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2000.8.3

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大塩の乱関係論文集目次


「「平野郷を訪ねる」参加記」

和田義久

『大塩の乱関係資料を読む会会報 第39号』2000.7 より転載

◇禁転載◇

 大塩事件研究会主催 「平野郷を訪ねる」参加記 

 大塩事件研究会主催の「平野郷を訪ねる」は、「平野郷史跡見学」と講演「平野郷と大塩の乱」の2本建ての、催しであった。見学会は平野の町づくりを考える会の村田隆志氏(大阪府文化財愛護推進委員)による案内で、講演は大塩事件研究会会長酒井一氏であった。

 平野へは、三十年ぶりの訪問だった。大学生だった頃、家庭教師として週二回南海の平野線に乗って通っていたが、ほとんど夕方だったので、平野界隈を散策することもなかった。さほど印象も残っていない。しかし、この日地下鉄平野駅から地上に出たとき、その変貌ぶりに驚愕した。

 さて、平野郷の史跡めぐりを通じて、歴史の宝庫として再認識することができた。 ここでは大塩平八郎や大塩の乱に絞って、平野郷との関わりを紹介することにする。

(1)平野郷の成り立ち

 平野の地名は、平安時代の武将で征夷大将軍であった坂上田村磨の二男である広野麿が、朝廷から賜った土地(杭全くまた荘)を、一族とともに開拓した所なので、「広野」が訛って「平野」になったと伝えられている。(村田隆志「歴史に登場する人々」『ひらの魅力探訪』)平野郷には、坂上田村磨の庶流と称する七名家、末吉・成安・辻葩・土橋・三上・西村・井上の七家があった。また、平野郷は、中世には二重の壕と土居を築き、十三の出入り口を構える自治組織を造り上げた。

 十三口には大小の門があり、そのうち樋尻口・流口・馬場口・泥堂口・社内入口・市ノ口にある門は規模が大きかったという。その構造の確かなことはわからないが、高さ二間半許、幅は一間半許で門扉は左右に開かれた。延享元年の町内屋敷図によれば、各門には門番屋敷が付属していた(『平野郷町史』)。

 「平野町覚書」(史料1)には、「泥堂口者垣外弐人添番為致」とあるが、泥堂でいどう口は、大坂から平野郷に入る口で、平野郷の北東にある。そして、宝暦四年の平野郷町地図には、「垣内三十六軒」の記述がある。泥堂口より西の馬場口と壕の跡を紹介していただいた。ほんとうに江戸時代の町割がそのまま今に伝わっている。

(2)平野郷と古河藩

 平野郷は、近世初頭から幕府の直轄領であったが、元禄七年柳沢吉保の川越藩領、松平輝貞の高崎藩になり、その後数年天領に戻り、正徳三年本多忠良の古河藩の支配下になった。以後松井松平氏、土井氏と大名は代わったが、明治の廃藩まで古河藩の藩付所領であった。石高は5621石。

 古河藩が平野郷に陣屋を置いたのは、安永九年(1780)で、摂津・播磨にある飛地領を統括して管理運営した。陣屋は、約一・二fの広さで、天保五年の頃拡張され、家屋も四〇軒以上になった。

 なお、陣屋は、明治になり、住吉郡第一番小学校(現平野小学校)に生まれ変わり、門は大念仏寺の南門に移築され、わずかに当時の姿を偲ばせるだけである。

(3)大坂城代土井利位

 古河藩の領主は土井大炊頭利位で、天保五年大坂城代として大坂に赴任していた。利位の経歴については、次のように歴史辞典に紹介されています。

【土井利位】1789―1848.7.2 江戸後期の老中。下総国古河藩主。父は分家の三河国刈谷藩主土井利徳としなり。宗家の古河藩主土井利厚の養子となり、一八二二年(文政五)遺領相続。翌年奏者番。二四年寺社奉行兼帯。三四年(天保五)大坂城代。三七年大塩平八郎の乱を鎮定、京都所司代に昇進。翌年老中となり、四一年に開始された水野忠邦の天保の改革に協力。四三年の上知令で反水野派となり水野を失脚させ、老中首座。翌年辞任。家老鷹見泉石せんせきとともに雪の結晶の観察を続け、オランダ通詞の協力を得て「雪華せつか 図説」正・続を著した。(『日本史広辞典』)

