Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.10.2

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「蜃 気 楼 (抄)」

宇田川文海 (1848−1930)

『朝日新聞』1886.10より

◇禁転載◇


(句読点、改行を加えています。)

明治十九年十月十二日
○蜃気楼 第十二回(二)

 京都、新京極の店棚、縦覧物(みせもの)の繁盛も亦、前に述たる大阪、南地の景況に斉しく、社会(よのなか)の変遷(うつりかわり)と共に状態(おもむき)を換へ、楊弓店は室内射的場に、居酒屋は麦酒店に、水茶屋は珈琲店に、善哉屋は西洋菓子屋に、へラヘラ踊は西洋手品に、目鏡屋(からくり)は写真目鏡店(たうじんめがね)に、丹波国より生捕たる荒熊は、印度より舶載せる獅子大蛇(うはゞみ)に、女義太夫は娘演舌に、山雀(やまがら)の拾牌(ふだひろひ)は洋犬の踏球(まりふみ)に、吹矢は撞毬(たまつき)に、其他種々の売品(うのもの)様々の縦覧物、総て陳(ふる)きを去り、新らしきを競はざるもの無く、演場(しばゐ)は脚色(しぐみ)を改め、俄は趣向を換ゆる。

 其中に就て、近来尤も評判高きは、梅川亭の講談なり。

 亭は、同所の中央に在りて、木製ながらも建築極めて壮大美麗にして、構造能く、衛生の法に適ひ、二階下とも、悉く椅子を連ね、聴衆、無慮(およそ)千人強(あまり)を容る可し。

 目今出席の講師は、東京の新講談家、松林伯円の門弟、芸名を松林伯令といふ者なり。

 本名は、民谷権三(たみやごんぞう)と呼る。高知県の士族にて、幼より東京にいで、久しく慶応義塾に在て、洋学を勉強せるが、性来能弁にて、尤も演説を好み、塾中にて、東洋の孟的鳩(モンテスキウ)の綽号(あだな)を得たる程なるが、従来、吾国の演説家は、政治に、学術に、凡て、高尚なる理論を専(おも)に、漢語を用ひて弁じ、大体、学識、両(ふたつなが)ら備へたる、中等以上の人物を目的にする者のみ多く、俗談平話を以て、卑近(てじか)なる道理を説き、無学無識の童蒙婦女を誘導して、開明の域に進ましむるを志願とする者、極めて稀なるを見て、密に感を起し、吾、今より露野五郎兵衛志道軒の迹(あと)を逐ひ、三寸の舌を掉(ふるつ)て、三府四十一県を縦横し、寧ろ少数の学者紳士の嘲りを受るも、多数の愚夫愚婦を教へて、身を文明の犠牲に供んものと、単(ひとえ)に意を決し、忽ち慶応義塾を去て、松林伯円の許に至り、其志望を述て弟子の数に加はり、爰に講談の術を研究せしが、元来、演説に長じ、然も、弁舌爽やかに、学識に富みたれば、須叟(しばらく)にして其道の蘊奥を了(さと)り、多くの門弟の内にて、第一の名を占め、果は、出藍の誉れをさへ得て、一枚招牌(かんばん)にて、東京の各席にいで、東西両洋の歴史を講じて、各国の治乱興廃の困て起る所を説き、之に就て、政治の是非を論じ、宗教の利害を述べ、経済の得失を談じ、又、和漢洋の小説を演じて、巧に人情の秘蘊を穿ち、依て美術の妙を述べ、哲理の隠を説き、真理を感情に訴へて、聴者をして、娯楽の間に、知らず識らず、道徳智織面(ふたつなが)ら増進せしめ、又、時としては、昨夜の地震、今朝の暴風雨、落雷等、実際の異変、或は、汽車、汽船、電話機等、日常眼なれたる機具に就て、深奥の理学を平和に話して、聴者の思考力を資け、事物の原則真理を知らしめ、又、新聞雑誌に載せたる事件(ことがら)を演じて、各国の形勢、海外の事情、又は、内国の新聞を知らしむる等、百方々便を廻らして、人心の改良を計りければ、其評判、頓(とみ)に世に聞え、到る処、常に大入を占めけるが、今般(こたび)、東海道を経て、西京に来り、連夜、此席に出でけるなり。

