Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.12.3修正

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大塩の乱関係論文集目次


『塩逆述』巻之三を読み終えて

和田 義久

『大塩研究 第38号』1997.3より転載


◇禁転載◇

 『塩逆述』巻之三は、一九九六年五月から読み始め、九七年二月に読み終えた。月一回の例会に六丁のペースで読み進み、ほぼ九か月を費やした。私は、大塩の乱に関わった尊延寺村の深尾才次郎に関心があり、たまたま「大塩の乱関係資料を読む会」で「塩逆述」が取り上げられることを知り、未見の史料なので才次郎に関する史料が出て来るかも知れないと思い、九四年二月から読む会に参加させていただいている。今回向江強先生から巻之三を読み終えた段階で「大塩研究」に報告を書いてほしいと依頼され、簡単な報告を綴ることにした。

 さて、巻之三に収録された史料は、「所司代ノ達書」「鴫野政七ノ書」「田安殿代官書」「堀伊賀守ノ書」「大坂沢ノ井江ノ書」「無名氏ノ書」「篠山ノ臣ノ書」「土井殿奉書」「江戸町触」「中川氏家来ノ書」「堀ノ臣茂三郎母の文」「大阪書生安藤氏ノ書」「井関氏ノ書簡」「一書生ノ書状」「大坂薬種屋之書状」「永井飛騨守ノ臣状」「在番々頭江戸同役江書状」「二度目堀家来茂三郎母ノ文」「大炊頭殿御届」「廿四日大坂ヨヨリ申来書」「田安殿大坂詰ノ臣書状」「二度目人相書」「岡部松平御届」「小林楠五郎ノ書状」「平八郎備立ノ図」「松浦肥前守之書」の二十六点である。

 これらの史料のうち、読む会の例会で一番興味を引いたのは「堀ノ臣茂三郎母の文」である。この史料は、日付不明の書簡と三月四日付の書簡と二通ある。前者の書簡はすでに中瀬寿一・村上義光両氏が、藤田東湖の「浪華騒擾紀事」のなかにある史料「堀伊賀守老女より江戸に残り居候忰茂三郎へ与候文の写」として紹介されている。*1 ただ「塩逆述」巻之三では、書簡の全文が収録されており、中瀬・村上氏の論文による史料紹介は書簡の前半部分のみであることがわかった。*2 しかし、ここでは、後者の三月四日付の書簡を全文紹介することにする。読み下し文は野市勇喜雄氏の釈文をもとに適宜読点を打った。また、テキストに使っている大阪市立中央図書館蔵史料では筆写間違いと思われる意味不明な箇所については、国立国会図書館蔵史料を参考に訂正した。


【註】
*1 「ドキュメント・天保八年二月十九日」(『民衆史料が語る大塩事件』)
*2 引用者が後半部分を割愛したのか、藤田東湖の『浪華騒擾紀事」(大阪城天守閣蔵)の原史料自体が前半部分しか収録していないのかは調べていないので明らかでない。


 四日付の手紙は三千字に及ぶ長文で、堀一家の避難騒ぎに始まって、大坂大火の様子、事件発端の経緯、大塩父子の行方、伏見で捕縛された白井孝右衛門と杉山三平とおもわれる大塩一党のことなど、体験や伝聞など実に様々なことが書き記されている。

 まず、堀伊賀守利堅は、天保七年十一月大坂西町奉行を拝命、翌八年二月二日大坂へ着任した。堀伊賀守は、単身赴任ではなく、妻子を伴って転勤してきた。*3手紙の書き手である「茂三郎の母」は、堀家の奥向きを差配する奥女中と思われ、密訴のあった次の十八日の夜、寝ずに待機を命じられるなど、奥方や子の面倒もみるだけでなく、堀伊賀守の世話もしていたようだ。また家老松本嘉藤太や中泉撰司らとも親しい間柄に見受けられる。事件当日、火の手が上がっても二、三キロ先で風もないのでさほど心配もせず、昼飯も食べるほどの余裕であった。しかし二階に煙りが充満し火が迫って来て、やっと大事であることを知り、堀伊賀守の妻子を玉造口の定番遠藤但馬守胤統の下屋敷まで避難させるのであるが、その際の混乱ぶりが目に見えるように綴られている。そういう意味では、大塩の乱に巻き込まれた女性が、体験に基づく感想を書き残した貴重な史料といえる。

