Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.5.22

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「大塩の変」
その1

山根真治郎(1884−1952)

『黎明以前の群衆』民友社 1920 より

◇禁転載◇

天保の飢饉は天明のそれと共に、幕末に於ける二つの大きな災厄であつた、幕府が天下の民心を失ひ、大名小名の徒が領民に怨を含ましめ、やがて維新回天の大事を招くに至つたのは、少くとも此両期に於ける民治の無方針不徹底が原因の一つであつた事を否定する訳には行かぬ。

天保八年、大坂に於ける大塩の一揆は、天下の人心を驚倒せしめて、民衆の不平はこの衝撃を得て俄かに爆発した、至る処に一揆、強訴、越訴、焼討の惨事が出来、今まで堪へに堪へてゐた彼等の血汐は、磁場に踊る鉄片の如く、紛乱洶湧を極めたのである。

天保六年凶作、七年更に大凶、米価は極度に昇騰して、八年春には一両一斗八升となり、四年前の六斗二升に較べて莫大な相違となつた、此相違は直ちに人民の涙とも血汐ともなつた、彼等は隊をなし、烈を組んで日毎夜毎救済を乞ふた、民を士塊の如く心得たる官人は、この哀求に少しの同情もなかつた、同情がなかつたのみならず*大阪の在米の殆んど三分の一を江戸に送つて彼地の米高に備へた。

京都あたりから五升一斗づゝ態々小買に大阪まで来ると、奉行は之を引つ捕へて罸した、欠乏は京も大阪も同一であつて、大坂の奉行としては恕すべき事かも知れぬが、それでは余りに非道が過ぎる。

大阪総年寄に命じて三郷囲穀を払ひ出さしめ、鴻池平野屋などの富豪を説いて救恤をさせたが、それはほんの九牛の一毛に過ぎなかった。

*大塩は養子格之助を以て奉行を説き、富豪の資力百貫につき一貫文の義捐をさせ、之を窮民に施さうとしたが、奉行跡部山城守は言下に刎ねつけて「平八郎は狂気したか」と罵つた。


「大塩の変」目次/その2

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