 予(かね)ての声価と実地の技芸(うでまえ)と相適ひければ、当地の好評も東京に譲らず、初夜より聴衆の山を為し、さしもの大席も、毎夜立錐の地を剰さず。今夜も非常の大入なるが、毎夕三席の講談を演ずるを常とし、頃来は、前席に、仏国革命史、中席(なかざ)に、大塩中斎(おほしほへいはちらう)言行録、後席(ござ)は、昨今祇園座の切狂言に演ずるを当込て、彼の小説、雪月花、又、其他にお土産話と唱て、京阪両地の新紙に記載せる新聞の内にても、尤も面白き事に、己の意匠を加て、一場の新講談と為し、之を述て例(いつ)も打出となせるが、今夜(こよひ)も既に、前中後とも演(よみ)終り、今は、例のお土産話の新聞一齣(ひとくさり)を弁じ残し、夜は既に、十時二十五分といふ頃とはなりけり。

 講師は暫時(しばらく)の休息を請ひて、休憩室に入りたれば、聴衆は、其間に茶を飲み、珈琲を啜り、洋菓を喫し、菓物を食しなどしつゝ、是迄演じたる講談の、面白かりし条々を言出る者あり、又ハ、其妙処を批評する者あり、或は、今夜の新聞ハ、朝日か、浪華か、絵入か、実利か、但ハ当地の日出か、毎夕か、然らずハ゛、内外、中外、大阪日報なるべく、其事件ハ、海外の異談か、内国の奇話か、貴顕の失行か、政党の内幕か、など、想像を廻らすものさへありぬ。

 やゝありて、時計の短針、将に十時三十分を指んとする時、講師松林伯令は、徐々(しずしず)休憩室を立出で、再度演壇に登り、卓子(テーブル)の前に直立し、斜に席上を見渡して、懇(ねんごろ)に一揖し、手自(てづか)ら水瓶(みずさし)の水を玻【王黎】璃盞(コップ)に注ぎ、喫一喫して小手巾(ハンカチーフ)にて口の辺りを拭ひ、咳一咳(ゑへんとせきばらひ)して、満面、微(いさゝか)か笑ひを含みけり。

【王黎】の字

芳峰・画

十月十三日
○展気楼 第捨二回 (三)

 今爰(こゝ)に講師伯令が人物の概略(あらまし)を述んに、年齢は二十七八、色浅黒く眼稍(やゝ)鋭く、鼻下に八字鬚を蓄へ、背高しと言ふに非ず。身肥たりと言ふにあらねど、骨格頗る逞しく、一目、其精神の活発と身体の壮健を知るに足れり。身には白リンネルの洋袴(ズボン)を穿ち、黒の薄羅紗の洋衣(マンテル)を被り、胸に、金鎖つけし金時計を懸けたり。

 玻璃盞(コップ)の水を喫一(いさゝか)喫り、斜に聴衆を睥睨(みおろ)し、徐(しづか)に口を開いて、曰く、「諸君よ。小生ハ、元来、高知県の一書生なり。家庭、及ぴ、郷校の教育、且、慶応義塾の薫陶に依て、些か漢字と横文を解する事を得たるが、生来多弁にて演説を好み、動(やゝ)もすれば、愚論拙議を吐て、朋友の耳を汚すイナ、脳を悩ますの癖あり。

 先年、時事に感ずる処あり、翻然身を講談師と変じ、歴史を説き、小説を弁じ、新聞を談ずるの際、事に触れ、物に就て、政治に、理学に、経済に、美術に、平生、胸に蓄ふるの宿論を発するを務め、些か以て社会を益せん事を謀りしに、江湖諸君、小生が微意のあるところを諒せられ、不弁と無識を棄られず、東京を始め、各地を周遊するに、至る処、好評と愛顧を賜はる事を得たり。

