Я[大塩の乱 資料館]Я
2018.4.25

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「大塩の乱関係論文集」目次


「中斎の人格」
その2
山片平右衛門

『片つ端から−迷舟遺稿集−第1巻』山片重次 1931 所収

◇禁転載◇

 管理人註
 

(1) 陽明学を修めた者は往々去就を誤つたから、年長の識者は少壮者を戒めた相であ る。けれども陽明説は論究よりも断行を必要と為るのであるから、穴勝ち粗暴の 説と眺むることは出来ぬ。若し之を難ずれば、充分の研究を尽さずして事を行ふ から軽挙に陥る危険があると云ふだけの点である。けれども之れは結果の上から 敗者を眺めた眼で、独学の渉猟で陽明説を選択した大塩は論究よりも実質を採つ たので、文筆を持つて立つ野人と異り、政務に携はる吏人として当然の着眼であ る。大塩事件は陽明説の崇りでも無ければ、大塩の野望でも無く、飢饉などの急 問題に論議などの閑は無いので唯目前のことで為し得ることを為さぬばならぬ。 大塩が救民の策を講じたのは当然のことにて其為めに悲惨の末路を見たのは、其 時代の事情が将に斯く成り行くべきことに成つてあつたのである。唯大塩の欠点 は余りに廉潔で、峻烈で、少しも融和の余裕が無かつたことであつた。 収賄の可否は常識で容易に出来ることであるが、時の小利害に迷ふから所決を誤 るのである。大塩が其排斥を公人の処世訓と為たのは当然である。けれども当時 の事情にて収賄は公吏が黙認されたる所得にて、之れありて吏人の生計を支へ、 之れありて官府の経費を軽減し得たのである。だから此時代に於て収賄は左して 非行で無く、唯之れを極度以上に貪ることゝ、収賄の為めに事を左右するが曲事 であつたのである。総じて熾烈なる意気と、忌憚なき決行は危機に際しては有効 であるが平素に於ては余り大業に過ぎて危険である。 天保の頃は幕末でも腐爛期で、壊廃期には多少の余地があつたので、此時代に峻 烈なる政務の執行は確に尚早であつた。若しか大塩が解放されたる野人であつた ならば其独学的修養は、之れに伴ふ放浪的交遊と見聞で世態人情の裏面を洞観し、 今一層識見を雄大周到たらしめ、卓論一世を驚したかも知れぬ。 危険思想と言へば、山陽の著述は時の主権を否認した大議論であるが、今の憶病 な検閲と違つて、当時の幕吏に注意の届かぬ学者的の仕事であつたゞけに後年の 大遺業を奏したのである。其山陽は唯一度中斎と会見して「将来身を誤る」と看 破したとの事実は去る人から聞いたのである。其時の中斎は名声隆々たるもので あつたが、大量の山陽の眼には子供の様な頑固で片意地な気儘者に視えたと想は れる。惜しいことには大塩は外へ出たことのない代々の公務を扱ふ吏人であつた 為め、大に研究して盛んに唱道するよりも小さく片つ端より実行する身分であつ たので、其人物が狭天地に限られて偏狭に失したのは気の毒である。 大塩は師こそ無けれ、弟子は沢山あつた。何れも大塩の卓見と人格に慕ひ集つた 連中で、後年の暴拳に大方師と運命を共に為てゐる。大塩は偏狭ではあつたが、 熾烈であつたので、己と志を同じくする者には熱血の誠意を注いで感化したのは 必然である。此頃の師弟関係は、科学や芸術の授受で無くて修徳の鍛錬であつた から、大塩の人格として師弟の闊係は将に斯くあるべき筈である。 其頃の訴訟は大へんに煩苛な手続きが要つて至難ものになつてゐた。何故かと言 へば事件の発生は役所でも費用が要り、役人達も忙がしくて困るので成る丈け事 の泣寝入りになる様に仕向けてあつた相だ。       ***********************  (1)陽明学で悲運に陥つた名士は山鹿素行、由井民部、山縣大貳、藤井右門、     大塩中斎斎、など著名である。





















































頼山陽との交際
幸田成友
『大塩平八郎』
その83
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その38


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