Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.8.9

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎」

その11

横山健堂(1871−1943)

『人物研究と史論』金港堂書籍 1913より転載


◇禁転載◇

  (九)管理人註

大塩と大 学頭との 関係 密書発見 の手続

 大塩は大阪の与力であるけれども、実に天下の人物であつた。彼と山陽との関係 の如きは、既に世上に著聞して居る事実である。最早此処に自分が喋々するまでも ない。大塩は常に天下の名士の人物論の的になつた人であつた。平八郎は屡々朱子 学に大家の無いことを云ったけれども、又一面に於て林大学頭と存外に密接な私関 係が有つたことは、意外なことである。佐藤一斎が嘗て大塩を評して、「物騒な人 物である」と言ふといふ説が残つて居るが、其の説の真偽は自分は保証しない。大 塩と大学頭との関係を、一番は知つて居たであらうか。  大塩と大学頭との関係は金銭問題である。大学頭は大塩から金を借りたことであ る。此の事に就いては、自分は広く外を取調べるべき機会を得ない。又更に之に関 して外に広く材料を知らないり唯だ坦菴の発見した密書の写しに拠つてお話するの である。それに拠ると、時の大学頭即ち宇と云つた人が、先年家政困難の時に、 江戸では一寸方便が附き兼ねたと見え、彼の執事が才覚して、大阪に行つて大塩を 頼んだ。大塩は侠気のある人物であるから、此の事を引受けて呉れるだらうといふ 見込を附けた。大塩は果して余儀無き依頼に応じた。−方は朱子学の家元であり、 一方は陽明学の泰斗である。学問の上に於いては、大塩は既に朱子学者を屑としな かつたけれども、大学頭の困難を救ふことは敢て拒まなかつた。快く引受けて莫大 な大金を自分の保証を以て、大阪に於て容易に調達した。此の義侠な態度に対して は、大学頭は非常な感謝を払つた。そして大学頭は、家に秘蔵の或物を贈つて聊か 謝意を表したことが有るらしい。何物を贈つたか、唯だ贈つたといふ手紙があるだ けで、其の物は竟に分らない。而して、大塩は、之に対して、私は何も報酬を要求 する考は無いけれども、大阪では十分、良書を得られぬので、かね\゛/残念に思 ふ。何卒紅葉山文庫の本を見る事が出来る様に、便宜御頼みしたいと答へた。それ から、其の金の返却方法は年賦になつて居つて、暴動当時に至るまで、漸く六分通 りを返済した丈けであつて、まだ悉皆償却になつて居らぬが、年々元利済し崩しの 書附は悉く備はつて居る。其の事に就いて始めからの行掛りに関して一通の書類、 及び勘定書きを取揃えて、之をお手許に送るといふことを書添へて、暴動前日即ち 二月十八日の日附を以て、平八郎は之を大学頭に向けて発送して居る。其の書類が 如何なる順序に依って如何いふ訳で.斯かる運命に遭つたのか、兎も角も函根三島 の間の藪に打捨てられて、坦菴の手に落つることになつたと見える。平八郎が暴動 前日に、此の貸借に関する書類一切を大学頭に発送した一事を以て推察すると、多 く言ふまでもないことである。彼は最初に之を引受けたと同じ精神を以て、大学頭 の名誉を重んじた態度である。暴動に決意したと同時に、一切の書類を彼に送つて、 此の関係を抹殺したのである。大学頭に安心せしめようとしたのであつた。此の如 く考へて来と斯かる大事の際に此の如き事をまでも処理し得たのは、平八郎の人物 の綽々として余裕が有り、中々義侠の精神に富んで居る処も見えて、天晴れ見上げ た人格のやうに受取られる。  偖、此の大塩一件の密書が、函根三島の間に於て発見されたことは、聊か考慮を 要する問題である。此れ等書類が暴動当時、西から東に行く途中に於て発見せられ たならば、大塩が之わ発送する途中に於て捨てられたものと、直ぐに判断せられる のであるが、此れは暴動当時より約二十日許り経て居つて、而かも東から西に向つ て送る途中に於て発見せられて居る。東から西に転送せられるといふことは少し考 へなければならぬ。これには、定めし、込み入つた事情が有るのであらう。自分が 思ふのに、此れは始め大塩が此の書類を東湖に送つた時に、まだ書類が老中連名及 び水戸などゝいふ歴々の方へ差出す前に、或は差出さんとした頃に、暴動のことが 聞えて、それが大塩の手紙あるからして、差出されずに握潰しになつて居たもので あらう。而して、其の中に、畢竟、投出す機会を失つて、困まつたのであらう。併 しながら、扱つた人から見ても、何時までも之を手元に置くことは益々不安を増す やうな道理であるから、有耶無耶の裏に之を発送元の大阪の方へ送り還さうと試み たのではあるまいか、さうしてそれが何かの機会で、大塩の書類を運ぶことが飛脚 に分つたものか。或は又飛脚に依つて、始めから企てられたことであるか、例へば、 封入の金でも奪ふ積りで、開きて見て、当てが外れて、途中に於て大塩一件だけの 書類を抜いて棄てたのではあるまいか。此の如く想像することも.随分事実に於て 有りさうに思はれることでもあるけれども、又確かにそれとも定め兼ねる問題であ る。唯だ此の途中に投棄てられたといふ一点だけは、或は是れは偶然其の外のもの ハと共に、飛脚に依つて抜取られたものであつて、抜取つて見た処が、中に大塩の 書類が有るから、其の大塩の書類だけを棄てゝ、それでないものを持つて、彼の飛 脚清蔵が逃げたものと考へることも出来る。併しながら、是れは抜棄てられたゞけ の一点のことである。大体西から東に行くべき筈の此の密書が、東から西へ運ばれ つゝあつたといふことは、自分の前に申述べた通り、兎に角初め大阪から江戸に送 られて、更に西に送り還されつゝあつた道行きと想像せざるを得ないのである。

   
 

「大塩平八郎」目次/その10

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