その4
大塩は同志十四人と共に淡路町から火中をくゞつて八軒家に出で、そこから小舟に乗つて淀川を上下し、時の移るを待つた、夜に入つて順次九人の同志を落し、大塩父子、済之助、良左衛門、義左衛門の五人は東横堀から上陸して河内路に逃げた。
五人の内義左衛門は奈良で捕はれ、済之助は河内高安郡恩地村の山中にかくれてゐる処を百姓勢に追ひ立てられて縊死し、良左衛門は同国志紀郡田井中村で割腹し、大塩がそれを介錯したが、力及ばず頸を半断して了つた、良左衛門はこゝで死んで、残るは大塩父子となつた。
二人は髪を剃つて法体に姿を変へ、大和河内路をさ迷ふた末、二月二十四日の夜更けに大阪油掛町(今の靭下通二丁目)の美吉屋五郎兵衛方を叩き起し、裏手の小間にかくれて時機を待つた。
五郎兵衛は手拭地の仕入職で、上下十人ほどの家内であつた、予て大塩方に出入してゐたので、見るに見兼て匿まつてゐる内、偶と下女の口から露見して、三月二十七日の暁方、捕方は大塩の隠室を包囲した。
大塩は先づ火薬に火を点じ、次で格之助の胸を刺して殺し、捕方の跳り入るを眺め乍ら咽喉を突いて火中に俄破と倒れた、平八郎四十五、格之助二十七歳であつた。
* 大塩の最期は悲壮であつたが、立派とは云へぬ、髪まで剃り落して 大和河地路を漂浪し、更に大阪に入つて三吉屋方の裏手に潜み、捕方に向はれて火中に自殺して果てたのは、武人として死期を誤つたものである、たとひ再挙の覚悟があつたにせよ、余りに生を偸んだやり方と云はねばならぬ、石田三成が面縛されつゝ「大将の心は汝等には判らぬ、生ある内は片時も再挙を忘れぬ」と云ひ放つたのは、三成には通用するが大塩には通用せぬ言葉である、ましてその最後に一葉の遺言さへなく、三吉屋夫婦の迷惑さへ心に掛けなかつた焦燥さは、義軍の主将として、余りに情け無い沙汰である、一代の軍略家として、又一代の奇傑として慶安の天下に鳴つた由比正雪は、謀破れて静岡の梅屋を囲まれた時、十名の党中を制して「斬つて出づべきでない、もし誤つて生捕られなば、末代までの恥ぞ」と誡めて、自ら服を改め小脇差をさし、太刀を家人に捧げしめ、座敷杖を携へて門際に進み、捕方の奉行等に応対した後、曳返して悠々*遺書を認め、物も見事に一同と共に割腹した、割腹し終るまで数百の捕方も、威勢に怖れて一指だも染め得なかつたのは、彼の余りに偉かつた為である、兵法家と学者とを混ずるは或は不当かも知れぬが、天下の大学者として大思想家として、将た又一代の義人として鳴つた大塩としては、いさゝか物足らぬ最期と云はねばならぬ。
* 由比正雪の遺書はこうである。 今度有讒奸之人、某企謀反之由達台聴之間、被下討手之段、至極仕畢。但以賤卑愚魯之身何為令乱破四代之天下事可叶哉、須図給不足蟷螂遮龍車之喩。雖然、天下之御政法無道而。上下令困窮、誰不悲之哉、然適以賢慮松平能登守為諫遁世之所、却而有狂人之沙汰、忠義之志空成、是可
謂不思議某雖不肖之身、所令困窮天下之奸人、為令遠流酒井讃岐守、企偽謀個人数令籠居、右之趣仮々令
言上其上者、任奉行所之差図定身之安否相謀之所、縡不成就而発覚滅亡畢。又私而、欲催人数、敢而一人不応其催促、依之、借紀伊頼宜卿之御名、而蒙御扶持之由披露、全
自誰人不受用一人之扶持、天之照覧無他者歟。申達之旨
雖繁多、時急之間申残之。恐惶謹言。
慶安四年辛卯七月二十六日
由比正雪