Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.1.16

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大塩の乱関係論文集目次


「主義の人、大塩平八郎」

その7

山上智海

『法華外伝』田辺書店 1920 所収


◇禁転載◇

ルビは、適宜採用しています。


              こうそ  あざな  し き  大塩平八郎の名は後素、字は子起、通称が平八郎で、其号を中斎と  大塩平八郎が義兵を統率して市中に大運動を試みました際、押し立 てた旗印は、       其他、五三の桐の紋を打つた旗などでした。この桐の紋は彼れが今川 義元の後裔だからなです。中には、天照皇太神を中心として其左右に 春日大明神と八幡大菩薩とを配したものもあつたさうです。故に、            ・・・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・  紋所五三桐に三ツ引。天照皇太神宮、左右八幡大菩薩、春日大明神。  ・・・・・・・・・・・・  南無妙法蓮華経為諸人助之。右三品之旗を押立て――。(大阪騒動  聞書)            ・・・・・・・ ・・・・・・・・・・  建国寺にて勢を揃へ、題目を認め候旗。天照皇太神と認め候旗。其  外下に為諸人助之と認め候幟数本押出て――。(大阪一乱書取) 等の記事も見えます。  が別けても這般の義挙に七字の玄題を高標せしことに於て、彼れの                     義挙其者の徹底してゐた事が分りませう。恁くて彼れの義挙を尤も有                               かつ 意義に点睛し得たのであります。かるが故に吾人に共鳴せる某師も曾            て之に批判を加へて、彼の一世の豪傑なる大塩平八郎にして、彼の当 代の陽明学者たる大塩中斎にして、而も救民のため献身的義挙を企て、 自ら進んで死地を踏むに当り、法華七字の題目を以て軍旗とするに至 りては無意味でなく偶然ではなからうと信ずる。必然平素の信仰を托 する所なくして然るではなからうかと思ふ。一たび此点に着眼して仔 細に彼れを解剖し来る時は、彼れ大塩の処世経歴または其家風其学問 其主義の上よりも、既に久しく日蓮主義と相交渉をなして居るのみな                               らず、確乎として日蓮主義の信仰者であると思ふのである。即ち夫の 七字題目の軍旗こそは。彼れが明かに其信仰を標榜したるものではあ                      かうけい あた るまい歟――。とまで切言しで居ますが、真個肯綮に中れる懸案であ らうと思はれます。凡そ彼れが祖先伝来の慣習的信仰、父祖の遺伝的                  こと\゛/ 信念、その環境の家庭的信心、それは咸く法華経の色読より来り、日 蓮主義の体達より来てゐた事を証拠立てられます。「余人の法華経を                   こゝろ 読み候は口ばかり言葉ばかりは読めども意に読まず、意は読めども身 に読まず」。嗚呼大塩平八郎! 彼れも亦一代の偉丈夫たり大経綸家 たり大思想家たりしと共に、また一種熱烈なる当代の救世主だあつた                 るつぼ のです。彼れは陽明の無我観てふ坩堝に法華経の平等観を魂づけられ             ちかうがふ たものです。即ち陽明の知行合一説から出立して、つひに実大乗の事 観へ到達しやうとしたものでありませう。


「主義の人、大塩平八郎」目次/その6/その8

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