 次に、堀伊賀守の落馬について、堀自身の言い分を茂三郎の母が聞き取っている。堀伊賀守の落馬については、幸田成友の「大塩平八郎」以来夙に知られているが、その根拠は坂本鉉之助の「堀の乗居たる馬、鉄炮の音の驚き跳ねて堀落馬あるを、京橋同心中ハ賊徒の鉄炮に中りて藩馬と思ひ、即時にぱっと散乱いたし、堀ハ詮方なく御祓筋の会所に入り休息」(『咬菜秘記』)の一文であろう。しかし、茂三郎の母は一度目の書簡で「両方より打かけ鉄の音きひしく、御馬驚かけ出し、御口取なく、前へ殿様御飛下り、金三郎も竹さんも御落馬か、又鉄炮に御あたりかと御供一統拳をにきり候所、直二御飛のり御差引被遊候と承り候」と記している。また、四日付の書簡では、「御馬おとろき候も此時と申事、御馬跡しさり癖ゆヘ、殿様にけると思われてハならぬと御飛ほり被遊候と仰られ」と、堀伊賀守の言い分を書き留めている。鉄炮の音に驚いた馬が前足を上げ惨めにも落馬したというより、馬の嘶きに素早く飛び下りたのが真相だったのかもしれない。


【註】
*3 跡部山城守良弼も妻子同伴で大坂に赴任している。


 一方跡部山城守の臆病さの風説はすぐに広がったらしく、先の書簡で「東様にハこわかり、御家中一統よろいかぶとがち々々働けず、此方ハ火事具・御手袋さへ御忘れにて入らせられ候と被仰」と伊賀守の言葉を伝え、茂三郎の母もそこは身ぴいきか、跡部のことを念頭に「町奉行わるくいわれ候而残念」と嘆いている。

 こうした茂三郎の母自身の体験や伊賀守の言葉が綴ってあるほか、事件からすでに二週間を経過しているので、事件の発端や大塩平八郎についても堀伊賀守や家老から聞いたのか詳しく書き送っている。尤も後世の研究からすると、瑣事の部分については史実と違うところが多く見受けられる。ここでその異同を指摘したところ であまり意味があると思えないので、伝聞とはいえ当時の人々が何を判断基準に置いていたかを知る上で価値のある史料であることだけ指摘しておきたい。

 最後に、巻三を読み終えての感想を書き留めておく。大塩父子は事破れて後、杳として行方知れず、幕府方は手配書を配る一方、近在の諸藩に命じ街道筋を固めさせた。当然、大川筋も警戒されたにちがいない。それを裏づける史料は未見だが、例えば深尾才次郎が尊延寺の村人を率いて天満へ渡ろうとして、一且断わられるが火消人足と偽って大川を渡っているので、渡し船はたぶん規制されていたと思われる。「三十石なり舟者大坂江入不甲、毛馬渡し迄二候」と「田安殿大坂詰ノ臣書状」に記されているが、これは大坂市中の混乱に近づけないための船頭衆の自主判断というより、幕府による規制と考えられる。実際大塩父子は船に乗って大川に出ており、淀川左岸の北河内の諸村には門弟の在所が点在するので、逃避先としては誤った判断ではない。高槻藩は淀川に注ぐ芥川沿いの芝生で陣をはっているが(「永井飛騨守ノ臣ノ書状」)、あるいは淀川沿いの警戒を指示されていたのかもしれない。ただ、淀川を遡ろうとすれぱ、綱引人足を確保しなければならず、大塩父子はやむなく大坂市中に舞い戻らざるをえなかったのだろう。

(枚方市市民情報課)


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