文政の末から天保の初めにかけて、凶年が打ち続き、天保七年には最も甚だしく、人民の困窮その極に達したので
遂に大阪の与力大塩平八郎は徒党を集めて乱を起した。平八郎は王陽明の学に通じ、頗る気節があり、時の大阪町奉
行跡部山城守良弼の百姓の困苦を顧みざるを憤つて官穀を出して之を救はんことを請ふたが、その聴くところとなら
ず、遂に貧民を救ふを名として兵を挙げたのである。然れども大事に至らずして鎮定ぜられた。
当時久しく泰平に慣れた社会に於ては、この暴動は実に青天の霹靂であつて、一時人心恟々たる有様にして、京都
も亦不穏を伝へられた。されば朝廷に於かせられては、当郷の士を召出されて、六門を固めさせられ、郷士三名づつ
を以て、凡そ四十日間宿衛せしめられた。
即ち郷中交代を以て日々動番し、総代比留田権藤太、土橋惣太郎、四手井新五兵衛、沢野井七左衛門、阿口源造、
吉井忠左衛門、中川安左衛門、中村源助等輪番を以て之を見廻り、非常を警戒した。