天保の頃、伊勢の津藩に塩田随斎といふ名高い詩人があつた。此の人の所蔵した
手紙類を自分が求め得た中に、西河庄三と云ふ人のが一本有つた。其の中に、「大
塩平八郎が其の著述の洗心洞箚記を富士山の石室に納めて、大阪に帰り掛けに此処
に立寄つた。私も初めて逢つた処が、毅然たる大丈夫である。」と書いてある。此
の西河といふ人は如何なる人か、自分はまだ知らないが、当時津藩の学者の一人で
あるらしい。斯ういふ人の目にも、大塩が初対面に与へた印象は、実に毅然たる大
丈夫と思はしめたことであつた。
洗心洞箚記は大塩の傑作である。古人が其の名著を名山に蔵めるといふ精神を以
て、彼は其の傑作を富士山の石室に納めたのであつた。洗心洞箚記の附録に、富士
山に登つた時のことが色々見えて居る。一昨年自分が登山した時に、此のことを思
出して調べて見たけれども、終に分らなかつた。
大塩が洗心洞箚記を富士山に納めたのは、之れを名山に蔵するの志で有つたが、
彼は其の著述を啻に名山に蔵する許りに止めずして、更に之を我が 皇室の租宗の
神霊に捧げるの志を有して居つた。彼は此の書を富士山上に留めて天地の霊に捧げ
て置いて、更らに伊勢国に行いて.朝熊山の頂に登つて之を焼いて、そして祖宗の
神霊に告白するといふ考であつた。其の積りで彼は富士山から下つて伊勢に行く間
に、津に立寄つたのであつた。そして彼の西河などにも面会したのであつた。彼は
由来頗る自信の強い人である。而して此の洗心洞箚記は、彼の気魄を籠めたもので
あつて、其の傑作たることを十分自認して居る。其の書を富士山に蔵め又これから
大廟に捧げるといふのであるから.此の一時は一層意気軒昂として居つたことが思
ひ遣られる。英姿楓爽といふも、旧臭いけれど、此時の大塩は先づ斯ういふ語に当
るべき人物風采であつたらうと思はれる。
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