『大塩研究 第38号』1997.3より転載
『塩逆述』巻之三は、一九九六年五月から読み始め、九七年二月に読み終えた。月一回の例会に六丁のペースで読み進み、ほぼ九か月を費やした。私は、大塩の乱に関わった尊延寺村の深尾才次郎に関心があり、たまたま「大塩の乱関係資料を読む会」で「塩逆述」が取り上げられることを知り、未見の史料なので才次郎に関する史料が出て来るかも知れないと思い、九四年二月から読む会に参加させていただいている。今回向江強先生から巻之三を読み終えた段階で「大塩研究」に報告を書いてほしいと依頼され、簡単な報告を綴ることにした。
さて、巻之三に収録された史料は、「所司代ノ達書」「鴫野政七ノ書」「田安殿代官書」「堀伊賀守ノ書」「大坂沢ノ井江ノ書」「無名氏ノ書」「篠山ノ臣ノ書」「土井殿奉書」「江戸町触」「中川氏家来ノ書」「堀ノ臣茂三郎母の文」「大阪書生安藤氏ノ書」「井関氏ノ書簡」「一書生ノ書状」「大坂薬種屋
之書状」「永井飛騨守ノ臣
状」「在番々頭
江戸同役江書状」「二度目堀家来茂三郎母ノ文」「大炊頭殿御届」「廿四日大坂ヨヨリ申来書」「田安殿大坂詰ノ臣書状」「二度目人相書」「岡部松平御届」「小林楠五郎ノ書状」「平八郎備立ノ図」「松浦肥前守
之書」の二十六点である。
これらの史料のうち、読む会の例会で一番興味を引いたのは「堀ノ臣茂三郎母の文」である。この史料は、日付不明の書簡と三月四日付の書簡と二通ある。前者の書簡はすでに中瀬寿一・村上義光両氏が、藤田東湖の「浪華騒擾紀事」のなかにある史料「堀伊賀守老女より江戸に残り居候忰茂三郎へ与候文の写」として紹介されている。*1 ただ「塩逆述」巻之三では、書簡の全文が収録されており、中瀬・村上氏の論文による史料紹介は書簡の前半部分のみであることがわかった。*2 しかし、ここでは、後者の三月四日付の書簡を全文紹介することにする。読み下し文は野市勇喜雄氏の釈文をもとに適宜読点を打った。また、テキストに使っている大阪市立中央図書館蔵史料では筆写間違いと思われる意味不明な箇所については、国立国会図書館蔵史料を参考に訂正した。
【註】
*1 「ドキュメント・天保八年二月十九日」(『民衆史料が語る大塩事件』)
*2 引用者が後半部分を割愛したのか、藤田東湖の『浪華騒擾紀事」(大阪城天守閣蔵)の原史料自体が前半部分しか収録していないのかは調べていないので明らかでない。
二月十九日七ツ半時御目さめにて、御順見と被仰候所、其宵ハ家老衆内々申上候、ひそ々々何か事出来候様子、先御出御やめと申御事、此夜御次之者皆ふせらせ、大義なから私計おき居候様被仰付候所、夜中に嘉藤太さん・撰司さん御前へ出、又殿様御表へ被為入、又御帰り、兎角御床へ被為入のミ、御しつまりの間も無候て、只しつかに々々とのミ被仰候、夜明て御出、東様へ御出の御留守も火の元大切に静り居候様被仰付候所、四ツ頃遠火御座候きかせ候処、天満にて是
廿四、五丁と申事、風もなく候得ハ、皆々はやふ仕舞致させ、昼着二成りゆふ々々お仕事致居候、撰司さんか御出、是か夕部の騒動とふ々々火事二成候、先々沙汰を致まて、しつかに火の元を気を付、さつぱりしたなりをさせるがよくと御申故、昼着でよい事、又沙汰かあつたら着かへるかよからふに、殊に廿四、五丁もある、風ハなしと皆申、おかさんにも気をもませるもわるしと落付、先昼飯をたへしまひ、お二階へ上り候所、殊之外けむり大きくなり、是ハどふも大変な仕事を、先御長持へ仕舞、私おかさんの頂戴の反物立ちらし候を一ツに包なと致候所ヘ、□さんさあ々々お立のきと御申、何とも仕方なく、撰司さん跡ハ其儘はやく々々と申、八人一所に着かへり、常様ハ御うハつぱり御召かへを包、御むつき・御薬何二も々々大変大騒動、御かご一てうよふ々々出来、おかさんをのせ、常様おんぶ、皆々立のまヽ、私ハ夫ても御引移り