(4)平野郷と大塩の乱

 @杭全神社での村田氏の講演で紹介されたのが、辻葩家文書である。辻葩家に伝来する文書に「記録」と名付けられた文書がある。この記録の作者は、孫三郎といって、文化四年生まれで、安政五年、五十一歳で亡くなった。平野には公式文書としては、「覚書」があるが、土井氏に仕える身分(総年寄)が見聞し平野のことや事件のことを自分の忘備録として書き残したものである。つまり、平野に伝わっていたことが証拠として残っていると考えてよい。その「記録」(史料2)の中に大塩のことが結構書かれているので、紹介したい。

 大塩様とあるが、土井様に仕えていても、大塩を尊敬していたのではないか。学問がよくできた方だと書いてもあり、大塩に一目置いていたのであろう。陣屋からの情報で、城方のことや逃亡の経路が書いてある。

 A土橋家文書の「天保八年摂河播郡中勘定覚帳」(史料3))によると、大塩の乱のあと、消火・後かたづけなどに平野郷から二月一九日から三月四日の間に人足五二七人を差し出した(一日平均三三人)。領主に対する夫役負担の一例であろう。この項は、村田氏のレジメによる。

(5)蔵屋敷の牢屋

 「茨田郡士、伊助ら一四名、高橋九右衛門と門真三番村の関係者は、次々と平野郷陣屋の牢内に入れられたが、そこでの取り調べの上、大坂町奉行所に身柄を移された。郡士が二十三日、九右衛門が二十七日、伊助たちは三月二日であった」(『門真市史』第四巻)。ところが、村田氏の話によると、陣屋には牢屋がなかったので、郷内の東南の堀の側にあった蔵屋敷の牢屋に入れられたという。確かに古河歴史博物館所蔵の「平野郷御陣屋絵図」には牢屋は見当たらない。

(6)大塩父子の発見

 「美吉屋の下女は平野郷の者で、三月の出代時に暇を貰って故郷へ帰ったが、何かの伝手に、旧主人の家では家内人数の割合に飯米が多く要る。毎日神前へ備えるといって、老人夫婦―五郎兵衛は六十二歳、つねは五十歳―が持って行かれる御飯は、お下りが一粒もない、妙な家もあるものだと話した(以上は『史談会速記録』による。前掲五郎兵衛夫婦の申口とは若干の相違がある)。平野郷は城代土井大炊頭の領分で、陣屋があり、七名家といって土着の豪族七名が全郷を支配する。その七名家の中の末吉平左衛門と中瀬九郎兵衛とが、右の話を聞いて陣屋へ訴え出たので、陣屋に詰めている土井家の家来から取りあえず大炊頭へ上申し、大炊頭から立入与力内山彦次郎へ沙汰があった。」(幸田成友『大塩平八郎』p166) こういう経過で大塩父子の潜伏先が幕府側の知るところとなったのだが、この「記録」によると、「当郷末吉平左衛門並末吉藤左衛門 御聞出し、御陣屋へ申上候、夫 中屋敷へ申上候故、先御城主様之家来衆一番ニ召取ニ参り候」となっている。陣屋に知らせたのが、末吉平左衛門と末吉藤左衛門となっていて、先の幸田成友では、平左衛門と中瀬九郎兵衛となっている。どっちが正しいかわかりませんとは、村田氏の感想だった。

 古河藩の史料をみると、下女は一七歳で、親が病気のため、家に帰ってきたと書いてある。また、中屋敷にいた婦女子は、皆陣屋へ逃げてきたそうだ。

 ところで、この上申者にたいして、「殿様御見江御詞被下、御あか付之御時服被下、大悦仕候」とある。「御あか付」とは、着古して垢の付いている服で、形見分けの意味だが、ここは離坂に際しての形見分けなのであろう。

