Я[大塩の乱 資料館]Я
2018.4.24

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「大塩の乱関係論文集」目次


「中斎の人格」
その1
山片平右衛門

『片つ端から−迷舟遺稿集−第1巻』山片重次 1931 所収

◇禁転載◇

 管理人註
 

  序、大正七年八月米騒動の事変あり。其年の盆に北野浜村の源光寺へ墓参し   た序に寺前の中斎の碑を訪うた。米騒動の原因よりも其事変に及びたる群集   心理の状態が往事を追懐したので此稿を草して見た。   予てより此墓が此所にあるを知つてゐても遂に訪ふ意が無かつたが此年ばか   りは唯何となく足が向ひて碑前に赴いたのである。                                  堀川   遠望すれば故人の跡なる天満当り、工場の黒煙が蒙々と立ち、近くに堀河監   獄の煉瓦塀が続いてある。数日の後に彼の所に収監される者あらんと想へば   妙な感想が浮んで釆たのである。 父の知人に今井克復と云ふ老人があつて、気品の高い温厚の君子で、父よりは二 十歳以上の年長であつたから、今も存命ならば九十幾歳の高齢だから最早故人に 為つてゐられるであらう。 束京の麹町に居た頃は御互に近所に住んで父とは共に大阪の出生であり、茶の湯 と楽譜の遊友達であつたから、双方から毎日の様に往来して色々の懐旧談に 耽けられてゐたので、傍で開いてゐた一節から此話を綴つて見た。此今井と云ふ 老人は大阪の天満で生れ大塩平八郎とは子供友達で、公職も同席であつたから大 塩のことは詳しく知つてゐられたので、宮内省から此老人を呼出し、色々と大塩 の事蹟を御聴取になつたこともある。 其御調べに大塩に勤王の志があつたならば贈位の御沙汰があつたかも知れぬが、 大塩には其んなことは無かつた様である。成程勤王論は大塩の時代位から熾んに なつたのであるが、主もに在野志士の唱へた説で、幕政に対する不平が一種の敵 本主義となつて現はれた傾向もあつて、詰りは此時代の政論である。大塩は代々 の公吏で、身司法の局に当つてゐたから自己の意志で多少なりとも時弊を革める ことの出来る立場にあつたので、理想よりも実行の方に心を委ねてゐたので、政 権の系統などの根本的問題に考へが到ら無かつたらしく、又其れ程の大人物でも 無かつたものと視える。 大塩は世間から大学者と言はれてゐたが、又其反対に当時の学者達からは学問が 浅いとも言はれてゐた。当時の学間とは頗る範囲の狭い経書の類に限られてあつ て、大塩は少年時代から其頃誰れも 踏むべき科程として四書五経の素読位は修めたのであるが、是と云ふ師には就か 無かつた。けれども沢山の書物には眼を透した様である。代々の町与力位で左様 大して学問の必要が無いが、然し好きなれば講書の閑は沢山にあつた。 当時大学者と言はれるだけの資格を備へるには、定まつた師に就て経書と詩文を 作る位のことを修めた上で、江戸に行つて本郷の聖堂に入塾せねばなら無かつた。 之れが所謂当時の大学校で、講師は悉皆幕選で、生徒は諸藩の儒生にて、授けら れたるものが孔孟詮が主眼である。 大塩は大阪で生れ他郷へ出たことが無く見聞は狭かつた。学問は今の言葉で云ふ ならば、学校を平凡に出た卒業生で無くて、独学で異つた頭を作つた俊才であつ た。詰りは学歴の形式が不備な代りに博覧と識見は凡儒に卓越してゐたのである。 孔孟の説は公認されてあるから実践すべき道義である。外道の書は思索上の産物 に止まるから研究すべき参考である。処で独学は準拠すべきものと、参照と為す べきものとの差別を指示する師を欠いてゐる上に、当時の修学には詩文の余技が 添うて科程に含まれてゐたから、心性の緩和を得たのであるが、大塩の勤学には 此種の趣味も欠けてゐた。又独学の常として同窓の交遊も乏しかつたので自説に 対する批判も少なく、其れ等のことが自然に人格を一本調子に為たので、識見が 卓越であつただけ其れ丈異説の排斥が峻烈であつたから、其性情も偏狭に傾くべ く出来てゐたので、之れが後年身を誤るの基となつたのである。


源光寺
現在の所在地
大阪市北区豊崎













今井克復は
天満組の惣年寄
「今井克復談話


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