、長持一ツ拝借致置、是へふたん色々々入置候まヽ、きもの鏡ぬきなからほふり込々々、夫ても茶の小袖・白むく弐ツ着候て、縞縮緬・小紋つむきニツ包着かへと存、かこの内へ入てもらひ、御庭よりかけ出シ、御裏御門
松や丁へかヽり候所、人多、又御表長屋を廻り、河岸はた
立のき、此ときハもはや川向ふ二火見え申候、右の方に見え候火たちまち左てに見え候、余り早き火事と計り存候、玉つくり口遠藤さまの御下屋敷へ参り候様被仰、御屋敷川向ふをかけ、一めん左て黒けむり十万(充満)いたし、御城近辺をへて、玉つくり迄火けふりのなき所も御座なく、老若上を下へとさわき、誠に大変、よふ々々玉つくり御屋敷江参り候所、もはや東様奥様・若様・お姫様・御召つかひ先へ御立のき、此方ハ御長屋御家内皆一ツ大さわき、鈴木の家内ハにけおくれ、亀ほう計り、人と一ツに参り候、是をも奥の中間に入置、菓子なと遣したまし置候、段々承り候得ハ今日の御巡見の節御迎ひかたの与力の内へ被為入候東さま・西さま一ツに御酒上り候時節をかんかヘ、火矢を射込皆殺に致すたくミの由二御座候、誠に御平日の御気前故、天のめくミ有かたきことニハ、十八日夕部そにん御座候、夫故夜中御心配加藤太さまへ被仰付、身をやつしふら挑灯にて東様へ加藤太さま御出、よふ々々内をたヽき明させ御直二申上、御用の筋御組の与力不残御よけ(ひ)上ケ、其内こなたさま御人数にて取まき候つもり二申上候処、殊之外御せき被成候哉、加藤太さん帰るやいなや東様ニハ御組の与力むほん人の養子二与して居候人を召、御膝の上へ御書付をのせ、御高こと御読上ケ故にげ出し候を御家来二命し、夫うち殺、とろ坊と申、一人ハ打殺シ、其養子の方ハ御庭へ出、石焼蔵に踏かけ高塀をこしにけ、親に露顕の旨を申聞、夫
迚も事ならす被存、大塩平八郎と申者当人此家
火をかけ、直二天満天神へ火矢四本迄射込、御宮も火矢打懸候由、御宮計残り候と申者御座候、是ハ人から承り候故、御やけ相知レ不申、誠に不届天罰いかヽ成行哉と存候、三井杯ハ四方
火矢二而大家忽にくつれ、人多く死し候、鴻の池の本家忽にくつれ、土蔵へ火矢射かけ候得共金蔵てハなく、本家用心きひしく、別家ハ四五千両もとられ候風聞二御座候、誠に大変所々にて鉄炮放し火矢を打込候故、間の火事とちかひ、皆度を失ひ子供をなくし親をなくし泣叫ひ気違二成物多く、昨夜も女気違か御屋敷へにけ込候まヽ、殿様御留守中御屋敷無人の所へ大塩平八郎三ノ手迄人数を配り押寄、平野橋と申橋へ押掛て参り、旗を立、鉄抱揃へ攻よせ候、すはや大変と皆
存候処、殿様御帰り御人数を御むけ追欠、此時東様横合
御出肝をつぶし、厳重の御手配と心得、迯行候先キ、大将を鉄炮にて打留候、誠の乱世此時の様子伺候も跡てハ御いさましく御座候、御屋敷もはや火かヽり候ハ三度まてと申候、加藤太さん・角蔵さん火かヽり其まへハ敵に計りかヽり居、火ハやけ次第、敵にけ候て
