Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.7.31

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎」

その2

横山健堂(1871−1943)

『人物研究と史論』金港堂書籍 1913より転載


◇禁転載◇

  (一)  つづき管理人註

大廟に参 拝せる平 八郎 朱子学の 大家の出 現を望む 覇気漲る 人物

 斯くて、大塩が大廟に参拝した時に、祠官に足代弘訓といふ学者が有つた。此の 人は大塩に忠告していふに、朝熊山に登つて此の本を焼いて、神明に奉告するとい ふのも敬の至りではあるが、寧ろ此の大廟の林崎文庫に奉納して、天下万世に伝へ る方が宜ろしからうといふことを勧めた。大塩も林崎文庫のことを段々聴いて、朝 熊山に登って本を焼くことを思ひ止まつて、洗心洞箚記一部を文庫に奉納した。此 の時平八郎は足代の案内に依つて十分に文庫を見せて貰った。而して彼は文庫に於 て一大発見をしたのである。此の林崎文庫は大廟に附属して居る文庫で、寧ろ神庫 ともいふべきものであつた。然るに.此の文庫の中に、陽明の文集は有るけれども、 朱子の文集は蔵めて無かつた。当時は幕府盛んに異学わ禁じて、朱子学を以て官学 とし、古学及び陽明学を異端外道として圧迫した時であつた。それにも拘らす、一 方に於ては、大廟の神庫に、朱子文集は無くして陽明全集の有るといふことは実に 面白い事実である。平八郎なるもの如何で此の事実を看過すべきや。彼は此の機会 を以て、自分の著述の外に古文大学を納め、更に朱子全集を奉納した。そして朱子 文集に自ら其の奉納したいはれを書いて居る。其の文章は中々面白い。殆ど彼の気 焔を面の当り聴くやうな感じがする。其の文の大体は斯うである。「神庫を見ると、 朱子文集は無いけれども陽明全集が有る。是れに由つて観ると、朱子学必ずしも神 慮に叶はず、而して陽明学必ずしも神明之を捨て給はすといふことが分かる。併し 乍ら、既に陽明の全集が有つて、そして朱子のが無いといふことは、甚だ遺憾なこ とである。故に私は茲に其の一本を奉納する。併せて祈る所は、近世朱子学には大 抵、大家といふものゝ出現を見ない故に茲に朱子文集の一本を献じて、近き未来に、 朱子学の大家の出づるあらんことを祈待する所以である。」と書いて居る。当時若 し朱子学者が見たならば、大塩の怪気焔とでも冷評したであらう。私も嘗て其の本 を見るに、実に墨痕淋漓として頗る雄渾の勢を現して居る。大塩の眼中、朱子学者 を空しうした気慨が十分に見えて居る。由来幕府の政策から見れば、是非朱子学を 取らなければならぬ。陽明学の如きは物騒なものとして避けなければならぬのであ つた。併し乍ら、大塩の言ふが如く、実に我が国の朱子学には、驚くべき大家は無 かつた。大塩が言い度い儘に怪気焔を吐きても、実に正面より能く之に対抗し得る 朱子学者が、当時更に見出されなかつた。学問真理の上に、官学私学といふ区別が 有るべき筈のもので無い。然るに朱子学は官学とせられて、平凡な朱子学者が時を 得、而して陽明学者、古学者は如何に独創の見に富んだものでも、異端魔道として 圧迫せられた。学者の不平不満は思ひ遣るだに余りありだ。大塩も固より這般の圧 迫せられた異端の学者であつた。彼が林崎文庫に行つて、朱子文集が無くして陽明 全集の有るのを見て、朱子文集を奉納するに託して、怪気焔を吐いた時に、彼れは 定めて溜飲を下げたことであらう。  大塩は覇気漲るが如き人物であつた。門閥の世の中には、悲しい哉、彼をして其 の才を伸ぶるに足るべき位地を与へることが、頗る困難なことであつた。彼をして 竟に一与力たるに終らしめた。其の欝勃たる志を施すに処を得せしめなかつた。彼 が天保八年の暴動を起したことは、時の人の評には一朝一夕の企ではないやうに言 振らして居る者もあるけれども、、自分はどうも其のやうにも思はれない。事実さ うではなかつたらうと思ふ。彼は覇気の横溢するが為に、予ねて朱子学者を罵り、 世の小人を攻撃し.姦邪を一掃せずんば已まざるの気力を示したが為に、守旧姑息 の人からは、如何にも物騒の人のやうに思はれて居つたからであつて、それが為に 騒動の後に、彼は前から暴動の予謀が有つたなどゝ、前後を、聯想して断定せられ たのであらうと自分は思ふ。自分の信ずる所に於ては、彼が誰にも初対面の印象は、 常に毅然たる大丈夫と思はれる人であつて、又実に、異に毅然たる大丈夫であつた。 其の暴動といふものも、一時の憤激に基づくものであつて、決して予謀したもので はなかつた。暴動の後にも大阪市中で彼を悪口する人が無かつた。彼は暴動したの にも拘らず、其の死後まで終に毅然たる大丈夫といふ評は空しくなかつた。藤田東 湖などの手紙には、「大塩は乱心した」と見えて居るが、先づ其の辺のところが真 相を得て居る評であらう。




石崎東国
『大塩平八郎伝』
その59大学
 

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