 頃来(このごろ)復、当地に来り、始めて此席に出演せしに、誤て、諸君の庇顧(ごひいき)を豪り、目今、焼くが如き酷暑をも厭はせられず、連夕、輻々湊々(とうとう)、実に席の容る可き無く、小生の至幸は固より言ふ迄もなく、席主の大幸も亦、之に過たる無し。

 小生、拙劣なりといへども、焉んぞ三寸の舌を掉(ふる)つて畢生の技倆を呈せざるを得んや。【人者】(さて)今夕は最早招牌(かんばん)に掲げたる三席の講談を終へ、今や僅にお土産の新聞談話(ばなし)一齣(ひとくさり)を剰すに至りたれば、其講談に先ちて、例に随ひ、明夕演説する三席の大要を述て、予め諸君の記憶に備へんとす。

【人者】の字

 第一席に弁ずる仏国革命史は、千七百八十九年六月二十三日の臨幸会議に於て、民権家の巨擘(きょはく)ミラボーが豪邁壮快なる言論を吐て、衆議士を励す、尤も愉快なる処なり。小生が此史を弁ずるや、ミギエー氏の 原本と河津君の訳書に依り、成る可く事実を尽し、成る可く理論を悉(つぶさ)にせんの考へなれども、如何にせん、理解力乏しく、且、弁舌の巧みならざるを以て、原訳両書の意味の、十分一だも述ること能はず、実に遺憾の至りに耐ず。

 又、中席に述る大塩中斎(へいはちらう)言行録*1は今より五年以前、明治十九年の秋、大阪の新聞記者某(それ)が、中斎(おほしほ)は忠直豪毅、世を憂へ、民を愛するの志士なるが、言の用ひられざるを怒り、一時の憤激より、遂に乱を作(おこ)すに至りしものにて、所謂、身を殺して仁を為すに近きの人なり、決して之を真の叛逆と言可らず。然るを、世人、徳川政府が狡獪の政略に瞞着され、偽造の口供(くちがき)、濫為の風説を真とし、文明進歩の今日、尚乱臣賊子の看を為す者あるを遺憾に思ひ、古書残籍の、尤も信ずるに足るものゝ内より、実説を摘み、又、門下の宿儒(らうせんせい)出入の老商等に就て、逸事を探り、之を錯綜して、前後を叙(つい)で、中斎の言行録を編み、為に其冤を鳴らせるが、此年、恰も中斎の五十回忌に当り、且、其頃演劇改良の説、世上に嘖々たるを以て、彼是(ひし)を好機とし、狂言著作郎(さくしや)竹柴諺蔵氏*2、其言行録を原案と為し、是に美術的の意匠を加へて、一部の新狂言を作り、中斎の追善(ほふじ)と雪冤の二つを兼て、道頓堀、戎座の劇場に於て興行せしが、其狂言の、高上にして、尤も当時の人情に適ひたると、中斎を演ぜる俳優、宗十郎が絶群の伎倆を以て、能く中斎其人の精神を写しいだせるとに拠て、非常の喝采を博せし事ありき。

 頃来、小生が弁ずるところハ、其某記者が著ハせる言行録と、小生が見聞に依て得たる中斎の逸事とを合併(ひとつ)にして、演ぜるものにて、到底(つまり)、中斎が身を殺して仁を成せる真面目を、諸君に知らせんを欲するのみ。明夕ハ、中斎が、奉行跡部城州(やましろ)と救荒(きゝんをすくふ)の事に就き大議論を為し、議、協ハずして遂に事を挙るに意を決せる大眼目の場なり。

