常太郎、幸に先生の薫陶に因りて、少しく人の道をも弁へ候へば、色情の為に容易に
身を誤る如き浮薄の行ハ、決して仕らず、此段御心安かれ、と御身より宜しく言伝し
て賜ハれ、と言終りて、其後ハ更に一語をも発せざれバ、おさきハ、今更手持なく、
迯るが如く立去りける、
此て其後常太郎ハ、心に思ふ旨あれば、態と十日も十五日も湯沐せす、髪ハ尚更取上
げずして、蓬頭垢面、宛然猿か人かと怪まるゝ計に身を持て、成丈色気を落し、加之
ならず、
幸ひ師匠良準にハ、医学の外に剱道にも秀でたるを以て、勤学の余力に撃剱の教をも
請けて、飽まで筋骨を堅めければ、昨日迄の美少年に一変へて、漸次に勇壮なる丈夫
になりしにぞ、
斯てハ織江の恋慕の念の薄く成り行くらめ、と密に心を安じ居りしが、織江ハ夫と反
対にて、常太郎が難面き答をおさきより聞きて、却て其堅固なる志を感じ、一入恋慕
の念を増し、其後、常太郎の武芸に心を寄せ、成丈色情に遠かるやう身を持つを見て、
弥々為す事あるの人物たるを知りしかば、遂に思に忍兼ねて、母に云々と、常太郎に
先頃より懸想せる旨の一部始終を明せしが、妾も彼人を婿にする事ハ、兼ての希望に
侍れども、流人を婿にする事ハ、藩政の法度なれば、如何とも為術なし、さぞかし遺
憾くハあるべけれど、自由ならぬ浮世と明め給へ、と事を分けて諭されしにぞ、
流石怜悧の織江とて、到底も恊ハぬ縁ならめ、と漸々に明めて、遂に其念を絶ちたり
しとぞ、
偖も白駒の歩隙なくして、常太郎已に二十五歳の春を迎へしが、漢学医術両ながら、
全く其業を卒へたれば、最早開業苦からず、と師の良準の免を受けて、有木村に立帰
り、黒坂、岡部の両人と相談にて、然るべき家を求め、其年の二月初旬、軒端の梅と
共に医術を開初めしが、其花の香の、東風のまに/\四方に薫るが如く、早くも名手
の名の遠近に聞え、診察を乞ふ者日々に集来りて最賑く暮ける、
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