Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.1.25

2000.12.18訂正

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「洗心洞通信 8」

大塩研究 第8号』1979.10 より
 
◇第五回総会開かる

 三月二四日の午後一時半から、成正寺において恒例により、大塩父子およぴ関係殉難者、怨親平等慰霊法要をいとなみ、大塩一族の墓前に詣でた。

 このあと、二時半から記念講演を開き、川合賢二氏(大阪高等学校)が「能勢騒動の再検討」と題して、約一時間半にわたって報告された。大塩の乱の影響で起った北摂能勢の山田大助の騒動について、いままで発表された史料にひろくあたり、研究成果を批判的に検討した内容であった。

 大坂斎藤町に住んでいた山田大助について、同じ町の住人であった医師が著した「浮世の有様」には、薬の抜買によって罰せられた前歴があるから手きびしい評価がされており、能勢騒動も個人的な利益、「慾心」から出たものと指摘されているが、川合氏もほぼこの考えに立って、事件全体を積極的に評価できないと論じた。「関白殿下」にあてた有名な廻文も、当時幕府と「天道」を対比して幕政を批判した巷間の風潮に乗じたもので、よびかけの対象となった村と実際の参加村のずれからみて、この廻文はあまり有効な役割を果さなかったとみる。

 大助は、摂津国能勢郡山田村の生まれで、この地域にいた多田院御家人の一人であり、禁裡守護を任務とした御家人の動きを考慮したことが、能勢を舞台にし、禁裡に訴える廻文の文面にあらわれるとした。

 講演については、個人的な慾心から断罪を覚悟した騒動が起しうるか、なとをめぐって若干の質疑がかわされた。なお詳細は、同氏の論文「天保・摂津能勢騒動の再検討」(『歴史評論』第三五一号所収)を参照されたい。

 このあと小憩を経て、第五回総会が開かれた。一年間の主な事業報告、会計中間報告があった。なお正式の会計年度にもとづく決算報告は、本号に掲載したとおりである。この数字では二万五千円余の残額があることになっているが、会費の大半が次号の第八号分までを含んでいるので、依然としてほぽ会誌一号分にあたる十五、六万円が赤字となっている。一口一万円の賛助会員制が実施されて、かなり会財政は改善されたものの、今後の課題となる。

 前年度総会のときにかなり論議された会費値上げについては、賛助会員制の実施もあって、今年度も見送り、年間二千円にすえおいた。

 役員も二年の任期を終了したので、今回改めて選出、すぺて重任された(ただし藪田氏は途中からの就任で在任期中であったが、改めて新任期で確認をえた)。

◇大坂本屋仲間記録

 『大坂本屋仲間記録』第四巻(大阪府立中之島図書館編集、清文堂出版)がこの六月に発売された。文政十一年から弘化元年にいたる出勤帳の公刊で、大塩事件の起った天保八年の記事も当然入っているが、事件については十分な記録がない。本屋仲間会所での施行も大塩の行動としてよく知られるが、これも記されていない。本屋と大塩との関係が深いだけに、かえって作為を思わせるものがある。飢饉にさいして『仁風一覧」を印刷したことは知りうる。

 四月二七日には、大塩の著書・序跋などを作成中のものがあるかどうかを調べている。「呂新吾先生語録序九丁」が河太(河内屋太助)が願人になって出版の計画があったが、まだ板行の彫刻にとりかかっていないと記されている

◇第七回大塩事件研究会・民衆思想研究会合同例会盛大にひらかる

 七月二一日・二二日の両日にわたって、民衆思想研究会と大塩事件研究会の合同例会を大阪で開いた・民衆思想研究会は、五年前に林基・庄司吉之助・安丸良夫・深谷克己・山田忠雄氏らの肝煎りで発足したユユークな会で、年に二回、東京とそれ以外の関係地で研究例会を開いてきた。今夏は本会と異例の合同例会をもって、大塩関係の研究会をもつことになった。

 第一日目の七月二一日は、大阪市東区馬場町の大阪共済会館において、午後一時半から研究発表会を開いた。

 酒井一氏の「大塩与党の二、三の問題」は、大塩与党の全体的な構成に触れたあと、播磨国加東郡河合西村出身の堀井儀三郎を中心に報告し、天保四年の加古川筋一揆から一定の影響をうけたことを想定し、また大坂地方や大塩自身もこの一揆に深く関心をもった社会情勢をとりあげた。儀三郎が乱後帰国して故郷で一揆を起こしたという謬説についても批判した。

 相蘇一弘氏は「大塩の乱と知識人」と題して、詳紬な史料にもとづいて知織人の乱に対する態度をとりあげた。民衆の大塩観が高いのに比して、小関三英・佐藤一斎・猪飼敬所・篠崎小竹らが保身もあって大塩を批判したり、深い交流を否定しようとした姿勢を紹介された。そのなかにあって坂本鉉之助や矢部定謙が乱にもかかわらず大塩を評価し、かれの密通説についても「犬の逃吠え」と適確にしりぞけている点をとくに強調された。大塩の畏友であった頼山陽も生存していたならば、あるいは一般知識人と同じ態度をとったのではないだろうかと、知識人のもつ問題点をえぐり出された。

