その2
次で大塩は、鴻池その他の富豪を訪ふて救護費の貸出しを乞ふた、鴻池等は一旦引受けながら其期に及んで素気なく謝絶したので、救恤の計画もあたら水泡に帰した。
大塩は決心した。一身を犠牲にして俗吏の魂を奪ひ富豪の肝を寒からしめて、之によつて救済の徹底を思ひのまゝに試みやうとした、計画は七年九月に着手され、養子格之助先づ加はり、小泉淵次郎、瀬田済之助、渡辺良左衛門等相次いで徒党となつた、予て作られた一通の檄文に、それ/゛\署名血判して指揮進退すべて大塩の命に肯かうと云つたもの凡そ二十余名を数へた。
大阪には東西二つの奉行所がある、東は跡部山城守、西は矢部駿河守が奉行であつたが、矢部は八年初春更任して、堀伊賀守が新役となり二月二日着任した、新旧奉行はこの時同列で市中を巡検するのが一種の恒例なので、二人はその月十九日を以て天満方面を廻る事とし、天満与力朝岡助之丞方を休息所とする旨通達した。大塩は之を聞いて計画を進め、両奉行の朝岡方に入るを待つて一挙に仆し、之を機会に市中の富豪を襲ひ、官倉を破つて金穀を奪取し窮民を恤さうとしたのであつた。
先づ所蔵の書籍全部を売払つて六百二十五両を得、之を一口一朱づゝ約一万戸に救恤して済民の大義を布いた、跡部はこれさへ人を以て差止め「上を憚らざる処置」と云はしめたが、大塩は耳をも藉さず実行した、次で檄文を印刷し、大砲を作り、小銃兵器の聚集にかゝつた、火薬は養子格之助の丁打用(火術)と云つて去年の暮から邸内で製造してゐた。
いよ/\用意も整つた、大事を起すその日も来た、十八日の夜は大塩方に一同酒宴を開いて最後の杯をかはした、するとこの時、奉行跡部に裏切して一揆の用意を密告したものがある、それは平山助次郎である、後にこれは江戸下谷の酒井大和守に預けられ、次で世間の非難に堪へず自殺して了つた。
跡部は密告に驚いて、それとなく用意をした、城代土居大炊頭利勝(管理人註 土井大炊頭利位) を始め相役の奉行堀、或は加番の城方へも通報して加勢を求めた、一党中の小泉淵次郎、瀬田済之助の二人はこの夜泊り番であつたが、この騒ぎを知らず、翌十九日の朝、奉行の用部屋に出仕した処を不意に囲まれて、小泉は殺され、瀬田は斬りぬけて大塩方に急報した。