山上智海 『法華外伝』田辺書店 1920 所収
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六 こうそ あざな し き 大塩平八郎の名は後素、字は子起、通称が平八郎で、其号を中斎と 大塩平八郎が義兵を統率して市中に大運動を試みました際、押し立 てた旗印は、 其他、五三の桐の紋を打つた旗などでした。この桐の紋は彼れが今川 義元の後裔だからなです。中には、天照皇太神を中心として其左右に 春日大明神と八幡大菩薩とを配したものもあつたさうです。故に、 ・・・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・ 紋所五三桐に三ツ引。天照皇太神宮、左右八幡大菩薩、春日大明神。 ・・・・・・・・・・・・ 南無妙法蓮華経為諸人助之。右三品之旗を押立て――。(大阪騒動 聞書) ・・・・・・・ ・・・・・・・・・・ 建国寺にて勢を揃へ、題目を認め候旗。天照皇太神と認め候旗。其 外下に為諸人助之と認め候幟数本押出て――。(大阪一乱書取) 等の記事も見えます。 が別けても這般の義挙に七字の玄題を高標せしことに於て、彼れの か 義挙其者の徹底してゐた事が分りませう。恁くて彼れの義挙を尤も有 かつ 意義に点睛し得たのであります。かるが故に吾人に共鳴せる某師も曾 か て之に批判を加へて、彼の一世の豪傑なる大塩平八郎にして、彼の当 代の陽明学者たる大塩中斎にして、而も救民のため献身的義挙を企て、 自ら進んで死地を踏むに当り、法華七字の題目を以て軍旗とするに至 りては無意味でなく偶然ではなからうと信ずる。必然平素の信仰を托 する所なくして然るではなからうかと思ふ。一たび此点に着眼して仔 細に彼れを解剖し来る時は、彼れ大塩の処世経歴または其家風其学問 其主義の上よりも、既に久しく日蓮主義と相交渉をなして居るのみな そ らず、確乎として日蓮主義の信仰者であると思ふのである。即ち夫の 七字題目の軍旗こそは。彼れが明かに其信仰を標榜したるものではあ か かうけい あた るまい歟――。とまで切言しで居ますが、真個肯綮に中れる懸案であ らうと思はれます。凡そ彼れが祖先伝来の慣習的信仰、父祖の遺伝的 こと\゛/ 信念、その環境の家庭的信心、それは咸く法華経の色読より来り、日 蓮主義の体達より来てゐた事を証拠立てられます。「余人の法華経を こゝろ 読み候は口ばかり言葉ばかりは読めども意に読まず、意は読めども身 に読まず」。嗚呼大塩平八郎! 彼れも亦一代の偉丈夫たり大経綸家 たり大思想家たりしと共に、また一種熱烈なる当代の救世主だあつた るつぼ のです。彼れは陽明の無我観てふ坩堝に法華経の平等観を魂づけられ ちかうがふ たものです。即ち陽明の知行合一説から出立して、つひに実大乗の事 観へ到達しやうとしたものでありませう。
「大塩の乱関係論文集」目次