火の防き、こちらハ火消もまたるヽ中二江戸の様成ハなく恐れて計り居候、雪駄をはいて火消に出候、笑ひ侯、誠に大変御近習にても金三郎さん・鈴木真助さん、殊之外御先へ立働候由承り候、中にハ御門をまたかぬ者も御座候と承り候、御馬おとろき候も此時と申事、御馬跡しさり癖ゆヘ、殿様にけると思われてハならぬと御飛ほり被遊候と仰られ、すくに又御馬にて御のり出し、嶋の様成御鞭御手御足きしのほと黒く御血にじミ、○此くらゐの御跡程黒く御座候、伺も御心さわりにも被為成候哉と申上不申候、余程のはけしき御差引と被存上候、車に積候敵の火矢ゑんせう、又ハかふと・鎧・旗・かき物・陣羽織其外色々御手二入、火矢ゑんせうハ御泉水に打込御座候、恐ろしきたくミ、四、五年以来のたくみと申候、追々とられ候へ共、大塩ハ今に出不申候、今日伏見
質屋にて金の用足候人もはやのかれすと存、髪をすり衣を着し、舟のそこにかヽミ居候をとらヘ、又大塩家来一人伏見
此御屋敷へ網乗物にて送りこし、殿様御留守、東様へ被為入候まヽ東様へ伺之上只今東へ送り候と、其見物人夥敷、角蔵さん夜叉の如くに成六尺棒にて見物を打たほし払候と忠さん金さん御申きけ、御屋敷日々大さわき二御座候、日々召とられ候、いまた殿様ハ御表二のミ、夜分も御表に御座候、東様御こわかりのよし評判あしく候、誠に合戦のちまた、嘸々江戸二てハ大評判、色々説多くて御案思と存候、もはや御しめりハ度々火道具ハ御取上ケ、人数ハへり、追々静り申候、立退の跡ハ居付の部屋頭かた付候と承り申候、御組の与力も西・東様御入故、大切の道具を取出しならへ置候まヽ、火矢打こまれ丸やけ、夜中
御屋敷へ出候ヘハ火事具もなし立のまヽと申事二候、御雨戸もやう々々昨日開き、お掃除も致候、今日
女中平服と被仰付候、今日は一日うろ々々大まごつき二御座候、誠に殿様にも両度迄御戦ひ遊ハし、常様・私共ハ落人同様迯あるき、江戸なつかしく、もしや大変になり候ハヽ、身を忍ひ常様御供江戸へ帰りてと存候位心配、御さつし可被下候、極内々なからおしなへて町奉行わるくいわれ候而残念御座候、大塩ハ人をなつけるつもりにて平生施を致置候故、欲に目のくれ候人心ゆヘ、何か下々ハ大塩を神仏の様二申候と源七京都の風聞話シ申候、東様ハ御こわかり、御家来へ被下候虎屋の饅頭計りも廿五両と御噂承り申候、瀬田才之助と申人ハ早わさの名人、天井につるしてある挑灯を蹴るほとの者と聞候得共、天の罰首縊申候、人々鎧をきて首をくヽり候と申合候得共、左様ニハなく、町人に姿をかへ候へ共、身を忍ひかたく候、首くヽり候と見え候、是も塩漬に相成候、三日跡大塩の妾子供とられ候、いまた大塩行衛知レ不申候、家来の白状ハ相果候と申候、下文略
三月四日 母 浦瀬者堀当代之つほね之通り名也 茂三郎との 平安
四日付の手紙は三千字に及ぶ長文で、堀一家の避難騒ぎに始まって、大坂大火の様子、事件発端の経緯、大塩父子の行方、伏見で捕縛された白井孝右衛門と杉山三平とおもわれる大塩一党のことなど、体験や伝聞など実に様々なことが書き記されている。
まず、堀伊賀守利堅は、天保七年十一月大坂西町奉行を拝命、翌八年二月二日大坂へ着任した。堀伊賀守は、単身赴任ではなく、妻子を伴って転勤してきた。*3手紙の書き手である「茂三郎の母」は、堀家の奥向きを差配する奥女中と思われ、密訴のあった次の十八日の夜、寝ずに待機を命じられるなど、奥方や子の面倒もみるだけでなく、堀伊賀守の世話もしていたようだ。また家老松本嘉藤太や中泉撰司らとも親しい間柄に見受けられる。事件当日、火の手が上がっても二、三キロ先で風もないのでさほど心配もせず、昼飯も食べるほどの余裕であった。しかし二階に煙りが充満し火が迫って来て、やっと大事であることを知り、堀伊賀守の妻子を玉造口の定番遠藤但馬守胤統の下屋敷まで避難させるのであるが、その際の混乱ぶりが目に見えるように綴られている。そういう意味では、大塩の乱に巻き込まれた女性が、体験に基づく感想を書き残した貴重な史料といえる。
