Я[大塩の乱 資料館]Я
2016.7.19

玄関へ

「洗心洞通信 60」

大塩研究 第72号』2015.2 より

◇禁転載◇


◇七月例会

 七月二六日成正寺において例会が行われ、淀屋研究会副代表の蒲田建三氏から「「天下の台所―大坂―」の礎を築いた「淀屋」」と題して講演いただいた。
 冒頭、淀屋橋南詰西側にある「淀屋の碑」について、往時の橋上の賑いの様子がレリーフで描かれているが、牛車で米俵を運んでいるのは首を傾げざるを得ない、当時は橋を傷めないよう荷物を降ろして運んだという指摘があった。シンボル的に描いているのかもしれないが、やはり恒久的な記念碑であるので厳正な記述が相応しいと感じた。次いで文化三年(一八〇六)の『増修改正・摂州大阪地図』に基づき、淀屋並びにその周辺の地理を解説され、堂島米市場や淀屋橋、淀屋小路などの位置確認をしたうえで、淀屋初代常安から始まり宝永二年(一七〇五)闕所・所払となる五代広當までの家系図を分家も含めた解説があった。続いて淀屋の業績(中之島開発、青物市、米市、糸割符制など)について触れ、さらには二代言當の事例を挙げ、文化人との交わりを通じて大きな貢献をしたことが述べられた。
 淀屋の闕所は門閥的な初期特権町人から新興町人への交代を象徴する事件であり、これ以降鴻池・住友・三井などの新興町人は「拡大よりも安定」、「攻めの経営よりも守りの経営へ転換」、「経営の多角化よりも一業専心を徹底」するようになっていった。
 但し、四代重當は幕府の動きを察知しており、闕所となる前に番頭・牧田仁右衛門を故郷である倉吉に帰し、「牧田淀屋」(米屋)を名乗らせている。そしてその子孫(仁右衛門の曾孫)が大坂・淀屋橋に進出し木綿問屋を開店、初代淀屋清兵衛と称している。江戸時代を通じて連綿として続いてきた豪商淀屋の数奇な歴史に多くの受講者が興味を覚え、続編の次回開催を望む声が多かった。
 尚、大塩平八郎の乱は四代目淀屋清兵衛のときに発生しているが、『大坂焼失後町人施行人名並出金高』(類焼者への施行銭)の中にその名がある。(銭五〇〇貫文を施行)
 当日の参加者は、(略)、計二〇名

◇九月例会(フィールドワーク)

 九月二八日フィールドワーク「大塩平八郎ゆかりの史跡―上町台地を歩く」を実施した。案内役は本会会員の志村清氏にお願いし、総勢二〇名、集合場所の大阪市営地下鉄谷町線・谷町六丁目駅を一三時四五分に出発した。空堀商店街を東に抜け、最初は坂本鉉之助屋敷跡へ。坂本は大塩平八郎と親交を結んだ人物で、乱当時玉造口与力で乱鎮圧に功があった。現在は公園となり往時を偲ぶものは何もない。続いて鉄砲同心屋敷・牧田家に向かう。現在も子孫が居住されていて、時代とともに改修はされているが、往時の面影がよく残っている。六代惣衛門は長興村(現・豊中市)の火薬庫(二〇一二年一一月例会フィールドワークでその跡地を見学している)の警備に出勤し、七代茂兵衛は御用向見習中であったが、乱鎮圧に出勤、大塩方へ銃撃発砲したとのことである。この付近は五十軒屋敷と呼ばれ鉄砲同心屋敷があったところで、志村氏の用意された古写真、古地図を見ながら現況との比較説明を聞くと頭の中に往時の街並みが蘇ってくるようで楽しい。
 続いて全慶寺(城南寺町七丁目)で佐々木春夫の墓に詣でる。大塩門人で、国学者、豪商で猫間川浚渫・開削工事への尽力、天誅組への資金援助で知られる。そこから近くの龍渕寺(城南寺町六丁目)にも同じく大塩門人の秋篠秋足の墓がある。現在は保存のためガラス張りのケースの中に入れられているが、その墓碑に刻まれた碑文で有名である。曰く、大塩平八郎父子は天草から清国へ渡り、最後はヨーロッパまで逃亡したとのこと。所謂「大塩生存説」のひとつである。
 上町筋を渡り、谷町筋を右折した交差点付近は大塩格之助の実家・西田家の墓所があった本照寺跡である。寺は戦災で焼失後、昭和四三年道路拡張に伴い八尾市黒谷へ移っている。谷町筋を渡り少し行ったところにある妙徳寺には海運業で一世を風靡した海商・西村忠兵衛の墓がある。西村は大塩平八郎に傾倒していたという。(詳しくは西村道男『海商三代』中公新書を参照いただきたい)
 そこから南へ下った禅林寺(中寺二丁目)では門人・田結荘千里の墓と「千里先生碑」(藤沢南岳顕彰文)、少し先の大倫寺(中寺二丁目)では坂本鉉之助の墓と「剛毅君之碑銘」(並河鳳来顕彰文)にそれぞれ詣でた。終了予定時間が過ぎ、生国魂神社を右に見ながら、最終目的地である、大塩の愛弟子・松本乾知の墓のある銀山寺に着いた時には閉門となっていたため、一七時一五分、そこで解散となった。
 志村氏の豊富な知識量に驚き、且つ感心しながらの四時間のウォーキングであった。出席者は一様に満足の面持ちで家路についた。因みに参加者の方の万歩計によると当日の総歩行数は約一万三千歩とのことであった。
 当日の参加者は、(略)計二〇名
(注)上記以外にも多くの史跡を訪ねたが、紙面の都合上、大塩事件に直接関係のないものについては省略させていただいた。諒とされたい。

