逝去。島原市有明町在住。
 本会には二〇〇七年三月入会で賛助会員として貢献。
 森小路(大阪市旭区)に住んでいた横山文哉の妹やすによって継がれた生家横山家の五代目で「横山文哉研究会」の会長を永く務められた。
 また、横山氏が尽力し、有明町の協力を得て有明町の文哉生誕の地に「大塩平八郎の乱 横山文哉之碑」が建てられた。(碑の台座に酒井一前会長の解説文がある)(内田)


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