『黎明以前の群衆』民友社 1920 より ◇禁転載◇
天保の飢饉は天明のそれと共に、幕末に於ける二つの大きな災厄であつた、幕府が天下の民心を失ひ、大名小名の徒が領民に怨を含ましめ、やがて維新回天の大事を招くに至つたのは、少くとも此両期に於ける民治の無方針不徹底が原因の一つであつた事を否定する訳には行かぬ。
天保八年、大坂に於ける大塩の一揆は、天下の人心を驚倒せしめて、民衆の不平はこの衝撃を得て俄かに爆発した、至る処に一揆、強訴、越訴、焼討の惨事が出来、今まで堪へに堪へてゐた彼等の血汐は、磁場に踊る鉄片の如く、紛乱洶湧を極めたのである。
天保六年凶作、七年更に大凶、米価は極度に昇騰して、八年春には一両一斗八升となり、四年前の六斗二升に較べて莫大な相違となつた、此相違は直ちに人民の涙とも血汐ともなつた、彼等は隊をなし、烈を組んで日毎夜毎救済を乞ふた、民を士塊の如く心得たる官人は、この哀求に少しの同情もなかつた、同情がなかつたのみならず*大阪の在米の殆んど三分の一を江戸に送つて彼地の米高に備へた。
* 大阪の在米は当時どの位の高に上つてゐたかは不明であるが、市民は大根飯芋飯らよつて辛ふじて暮してゐた事から考へると可成り尠なかつたやうである、天保四年の米高には奉行矢部駿河守の英断で買占厳罸、大坂三郷よりの移出禁止、廻米の増加等によつて無事なるを得たが、七年の飢饉はそれ以上であつて、奉行跡部山城守の腕一つでは何うにもならなかつたらしい、勿論山城守とても移出の制限もやれば酒造石高を六分の一に制限し、諸侯の蔵屋敷に交渉して廻米の増加を計らぬではなかつた、しかしそれと共に一方には将軍旗下の米高を憂ひて、相当以上の米を川口から江戸に向けて数回移出した、これ丈けは何としても跡部の失政と云はねばならぬ。
京都あたりから五升一斗づゝ態々小買に大阪まで来ると、奉行は之を引つ捕へて罸した、欠乏は京も大阪も同一であつて、大坂の奉行としては恕すべき事かも知れぬが、それでは余りに非道が過ぎる。
大阪総年寄に命じて三郷囲穀を払ひ出さしめ、鴻池平野屋などの富豪を説いて救恤をさせたが、それはほんの九牛の一毛に過ぎなかった。
*大塩は養子格之助を以て奉行を説き、富豪の資力百貫につき一貫文の義捐をさせ、之を窮民に施さうとしたが、奉行跡部山城守は言下に刎ねつけて「平八郎は狂気したか」と罵つた。
* 大塩平八郎は、寛政五年大阪天満橋筋、長柄町の与力の家(二百石)に生れた、十五歳の時江戸に出て、林家の門に入つて修学したが、間もなく帰阪して与力御番方見習となつて東町奉行に勤仕し、文政十年には吟味役に進んだが、志あつて天保元年に職を辞した、平八郎は中斎と号し、また洗心洞主人とも云つて独力で陽明学を研究し、当時では殆ど第一人者と云つてもいゝ学徳を備へてゐた、古本大学刮目七冊、洗心洞剳記二冊等七部の著書があり、門人に日塾長だつた湯川幹を始め、林良斎、般若寺村忠兵衛、宇津木靖、瀬田済之助等すぐれた人がたくさんあつた、平八郎の一家は、妻ゆう(実は妾)、養子格之助(当主)、格之助の妾(許婚とも云ふ)みね、其子弓太郎、養女いく、之に平八郎を加へて六人、別に男女五人の雇人がゐた、事変中ゆう、みね、弓太郎、いく等は伊丹の知己紙屋幸五郎方に預けられたが、ゆうは後に遠島の刑に処せられた。