 また、この末吉平左衛門の墓碑にこの一件が刻まれている。それによると、大和名柄村高橋宗邦の次子で、末吉孫四郎(道隣)の養子となり、末吉家を継ぎ、平左衛門と称す。「塩賊の乱翁立偉功前後賜俸九口」とある。

 さて、これ墓碑を発見したのは、故島野三千穂氏で、『大塩研究』第25号(一九八九・三)で紹介している。因みに、村田氏は、大塩事件研究会主催の催しだから、島野氏が来られると思って楽しみにされていたのが、昨年亡くなられた事を知らされて、非常に残念がっておられた。志を同じくする在野の歴史研究家の熱い想いが感じられた。歴史研究が取り持つ人と人の輪が実現されればと、思わざるをえなかった。

(7)庄司義左衛門の生地と逃亡経路

 「義左衛門は平八郎ほか三人を見失い、独り天王寺村へ逃げ、夜明けてから手拭に面体を包み、平野郷辺より国分峠を越え、大和から伊勢路へ掛った。しかし頼るべき知辺もなく、また同志にも出会わない、ひとまず大阪へ立ち帰って様子をみようと、奈良まで引き還して来たところを奈良奉行の手に召し捕られ、三月五日大阪にて揚屋入りとなった。」(幸田成友『大塩平八郎』p157) つまり、庄司義左衛門は南都でつかまったとされているが、この史料「記録」では、「庄司儀左衛門ハ三月十日比和州金剛山ノ麓長柄と申所ニて生捕候様子」とある。名柄というのは、御所市のちょっと南、宮山古墳のあたりで、水越峠を越えて奈良へ降りてきたところを生け捕りされたと書いてある。大坂へ戻ろうとしたとき、捕まえられたのかな、史料をみて考えたとは、村田氏の言。

 また、この儀左衛門の生家を案内してもらった。「庄司義左衛門 東組同心。河州丹北郡東瓜破村百姓助右衛門の子で、文政四年摂州住吉郡堀村百姓久右衛門事茂左衛門の養子となり、同人実家という名義の下に、同年九月再び東組同心庄司百蔵の養子となった者である。文政七年二十七歳の時平八郎槍術の門人となり、天保二年より読書を受く」(幸田成友『大塩平八郎』p88)とある。

 いままで、儀左衛門の生家について、調べられてなかったのが、今回村田氏に案内いただいて、初めて明らかとなった。場所は、東瓜破村の出戸(出郷)の成本で、住居表示でいうと瓜破東2丁目にあたる。生家にお訪ねしたが、あいにく留守だったので、調査はまたの機会に譲り、成本天神社をお参りして成本をあとにした。

(8)含翠堂と陽明学

 享保二年(一七一七)、平野七名家の一つである土橋七郎兵衛が、郷内好学の同士共に創設した学校で、当初老松堂といったが、三宅万年が中国の詩から選んで含翠堂と改名した。

 校風は、陽明学の三輪執斎、古義学の伊藤東涯など学派を選ばず、当時の一流学者が来講し、郷民を教化した。学校の経営は、すべて同志の寄金とその運用で維持された。特に、飢饉の際に度々救民を救済し、社会救済センターとして貢献した。大塩の陽明学とは、対照的な陽明学理解といえるかも知れない。


史 料

(1)平野郷町覚書「大坂町御奉役様組与力大塩平八郎大坂市中所々放火致候一件」

(廿二日)
一郷内門々〆り和らき候由・付、大坂面之方大躰鎮り候迄、厳敷〆り為致、泥堂口者垣外弐人添番為致、役々毎夜廻り之儀、月番町始夫々申渡
 (山口之夫「摂津国平野郷町『覚書』と大塩騒動」『大塩研究』第2号所収)

(2)辻葩家文書「記録」

二月十九日

  (前略)