◇一一月例会

 一一月二九日成正寺において例会が行われ、菅良樹氏(淳心学院高等学校)から「大坂城代就任者の基礎的考察―天保期の土井利位、嘉永・安政期の土屋寅直の事例を中心に」と題して講演いただいた。
 内容については本号掲載の同氏による「大塩事件に対処した大坂城代土井利位と戊午の密勅降下に関わった同土屋寅直」を参照いただきたい。
 当日の参加者は、(略)計二三名

◇大正期警察官僚の大塩観

 第一次大戦に伴う物価上昇が著しく、これに乗じて暴利を貪る商人らに対し内務省と農商務省は「売買取締令」を、一九一七(大正六)年九月一日付で公布し即日施行された。この取締の陣頭指揮に立つ大阪府の道岡警察部長は、『大阪毎日新聞』(一九一七年九月一日夕刊)の取材に対し、次のように述べた。(一部抜粋)
 「此度の新令は国民の生活と重大の関係を有(も)つてゐるのだから監督当局者は犬の遠吠のやうな生温い手段でなく素面素小手の真剣で斬込んで行かねばならぬ、昔大塩平八郎の行(や)らうとした事が今日実現されたのである、平八郎を出した大阪において此新令は最も有効に行はれたいと考へる」
 現職の高い地位にある警察官僚が、大塩を義人、乱を義挙と評価している点が注目される。(久保)

◇「なにわ大坂100人選(仮称)プロジェクト」

 公益財団法人関西・大阪21世紀協会は上記プロジェクトを発足、古代から近世にかけて「なにわ大坂」を築いてきた一〇〇人を選抜し、時代背景含めた情報収集を行っている。単なる業績紹介に留まらず、対象人物に関する 調査、資料収集、関係者へのヒアリングなど精力的に取り組んでいる。
 大塩平八郎もそのうちの一人に取り上げられている。大塩に関する調査、執筆担当は、橋山英二氏(一般社団法人映像通信・代表理事)であるが、氏は既に本会例会や大塩の乱関連資料を読む部会にも数回取材のため参加されている。
 プロジェクトの活動成果は適宜ホームページなどで発信され、最終的には二〇一七年に出版される予定とのこと。今から楽しみな企画である。

◇井形正寿氏の反戦への思い

 東京新聞二〇一五年一月五日朝刊一面の特集「戦後の地層」・「覆う空気…B悪しき平和なし」で、長らく本会副会長を務め、二〇一二年七月に亡くなられた井形正寿氏が取り上げられている。井形氏は戦時中の一時期、八尾警察署特高係に勤務し、敗戦直後に焼却寸前の特高資料のうち反戦に関する手紙や葉書の資料を密かに持ち帰り、それらと自身の経験を基に、『「特高」経験者として伝えたいこと』(新日本出版社二〇一一年刊)を上梓されている。
 記事では、井形氏の特高時代の経験を述べるとともに、同氏をよく知る島田耕氏(本会会員)がインタビューを受け、「(井形氏が)あの時代に戻しちゃいけないという一念で語り続けていた」と振り返り、「自分を犠牲にして巨大な幕府権力に抵抗した。大塩事件が私の人生を変えた」と熱弁を振るっていた様子を語っている。
 また最後に、井形氏のドキュメンタリーを撮りたいという島田氏の申し出について触れ、記事は次のように結んでいる。
 「一度、本人に断られたが、島田にはちょっぴり未練もある。社会派の作品が影を潜めてしまった今だからこそ。」(島田耕氏からの情報提供) ※追記後日、島田氏より知人からほぼ同内容の記事が中日新聞・名古屋版、滋賀版にも掲載されているとの連絡があった旨、報告とともに同紙滋賀版の写しを送付いただいている。