又、後席の小説雪月花ハ、三党の争ひ弥々切迫に及び、或ハ智、或ハ勇、或ハ財、各自得意の力に拠て中原の鹿を得ん事を務むるにつき、種々の珍事異聞を呈(あらは)すの処にて、談、漸く佳境に入らんとするの齣(くさり)なり。且、此席に於て、小生が小説に就ての卑見を演説し、尊聴を煩ハす目的(つもり)なれバ、明夕も亦、今夕の如く、輻々輳々の御来車を希(こひねが)ふ。是より弁じまするお土産講談ハ、御婦人方、又ハ、お小童(こども)方の為に、社会の風俗習慣に就ての弊害を述て、以て他山の石と為す考へなれば、成る丈、事の浅近(てぢか)にて、解り易きを撰び、言語も平和を専(むね)とすれバ、固より、大人君子のお聴きに達するものにハ非ず。

 諸君請ふ。其意して聴聞あらん事を。大阪実利社発行絵入実利新聞第千二百十一号、即ち今日(廿三年八月十二日)の新聞に掲げ、兄弟の奇遇と標題(みだし)を置きたる雑報にて、去る八日の夜の当地の出来事でござります。此夜ハ、今朝より降続きし微雨(こさめ)全く霽(はれ)て風の声(おと)、露の色にもやゝ秋の姿を見せて、少しく涼しさを覚え、下弦の月ハ、東山の端に上りて、将軍塚の松ハ、朦朧(おぼろ)にかすみ、狂鴉(うかれがらす)の声、二声三声聞ゆる。建仁寺裏の藪の蔭、昼も人目の稀なる淋しき処を、形粧も賤しからざる、四十あまりの婦人が、伴をも連ず、只一人、悄然(しよんぼり)として、来かゝりましたが、藪の中より往来ヘ、一枝ニユーとさし出ました松ケ枝に、フト目をつけ、何を思ひましたか、其処に立止り、頻に思案を凝す体でありましたが、やがて、腰に締てをりました細帯を解て、飄然(ひらり)とその松ケ枝に投掛けました。是は、小生が弁ずる迄もなく、当今開明の時世に不適当な首釣りとこそは思はれました。(此講談、尚長けれども、行数の都合に依て次号に譲る)




*1 これは、井上仙次郎編「今古民権開宗 大塩平八郎言行録」のことかと思われます。 

*2 「竹柴諺蔵」とは、勝諺蔵のことでしょうか。父能進は、ニュースの劇化を得意とし、明治13年、新聞小説の劇化を関西で初めてした人です。


 明治19年8月27日「蜃気楼 第壱回(壱)」は次のように始まります。    また、最終回、明治19年12月9日「第廿一回(下)」では、後篇を予定しているような終わり方です。

 この小説のように、国会開設が予定されていた「明治23年」を未来とする「二十三年未来記」の類の政治小説が、このころ、いろいろでています。末広鉄腸のものは、少なくとも32版、30万部以上売れただろうということです。(柳田泉『明治文学研究 第9巻 政治小説研究 中巻』「鉄腸の政治小説」の項 春秋社 1967)

 最初に出た、明治16年の柳窓外史『二十三年未来記』は、大塩平八郎が秩父山中に生存していたという設定になっているものです。(柳田泉『明治文学研究 第8巻 政治小説研究 上巻』「高瀬真卿」の項 春秋社 1967)

 宇田川文海は、明治14年から明治22年、朝日新聞に在籍。
 新聞には、作者の名はありませんが、『朝日新聞社史 資料編』(朝日新聞社 )などによれば、8月から12月にかけて87回連載されたもののようです。
 挿絵は、『新聞小説史年表』(高木健夫編 国書刊行会 1987)では「芳峰」となっています。

参考文献
北崎豊二「大塩の乱と自由民権家」(『大阪経大論集 第50巻2号』大阪経大学会 1999.7 )
菊池真一「大阪朝日新聞に見る明治期講談」(『甲南女子大学研究紀要 第35号』甲南女子大学 1999.3)
鵜野漆磧「大塩騒動の芝居

井上仙次郎編「今古民権開宗 大塩平八郎言行録

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