  切殺され候、瀬田ハ其儘切ヌケ被帰候、
  右之様子大塩殿へ被申候得者、夫 我
  居宅へ火ケ掛、夫 段々与力へ鉄鉋打込候故、
  イチドキ火ニ相成、此日ノ手下之人数二百人
  計り、此内大将分廿人、是者儒学人弟子
  ニて御座候、皆近在ノ庄屋或ハ大家ノ人々
  其外ハ施行請候人、此日も又々施行遣シ
  申候様、前日申し遣候間、早朝 参り候ニ付
  右一味被致候様被申候故、無拠味方へ参り
  旗ヲ持、或ハ大筒・木筒ヲ持役ニ被取候
  夫 船場へ渡り、鴻池へ打込、又三ツ井へ
  打込候、夫 方々へ大筒打込候

一 此出火ハ余の常の事と違ひ候故、御城外大手先々
  葵御紋ノ陣幕ヲ御はり、其内へ又御城代之御紋ノ
  土車ノ幕ヲはり、所々ニ鉄鉋ヲかまへ、纏并鑓・籏
  馬へ鞍ヲ置、家老用人衆下ニハ甲冑、上ニハ火事
  装束ヲ着、床机ニ掛り被居候、城内ニモ右同断、
  御番所出入之役人衆も抜身之鑓刀ニ御座候
  其外火事場役人衆も同断。

一 二月廿一日田井中村宮ニて渡辺良左衛門
  坊主ニ相成腹切被居候、同廿五、六日迄
  瀬田済之助信貴山之中程ニて首ヲくゝり
  被居候、庄司儀左衛門ハ三月十日比和州
  金剛山ノ麓長柄と申所ニて生捕候様子
  同十日比近藤梶五郎、自分之居宅
  之焼跡ニて切腹被致候、大塩親子
  外ニ城与力弐人未ダ不知レ、其後大井
  正市郎モ被召捕候、河合郷左衛門ハ
  未タ不知レ候

一 三月廿七日朝五ッ時、大塩親子大坂靱油掛町
  三吉や五郎兵衛方忍居候所、御城代並両番所
  之役人召取ニ参り候所、両人切腹致、我が居間ニ 
  火ヲ掛、其身モ少シ焼死ス
  此人知レ候訳ハ当郷末吉平左衛門並末吉藤左衛門
  御聞出し、御陣屋へ申上候、夫 中屋敷へ申上候故
  先御城主様之家来衆一番ニ召取ニ参り候故、
  殿様之御手柄ニ相成申候、依之殿様御帰り之
  前平左衛門・藤左衛門二人上屋敷ニおいて、大広間
  殿様御見江御詞被下、御あか付之御時服
  被下 大悦仕候

   (村田隆志氏のレジメから読下文作成)

(3)天保八年摂河播郡中勘定覚帳
        大阪大学文学部国史学研究室蔵

諸入用

一 壱貫五百八拾壱匁   同郷
  右・二月十九日・三月四日迄
  大坂騒動ニ付人足五百廿七人

(4)末吉平左衛門墓碑銘

正面  高雲院道夢居士

右側面 翁者大和州旧族本姓高橋氏宗邦君之第二子来婿于
    末吉氏為道隣君之嗣諱道房号平左衛門初翁之来也
    末吉氏家道頗窮翁勤業鞅掌家復饒冨遂与
    邦君土井公出納之事為郷大長最善経済常幹弁

裏面  公家経費?有勤労塩賊之乱翁立偉功前後賜俸九口
    其五口以為世伝特例也晩年退休薙髪更号睡翁文久
    二年壬戌十月二十日病歿年六十有九葬于禁輪寺先
    塋之次生六男三女道一道定及一男者先配之出也正
    順正位以下皆継室足守藩士清氏之出也道定先死道
    一嗣家正順出嗣堺府高木氏正位婿于浪華辻氏長女
    適于津田氏亦先死季女適于本郷三上氏其余二男一

左側面 女皆夭

    文久三年癸亥七月
         孝子 道一建
 
管理人註
開催日◆2000年6月18日(日)


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