◇飯嶋和一『狗賓童子の島』

 大塩事件に連座した門弟西村履三郎の長男常太郎が隠岐に流刑され、やがて幕末の隠岐騒動に参加したことを明らかにした森田康夫氏の一連の研究を下敷きにした歴史小説がまた発刊された。飯嶋和一著『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』(小学館、定価二三〇〇円)がそれである。
 帯封の解説によると弘化三年、日本海に浮かぶ隠岐「島後」に、はるばる大阪から流された一人の少年がいた。西村常太郎一五歳。大塩平八郎の挙兵に連座した父履三郎の罪により、六つの歳から九年に及ぶ親類預けの果ての「処罰」だった。
 翌年、一六歳になった常太郎は、狗賓が宿るという「御山」の千年杉へ初穂を捧げる役を、島の人々から命じられる。下界から見える大満寺のさきに「御山」はあったが、狗賓にゆるされた者しかそこに踏み入ることはできなかった。
 この天狗出現の物語は、すでに常太郎が維新の恩赦で隠岐から帰国した時、父履三郎の汚名をそそぐため、当時在阪の文士であった宇田川文海に語るなかで生まれた『浪華異聞・大潮余談』に述べられていた。何れにしろ本書は常太郎を軸として展開された歴史小説として『大塩研究』としても極めて興味深いものがある。

◇飯嶋和一氏の大塩観

 『読売新聞』(二〇一五年二月二日夕刊)に以下の記事が載った。
 「森鴎外の「大塩平八郎」などを読む中で、この乱を突発的なものととらえる視点に違和感を抱いたのだ。」(中略)「当時は生存権という言葉はなかったけど(大塩の乱は)それを代弁したようなものだったのではないか。大塩の檄文がそこら中から出てくるのは、全国的にそう思う人がいたからだろうと」。「当時の人々が持っいた思いを普遍的に描く。そのために選んだ舞台が隠岐だった」。(久保)

◇新聞記事・成正寺と大塩平八郎

 産経新聞の二〇一四年一〇月一五日朝刊北摂版の連載『北摂街道を行く33・高槻(亀岡)街道編』に天満東寺町が取り上げられ、「偉人が眠るあの寺この寺」と題し、三ヶ寺の紹介記事が掲載された。うち一ヶ寺は成正寺で、大塩の乱の概要について触れるとともに、「中斎大塩先生墓」、「大塩格之助君墓」及び「大塩の乱に殉じた人びとの碑」が本堂の写真と併せて紹介され、「民衆の味方・大塩平八郎ファンの墓参が絶えない」と結んでいる。
 また本会会員である成正寺・有光友昭氏が顔写真入りで登場、「大塩親子の墓前には、中学生ら若い人の姿も見かけます。『寺町通り』を散策しながら、大阪の歴史を大いに勉強してほしい」と述べている。

◇安積艮斎(あさかごんさい)−幕末、英才育てた開明の人

 日本経済新聞二〇一四年八月二一日朝刊「文化」欄に安積国造神社第六四代宮司・安藤智重氏による安積艮斎の紹介記事が掲載されている。安積国造神社は艮斎の生家であり、艮斎の父は第五五代宮司である。
 筆者は「艮斎は柔軟性に富み、時代への適応性を重視した開明思想の持ち主だった」といい、朱子学を主としながらも、「他学派でも善い点は認めるべきだ、と記した文章も艮斎は残しており、陽明学などを積極的に摂取。実学を重視した」と述べている。標題の「幕末、英才育てた開明の人」の通り、多くの人材を育てた功績に触れ、門人として、小栗上野介、吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎、福地桜痴、前島密など蒼々たる顔ぶれを挙げている。
 筆者は艮斎の著作の現代語訳にも取り組み、これまでに『艮斎詩略』、『艮斎文略』を刊行している。また、文中では触れていないが、本会会員の齋藤正和氏との共著『東の艮斎 西の拙堂 対談』(歴史春秋社二〇一二年)も上梓している。

