Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.8.8

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎」

その10

横山健堂(1871−1943)

『人物研究と史論』金港堂書籍 1913より転載


◇禁転載◇

  (八)管理人註

大塩の江 川坦菴及 び烈公東 湖 老中宛の 平八郎書 状

 此れからお話するのは、暴動後の大塩に就いて、江川坦菴、斎藤弥九郎、及び水 戸烈公、藤田東湖君臣との往復関係である。是は、頗る趣味の有る話であるのみな らず、若し、其の事が、十分能く闡明せられたならば、大塩の暴動の真相も分明し、 彼の人格、事業にも、一廉の説明を与へ得るほどのもので、而して、是れ迄、全く 世の中に知られ無かつた事である。  東海道函根宿の三度飛脚の取附宿与惣兵衛方から継立てたる、江戸の飛脚問屋山 田屋八左衛門方の采領定五郎の荷物の内抜き書状を小田原宿から三島の宿へ継立て たる処、三島へ相届かずといふことを、代官江川の方へ申立てたるに附き、処ろ \゛/尋ねたれば、函根と三島の間に塚原新田の林の中に右の上包が切解いて、書 状其の他品々切散らしてある。其の中に大塩から御老中から御老中宛にて、白木の 箱の一つ有るといふことを.三島の宿の役人から申出でた。依つて坦菴は早速手代 を差出して吟味させたる処、右の品の外に平八郎から水戸殿用人宛の書面一封、其 の外御老中連名の書状等、何れも雨露に打たれ封じ目も剥がれて居つた。それから 右の人足清蔵といふものが召捕られて吟味中である。右の書状を調べて見ると.何 か容易ならぬことが書いてあるに依つて、坦菴の手に於て密に之を写させて、幕閣 に差出すと同時に、斎藤弥九郎をして藤田東湖に内々通じ、右の水戸殿宛の書面を、 景山公の内覧に入れやうかといふことを尋ねさせた。此の書面が函板から三島の間 に紛失した日は、何日頃か分らないが、坦菴から東湖の方へ手紙を遣つたのは、三 月十四日であつた。此の老中連名宛の書面及び水戸殿宛の書面は、両方共に其の本 文が今日に於ても終に分らない。又江川家にも其の写しといふものは存して居らぬ やうである。若し、此の事が分明するならば、大塩事件に取つては、史上の一大光 明である。併しながら察する処、大塩が御老中及び景山公に宛てゝ、饑饉の為め、 人民救助に就いての意見及び当時の弊政一般を論じた意見書であらうと思ふ。是れ は自分の想像である。而して坦菴の手紙に対して、東湖は「自分は水戸の小吏であ つて、一存では御返事致し難いが、主人も大塩の暴動に就いては、非常に切歯憤怒 して居られる有様であるから、其の書面の写しをお廻し下されても.迚も読むまい かと思はれる。何れ其の筋へお申立てに相成つたる上は、主人は其の筋からのお廻 しもあつたらば、一覧致すであらうから、此の際御内々お廻しになつても、其の儀 如何であらうか.御挨拶は申し兼ねる。」と答へた。此の際東湖の返事は流石にう まいものであると思ふ。かくなければならぬ処である。坦菴は予ねて水戸君臣とは 知遇の間柄であるから、容易ならぬ事件であるに依つて、水戸殿の便宜の為に、 内々、此れ程のことを東湖に相談したのであらうし、又た東湖に於ては、此の際、 幕府の嫌疑を避けなければならぬに依て、此の如き返事をしたのであらうし、両方 共に其の往復は、却々志の籠つたものである。右の如き具合であつて、其のことは、 其の儘になつてそれから後のことは能く分らないが、終に坦奄から書面は内々で送 らない。又幕閣からも.それを到頭水戸へは廻して見せなつたものと思はれる。 やがて八九ケ月も経つて、其の年の暮十二月に至つて、景山公君臣に於ては、頻り に右の書面を見たくなつて来た。それで、其の書面を見たいといふことを、此の度 は、反対に藤田の方から斎藤弥九郎の手を経て、江川に申込んだ所が、此の頃に至 つては、大塩一件は余り評判しないやうといふ幕閣からの御沙汰もあつて、今度此 の書面を出すことは、公儀を障る憚る勢ひになつた。それで、前と反対に江川の方 から、此の書面を内々差出すといふことは、非常な困難であるといふことを、東湖 に答へた。尚ほ水戸殿内々太郎左衛門にお逢ひなされるやうなことが有るならば、 お話の次手に御沙汰もあらば、御覧に入れることもあらうといふことを.併せ答へ て置いた。それに就いて、東湖の返事には、「去年以来不作に就いて、諸事、緊縮 を専らとして居るので水戸殿は新たに交際を広められることは、お断りになつて居 る。川路左衛門尉、羽倉外記にも早くから、逢ひたいといふことを考へて居るけれ ども、まだ以て逢ふ訳にいかないやうな始末であるから、折を看て江川、川路、羽 倉三人に主人が速かに面会をされるやうに取計らいたいと考へる。故に江川殿から 表向き自分に宛てゝ、右の書面を差出すことは追追六ケ敷なつたといふことを、申 越して貰つたならばそれに依つて自分は主人を促して、直き\゛/御面会をさせて お頼みをさせるやうにしたいものである。」といふやうに答へた。其の意を領して、 八月廿三日の日附を以て、坦菴から東湖に宛てゝ、大塩一件の書類は内内差出すこ とが困難であることを申し通じ、それに対して、又廿五日に東湖から返事が有った。 而して此の事は遂に成就せずして、坦菴が発見したる大塩一件の密書をば、烈公は 竟に見ることを得る機会を得なかつた。東湖の坦菴に与へた文章の中にも、「浪華 のこと甚だ容易ならず、且は去手秋甲州の事も今以て相分らす、偖て偖て天上の事 はも地下人には呑込め兼ね申候。」とある。去年甲州の一揆と云ひ、今春大塩の暴 動と云ひ、暴動のことは余り評判しないやうといふ幕閣の達しも有るやうなことで 、幕閣は何事も此れ等不祥の事件をば、世上に不明々々で、不明の一点張の裏に葬 り終つた。大塩一件の密書も、遂に不明に捲添えせられて終つたのである。如何な ることが書いて有つたか、委しいことは今日に於て、つい到底分らない。   自分の調べた処では、坦菴の手紙には見えて居らぬけれども、此の時坦菴が発見 した大塩の密書の中には、まだ外に一つ面白い書類が有つた。それは、大塩と林大 学頭との関係である。其の事は専ら大学頭の家事に許り関することである。坦菴に 於ては、人の家の密書々発くに当り、随つて其の興廃存亡にも関する事であるから、 此の事許りは東湖への手紙の内にも書添えなかつたことゝ思ふ。坦菴の文庫中に、 大塩と林大学頭との書類一件の秘密書類一束が有る。此れは定めて右の函根三島間 に取捨てた書類と一緒に、発見されたものに相違ない。それは、其の内容に依つて 断言することが出来る。

   
 

「大塩平八郎」目次/その9/その11

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