次に、堀伊賀守の落馬について、堀自身の言い分を茂三郎の母が聞き取っている。堀伊賀守の落馬については、幸田成友の「大塩平八郎」以来夙に知られているが、その根拠は坂本鉉之助の「堀の乗居たる馬、鉄炮の音の驚き跳ねて堀落馬あるを、京橋同心中ハ賊徒の鉄炮に中りて藩馬と思ひ、即時にぱっと散乱いたし、堀ハ詮方なく御祓筋の会所に入り休息」(『咬菜秘記』)の一文であろう。しかし、茂三郎の母は一度目の書簡で「両方より打かけ鉄の音きひしく、御馬驚かけ出し、御口取なく、前へ殿様御飛下り、金三郎も竹さんも御落馬か、又鉄炮に御あたりかと御供一統拳をにきり候所、直二御飛のり御差引被遊候と承り候」と記している。また、四日付の書簡では、「御馬おとろき候も此時と申事、御馬跡しさり癖ゆヘ、殿様にけると思われてハならぬと御飛ほり被遊候と仰られ」と、堀伊賀守の言い分を書き留めている。鉄炮の音に驚いた馬が前足を上げ惨めにも落馬したというより、馬の嘶きに素早く飛び下りたのが真相だったのかもしれない。
【註】
*3 跡部山城守良弼も妻子同伴で大坂に赴任している。
一方跡部山城守の臆病さの風説はすぐに広がったらしく、先の書簡で「東様にハこわかり、御家中一統よろいかぶとがち々々働けず、此方ハ火事具・御手袋さへ御忘れにて入らせられ候と被仰」と伊賀守の言葉を伝え、茂三郎の母もそこは身ぴいきか、跡部のことを念頭に「町奉行わるくいわれ候而残念」と嘆いている。
こうした茂三郎の母自身の体験や伊賀守の言葉が綴ってあるほか、事件からすでに二週間を経過しているので、事件の発端や大塩平八郎についても堀伊賀守や家老から聞いたのか詳しく書き送っている。尤も後世の研究からすると、瑣事の部分については史実と違うところが多く見受けられる。ここでその異同を指摘したところ
であまり意味があると思えないので、伝聞とはいえ当時の人々が何を判断基準に置いていたかを知る上で価値のある史料であることだけ指摘しておきたい。
最後に、巻三を読み終えての感想を書き留めておく。大塩父子は事破れて後、杳として行方知れず、幕府方は手配書を配る一方、近在の諸藩に命じ街道筋を固めさせた。当然、大川筋も警戒されたにちがいない。それを裏づける史料は未見だが、例えば深尾才次郎が尊延寺の村人を率いて天満へ渡ろうとして、一且断わられるが火消人足と偽って大川を渡っているので、渡し船はたぶん規制されていたと思われる。「三十石なり舟者大坂江入不甲、毛馬渡し迄二候」と「田安殿大坂詰ノ臣書状」に記されているが、これは大坂市中の混乱に近づけないための船頭衆の自主判断というより、幕府による規制と考えられる。実際大塩父子は船に乗って大川に出ており、淀川左岸の北河内の諸村には門弟の在所が点在するので、逃避先としては誤った判断ではない。高槻藩は淀川に注ぐ芥川沿いの芝生で陣をはっているが(「永井飛騨守ノ臣ノ書状」)、あるいは淀川沿いの警戒を指示されていたのかもしれない。ただ、淀川を遡ろうとすれぱ、綱引人足を確保しなければならず、大塩父子はやむなく大坂市中に舞い戻らざるをえなかったのだろう。