◇『express』誌の大塩平八郎

 セゾンカードの会員誌『express』二〇一四年一一月号の「賢人の選択」という欄に、泉秀樹(歴史作家)の「大塩平八郎」というエッセイが載っている。大塩を「直参旗本の家柄である」などと首を傾げざるを得ない筆致ではあるが、乱の概要について一通り触れたのち次のように結んでいる。
 「いまの日本は、このままで、いいのだろうか?現代の日本人は、江戸時代の庶民と比較すると、変におとなしすぎはしないか?誰もが、臆病に、事なかれ、と願いつつ、反乱に同調できはしないが、無意識のうちに、平八郎のような激烈な正義の男の、不穏な訪れを待っているような気が、しないでもない。」

◇近藤重蔵と大塩平八郎の出会い(続報)

 前号本欄で近藤重蔵と大塩平八郎の私的な交流について述べたが、「左遷人事」により大坂に赴任した近藤重蔵の前後の事情については、二〇一四年四月に刊行された、谷本晃久『近藤重蔵と近藤富蔵』(山川出版社・日本史リブレット)で簡潔に描かれており知ることができる。
 また近藤重蔵の大坂御弓奉行としての日常は本書によれば「文字通り城内の弓矢や槍の維持管理であり、重蔵の学知を必ずしも必要とする役務とはいえず、また、それをいかした功績を示す場ともいえなかった。」「よって、大坂時代の事績として語られるのは、勤役に関連するものは皆無である。大阪東町奉行の組与力であった陽明学者大塩平八郎をはじめとする文人と盛んに交友をなしたり、(中略)いずれも私事に発するものである。」想像を逞しくすると、近藤重蔵と大塩平八郎はお互いの鬱積した思いを語り合ったのかもしれない。
 その後、近藤重蔵は「重ねた先例を逸脱した異例な振舞いは公儀の忌避するところとなり、「御役不相応」を理由に役儀が召しあげられるにいたった」。重蔵の大坂勤役は二年に満たなかった。

◇大塩平八郎の乱と今治藩

 旅行先で書店を覗き、地方出版の書籍で自身の興味のあるものを入手することも旅の楽しみのひとつであると、以前何かの本で読んだ記憶があるが、愛媛県今治市の今治城の売店で求めた『今治城の謎』(土井中照著、メイドインしまなみ事務局二〇〇三年発行)に、「大塩平八郎と今治藩」という一頁の記述があった。乱の概要について触れたのち、「今治藩へは、事件の平定に加勢したことへ、大阪城代から感謝状が寄せられています」と結んでいる。
 この件について、同市出身の谷田茂氏(現在はマレーシアに居住)より、『今治郷土史今治拾遺資料編近世T(第三巻)』(今治郷土史編さん委員会編集、一九八七年発行)に次のような出典と思われる記述がある旨教示いただいた。(注・文中「同年」とは「天保八年」のこと)

 一 同年二月十九日、大坂天満与力大塩平八郎父子、其外結党大坂市中火矢ヲ以焼拂、鉄砲打立人ヲ    拂及乱妨、行衛不相知相成、人相書ヲ以御尋有之、全町御奉行ヲ恨候ヨリ事起候由、御蔵屋敷ヨ    リ、御防御人数被差出候、  一 同年四月廿日、大坂御城代様ヨリ、御留守居御呼出、当二月十九日於大坂、元与力大塩平八郎放    火乱妨之節、御人数被差出、骨折候旨御達有之、