 大坂の町方の研究を最近あいついで発表されている乾宏巳氏は「天保期大坂の町人社会」と題して、天明期に江戸・大坂にうちこわしが起ったのに、天保期には発生していない事実から問題をたて、道修町三丁目、菊屋町、御池通五丁目の三町を対象に、人口動態・住民の移動状況・町人家族構成・町人相続などをとり上げて、一八世紀後半から家柄意識がつよくなり、奉公人も隷属性を失って自立化の傾向を示し、町ぐるみの共同体的な結合がつよくなることから、大塩事件に都市民の参加がなかったことを、従来の大塩の市民観のあやまりとする説に対し、町人社会の天保期の特徴から論証された。

 三報告に対し、約三○分にわたる討論がかわされたが、詳紬は省賂する。

 このあと、午後五時半ごろから同会館の別席で懇親会を関いた。福島県からはるばる参加された庄司吉之助氏の乾杯ではじまり、出席者があいついでスピーチをして、お互いに交流を深めた。

 第二日目の七月二二日は、午前九時半に大阪市立博物館前に集合、大塩事件関係地めぐりをおこなった。まず同博物館で相蘇一弘氏に館蔵および寄託品の展示と説明をうけた。主な関係品がほぼそろっている。すぐ横の大阪城天守閣では、渡辺武氏の解説で関係品の展示を見、各人天守閣から大阪市中を望見し、大塩事件当日の様相を思いうかべた。このあと各自昼食をすませて、十二時半に城内極楽橋の駐車場から観光バスに乗車し、炎天下を走った。大阪造幣局内の洗心洞址、与力長屋門、北区末広町の大塩家菩提寺成正寺をまわり、門真市立図書館を訪れた。ここでは門真三番村の茨田郡次関係の古文書をみる予定であったが、手ちがいで見れず、地元の後藤賢一郎氏の案内で、もと茨田家の屋敷を見学した。いまは門真市営の茨田公園となり、片隅に碑文が建てられている。

 バスはさらに国道一号線を守口に走り、白井家を訪い、駒井正三氏から守口宿と白井家について説明をうけ、大塩の講義をしたという離座敷を見学し、白井家一門の墓所に詣でて、白井孝右衛門の文章を刻んだ墓石を拝見した。炎暑のなか、走行距離はそう長くなかったが、それでもかなり疲労気味で、午後六時国鉄大阪駅について解散した。バス車中では、米谷氏が軽妙洒脱な語り口をもって該博な知識で道筋の案内を担当された。

 例会の会場には、原寸太の木綿で作成された「救民」の幟がおかれ、見学会では大阪城天守閣にひるがえった。コピーで復刻された檄文とともに、会の雰囲気を一段ともりあげた。

◇『松山叢談』の大塩関係記事

 愛媛県松山市の石丸和雄氏からの御教示によって、『松山叢談』第十三の上、天保八年の項に、大塩の乱にさいして、大坂城代土井利位の依頼により、大坂蔵屋敷の伊予松山藩兵五六名が大坂城へ警固のため出動したことがわかった。この出兵に対し、同年四月二十日に土井利位から松山藩家臣に賞詞が伝えられた。二月二七日には大坂乱妨一件の情報も記録されている。

◇吉野俊彦氏』権威への反抗』

 もと日本銀行の調査局長・理事であり、経済学者としても著名な吉野俊彦氏は、かねてから明治の文豪森鴎外の研究家としても知られるが、本年八月にPHP研究所から発刊された『権威への反抗』のなかで、二章にわたって鴎外の「大塩平八郎」に触れている。文学者であり、同時に陸軍軍医総監でもあった鴎外に「サラリーマンの哀歓」をさぐって、さきに『あきらめの哲学』を発表された同氏が、大塩平八郎にこめた鴎外の眼を、幕藩体制への反逆と挫析、未だ醒覚せざる社会主義の二章にわたって分析し、いままでの文学者の評論をも広く採用し、幸徳事件を契機に大塩に興味をもって行く鴎外に、著書の題名にみる精神のあらわれをみつけようとしている。なかなか秀れた文章で、氏が鴎外によせている温い心情が伝わってくるような気がする。

 ちなみに、昨年十月三十日の「朝日新聞」の「今年読んだベスト3」の記事のなかで、吉野氏は、幸田成友・岡本良一・宮城公子の三人の同題名『大塩平八郎』をあげ、大塩の革命性は明らかであり、これを取り上げた現職の陸軍軍医総監鴎外の勇気に、今さらながら感激したと語っている。


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