Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.5.24

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「大塩の変」

その3

山根真治郎(1884−1952)
『黎明以前の群衆 』民友社 1920 より

◇禁転載◇

思ひの外の手違ひに大塩は喫驚りした、それと直ぐに*出動の用意にかかつて五七の桐に二つ引の印のある大旗、天照皇太神宮、湯武両聖王、東照大権現と書いた旗二た流れ、救世(管理人註 「救民」が正しい)と書いた幟一本を押し立て、大 筒四挺を車に積んで加担の人夫に曳かせ、陣の先頭は大塩格之助、大井正一郎、庄司義左衛門、中堅は大塩平八郎、渡辺良左衛門、近藤梶五郎、般若寺村忠兵衛等凡そ二十人、殿りは瀬田済之助之に当つて先づ朝岡方を砲撃し、大塩方に放火し、朝五つ時、与力同心の町々を練つて北に進み、西に折れ、南下して天満橋に出ると、此処は既に跡部の人数が橋を落して固めたので、川を沿ふて西に進み、難波橋を渡つて、いよ/\目ざす北浜に入つた、人数凡そ三百人、道々町々に放火し盛んに掠奪した。

北浜では第一に鴻池一家が焼かれた、次で天王寺屋、平野屋、三井の店、富豪大尽と目ざゝるものは片つ端から焼打され、火は焔々と燃え拡がつて、全市今にも灰燼になるかと疑はれた。

在阪の官兵は総出となり、跡部堀の両奉行その先頭を指揮したが、堀は落馬し、兵士の多数は大砲の音に胆をつぶして進もうとはせぬ、まるで一揆の跡から跡からと行く形であつた。

第一回の衝突は、内平野町、第二回の衝突は淡路町であつた、寡勢の大塩方は総崩れになつて退却し、出火の困難に紛れ入つて散々バラ/\に落ちて了ひ、たゞ一人彦根浪人梅田源左衛門が大砲のそばに居て戦死した外、一人の踏み止るものもなかつた、一揆の常例しは云へ、これは余りに早いつぶれ方で、最後の態は義軍に似合はぬ卑怯さであつた。

官軍方の弱かつたのは、泰平に馴れて士気を失つてゐた故であるが、今一つは指揮の不徹底に加へて一揆方の若干人が東町奉行附の与力であつて、云はゞ同僚との戦であつた為めであらう。

火災は二十日の夜までつゞいて、全焼三千三百八十九戸、此外に無住の空店、倉庫、寺社の類も可成り沢山焼け落ちてゐる、変死傷死のもの十五人、官軍には一名の死傷もなかつたやうだ。


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