◇湯川麑洞(げいどう)と福田世耕

 以下は九月度例会に参加された荘茂樹氏(大阪府枚方市在住)よりいただいた情報である。
 荘氏の家系は香川県観音寺市にあって代々医業に携わってきたが、祖父・荘豊之祐氏は医業の傍ら漢詩を嗜み、多くの漢詩人との交流があり、自宅は漢詩人たちのサロンとなっていたようである。
 最近、氏が実家の整理をしていたところ、漢詩人グループの中で特に親しくしていた福田世耕からの祖父宛の書簡(昭和六年三月十七日付消印)が見つかり、その内容は福田世耕が所蔵する三幅の購入についての打診であった。そのうちの一幅が湯川麑洞の画幅である。書簡には、「○湯川麑洞 大塩義挙の際塾頭タリシ人 水野侯ノ儒医墨竹半切」(傍線・筆者)とある。
 湯川麑洞は『大塩研究』でも度々取り上げられている、和歌山県新宮市出身で洗心洞の都講(塾長)を務めたが、乱の前に郷里新宮へ戻り、難を逃れた人物である。書簡の差出人の福田世耕も同じく新宮の出身で、早くから漢詩人として名を成し、また正岡子規に学んだ俳人でもあった。湯川と福田との間に直接交流があったかどうかは不明であるが、共に新宮の生まれであり、福田世耕にはある種の共感があったかもしれない。
 尚、荘氏によればこの画幅を祖父が購入したかどうかは不明とのことである。

◇杉中浩一郎氏の著書

 永年にわたり本会会員であられた同氏(和歌山県田辺市在住、九二歳)がこのほど『南紀・史的雑筆』を出版された。すでに多くのご著書を出されているが、「ここ三、四年の間に執筆した地方史関係の雑文を主として、以前発表した「稲むらの火をめぐって」などのように、既刊の著書に収録しなかった数編の分をつけ加え」てまとめられた。成石勘三郎の南方熊楠宛の書簡など興味深い論考も紹介されている。お問い合わせは同氏(略)まで。(久保)

◇NHK学園「古文書講座」教材

  『大塩研究』第三六号(一九九五年一一月発行)にNHK学園「古文書を読む」講座の教として「檄文」のはじめの部分が出題されている旨報告があったが、二〇一四年度受講生の「古文書を読む」基礎コース・第八回レポートでも教材として使われているとの情報が寄せられている。
 また、同講座の機関誌『古文書通信』(第一〇三号・二〇一四年一一月発行)の「古文書ネットワーク・あなたの声」欄には、大阪府在住の受講生から「大塩平八郎檄文を見て、大塩平八郎と守口の白井家が繋がりました。(後略)」との感想が掲載されている。大塩平八郎と檄文に対する根強い関心の深さが窺われる。

◇小林一茶の「世直し」観

 本会会員で二〇一三年七月に急逝された青木美智男氏の遺著『小林一茶』(岩波新書二〇一三年九月刊)は文学的な観点ではなく、歴史学的な観点から一茶の残した句を丹念に論じたものであり、従来の「慈愛に満ちたお爺さんというイメージ」からは、かなり距離を置いた一茶像が浮き彫りにされている。(従来の一茶像は明治期以降に作られたものであるという)
 著者は、「世直しの竹よ小藪よ蝉時雨」という句のように「世直し」という、当時としては「物騒な言葉を、こともなげに句に詠み込んでしまう(一茶の)大胆さに驚かされる」と述べ、また一茶は当時頻発していた打ちこわしにも関心を持っていて、その原因は遺恨による簒奪や暴力ではなく、「社会の混迷にある」と気づいていたと指摘している。そして、「一茶の世直し観は、基本的には「世が直る」と受動的で、自然まかせであるが、一茶に とっては毎年起こる社会不安の連続のなかで、日常用語化していったようだ」と結んでいる。
 終生「庶民とともに生きた一茶ならではの眼差し」とともに「権力や権威に対する反骨精神」を持ち続けた、「新しい」一茶像を知るために一読をお奨めしたい。

◇大塩平八郎と二宮尊徳

 前号の本欄で「大塩平八郎は身長二一三CM?」というネット情報を紹介したが、その後、同様の問い合せが東京のテレビ局から本会に入っている。テレビ局の質問の出所は定かでないが、雑多な情報の飛び交う現代社会の一面を垣間見たような気がする。
 今回紹介するのは、「YAHOO!知恵袋」上の質問で「江戸時代後期の物語を描くとして、大塩平八郎と二宮金次郎が出会っているという設定はメチャクチャでしょうか?」というもの。回答は一件のみで、要約すると「面識はないが、乱後に二宮は大塩のことを知って興味を持ち、その政治的意味や意義を尋ねる書状を大坂の知人に出している」ということであった。(いずれも二〇一三年一〇月投稿)回答の真偽について編集子は不明であるが、ご教示いただければ幸いである。大塩平八郎と二宮尊徳は、同時代に西と東で、全く異なる手段により「救民」を実践した点に興味を惹かれる。


洗心洞通信 59」/「洗心洞通信 61」/「洗心洞通信 一覧

玄関へ