箚記或問 二條
人 り けんら
或問うて曰く、陽明子より李見羅の諸子に至るまで、学を論ずれば
則ち只だ道を明らかにするのみ、未だ嘗て自から事功を言はず。而
さつき
て又た人の之を称するを許さず。然れども子の箚記を看るに、其の
ざつきよ
上巻の終りに於て、王学諸子の功業節義を雑挙するは何ぞやと。曰
し か
く、子未だ夫の春秋冬夏を知らざるか。春は物を生じ、秋は物を成
おさ
し、冬は物を収め、夏は物を長ず。もし春にして物を生ぜず、秋に
して物を成さず、冬にして物を収めず、夏にして物を長ぜずんば、
則ち天徳と雖も貴ぶに足らざるのみ。人は即ち天なり、学とは天徳
を学ぶなり、道を明らかにするとは天道を明らかにするなり。是の
そむ
故に学を論じ道を明らかにして、而て其の用無き者は、乃ち天と背
へん おちい い いたん
く。天と背けば則ち一偏に陥る。謂はゆる異端の教にして、而て聖
めいたいてきよう さいせきかうかん すうとうくわく い か
人の明体適用の学と云はんや。載籍浩瀚、後生未だ鄒東廓は如何な
おうやうなんや らねんあん
る人たるか、欧陽南野、羅念は亦た何如なる人たるかを識らざる
者多し。故に其の功業節義の道徳に出づるものを雑挙し、以て之を
ほか
示せるのみ。而て又た何ぞ学と道とを外にして、以て功業節義を語
るゐ や くしん ご し
るの類ならんや。是れ余が已むことを得ざるの苦心なり。吾子之を
りやう
亮せよ。
人 さつき とう い
或問うて曰く、子が箚記下巻の終りを看れば、則ち董子已下諸賢の
あんご べんせつ せいだい
説を挙げ、或は按語を以てし、或は弁説を以てす。而て世代叙次、
みだ あんぱいふ ち
源流伝来、紊れざる者の如し。然らば則ち安排布置するに庶くして、
さつき たい
而て箚記日録の体にあらざるに似たるは何ぞやと。曰く、吾れ嘗て
さくざつ ひ しさんご
諸賢の書を読むに、則ち後先錯雑、彼此参伍、固より一定するあら
ず。吾れ何ぞ人と同じうせざらんや。然れども之を筆すれば、則ち
すで
董子而て諸葛武侯、而て文中子、以て湯子に終る、業に然らしむる
ちか
なり。故に安排布置に庶し、而て安排布置に意あるにあらざるなり。
なん るゐ
然れども人信ぜずして之を安排布置と謂ふも、又た奚ぞ箚記の累を
れききよ
為さんや。論語第二十、堯舜湯武を歴挙して以て結べり。孟子七篇
の終り、亦た堯舜を歴挙し孔子の聖人に至つて以て結べり。則ち余
き く たま\/しん
の箚記、之と期せずして、而て乃ち其の規矩に入れり。而て適 清
じゆ らく しゆ
儒張伯行の性理正宗に、堯舜及び伊洛の諸君子等を首に挙げ、性理
ふく りくわう へん づざんおくだん くわいろう まぬ
字義を腹に置き、陸王を尾に貶せる杜撰臆断の怪陋を免かる。則ち
きかう な じよ
余の喜幸加ふる莫し。吾子少しく恕せよ。
しるす
洗心洞主人識
或問曰。陽明子至李見羅諸子。論学則只明道而已、未嘗自言
事功、而又不許人称之、然看子箚記、於其上巻終也、雑
挙王学諸子之功業節義何也、曰、子未知夫春秋冬夏乎、春者
生物、秋者成物、冬者収物、夏者長物、如春而不生物、秋
而不成物、冬而不収物、夏而不長物、則雖天徳不足貴也
已矣、人即天也、学也者、学天徳也、明道也者、明天道也、
是故論学明道、而無其用者、乃与天背、与天背則陥一偏、
所謂異端之教、而聖人明体適用之学云乎哉、載籍浩瀚、後生未
識鄒東廓為如何人、欧陽南野・羅念亦為何如人者多矣。故
雑挙其功業節義出于道徳者、以示之焉耳、而又何外学与道、
以語功業節義之類也哉、是余不得已之苦心也、吾子亮之、
或問曰、看子箚記下巻終、則挙董子已下諸賢之説、或以按語、
或以弁説、而世代叙次、源流伝来、如不紊者、然則庶乎安排
布置、而似非箚記日録之体何也、曰、吾嘗読諸賢之書、則後
先錯雑、彼此参伍、固不有一定、吾何不与人同也、然筆之、
則董子而諸葛武侯、而文中子以終于湯子、業使然也、故庶乎
安排布置、而非有意安排布置、然人不信而謂之安排布置、
又奚為箚記之累哉、論語第二十、歴挙堯舜湯武以結焉、孟子
七篇之終、亦歴挙堯舜至孔子之聖人以結焉、則余箚記不与
之期、而乃入其規矩、而適免於清儒張伯行性理正宗、挙堯
舜及伊洛諸君子等于首、置性理字義于腹、貶陸王于尾、杜
撰臆断之怪陋、則余之喜幸莫加焉、吾子少恕、
洗心洞主人識
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