80歳にして25歳の若さ
(前略)

ここまで書いてきて、私は80歳の高齢を迎えたひとりの友人(婦人)のことが心に浮かんでくるのである。ある人は、否たいていの人はこの婦人を老婦人と呼ぶのである。 --- が特にその誕生の日から数えて過ぎ去り閲(けみ)しきたった年月の数によって、そのひとの年齢を数えるならば、彼女はたしかに老人に相違ないのであるが --- この友だちを老人だと呼ぶことは全く黒を白と呼ぶようなものである。

彼女は25歳の娘とくらべて別に若さにおいて遜色がないのである。そしてまことに愉快なことであるが、また見方によれば悲しむべきことであるが、実際25歳の娘の方がかえってふけて見えるくらいである。彼女はあらゆる人のうち、そしてあらゆる事物のうちにただ「善」のみを求め、いたるところに「善」のみを見出すのである。

性格の明るさ、声の明るさは、今も全く娘時代と異ならないで、それがすべての人々に美しき魅力となってあらゆる人間を彼女に引き寄せる --- これが彼女の生涯を特徴づけるものであった。その生活の特徴が年がら年中、数百数千の人々に明るさと、希望と勇気と力とを与えることになるのであった。それは将来も続くであろうし、たしかに今後なお長い歳月にわたって、この素晴らしい状態が続くものだと考えられるのである。

恐怖なく、不安なく、憎しみなく、嫉妬なく、悲しみなく、嘆きなく、不相応な富を求めて執着する悩みもなく、これらの悪感情は、彼女の心の領域に忍び込む余地がないのである。その結果、彼女の心は想念感情のこの種の異常な緊張にわずらわされることなく、したがってそのような想念感情が肉体に具象化されて、種々の病気などとなってあらわれることもないのである。

これに反して人類の大多数は、その無知の結果、人間の老い病むのは自然であり、老い病むのは事物の永遠の秩序に一致しているのであるから、自分もまた老い且つ病まねばならぬなどと考えて、老衰や病気を自分の生活の足元に引きずり歩いているのである。

彼女の生活は有為転変の生涯のひとつであったから、もし彼女が無知であったならば、これらの良からぬものは彼女の心の領域に容易に忍び入ったに相違ないのである。然るにこれに反して、彼女は少なくともひとつの王国 --- すなわち「心の王国」においては --- 彼女はその支配者であり、その王国に何を忍び入らせてもよいか何を忍び入らせては悪いかということを選ぶ権利があるということを認めるだけの聡明さを持っていたのである。そしてまた彼女は、それを選ぶ権利を行使することによって、自分の人生に何が起こるかを決定することができるのだということを知っていたのである。

彼女が行くところ、いずこにてもあれ、彼女の明るい性格、青年のような若々しい歩調、その愉快な笑い声に触れることができるのであって、それに触れることは楽しいことであると同時に私たちにとってインスピレーションの源泉ともなるのである。まことにシェイクスピアが「肉体を豊かならしめるものは心なり」と書いたとき、彼はその言葉の意味を知っていたに相違ないのである。

私はごく最近、彼女が街をあるいてゆくのに出会って、よそながら彼女の様子を観察して、まことにうれしい感じに打たれたものである。彼女は道ばたで遊んでいる子どもに近づいていって、ちょって立ち止まって一、二語交えて子どもの生活の仲間入りをするかと思うと、急ぎ足で着物をたくし上げて仕事をしている洗濯女のところへ行って、彼女にやさしい言葉を投げかける。弁当箱を手にして仕事場から帰ってきている労働者に愛情のある言葉を交わす。と思うと、乗り物でそこを通る婦人に対して丁重なあいさつの受け答えをしている。このようにして彼女は接触するすべての人々に、自分の豊かな生活から何らかのものを分かち与えようとしているのであった。

それから、まことにその時は好都合で、なおしばらくの間、私は彼女を観察することができたのであるが、そこにまた別の老婦人が通りかかったのである。この婦人は彼女よりは10歳か15歳ほどは年齢は若いに違いないのであるが、それにもかかわらず、まことに老人老人していて、腰が曲がり、関節や筋肉が硬化している兆候があきらかに見えていた。だんまりムッツリした表情には、暗い悲しみの情が漂うていた。その暗い表情は、黒い陰気な頭の「かぶりもの」とそれにつながる深い重いヴェールとで数層倍暗い感じがしてなお一層陰気な印象を与えていた。彼女の衣服全体が同じように暗い性質のものであった。この異国的風俗の残骸ともいうべき装束に加うるに、彼女自身の気風およびその態度表情などが一緒になって、彼女は自分がつねに心の中で反芻している悲しみと嘆きを、そして、事物が永遠の善に向かって進行しつつあるということに対する信仰のなさを、神の愛と不滅の善に対する信仰の欠乏を、世間に向かって間断なく告白しつつあるのであった。

彼女は自分の病弱と、悲しみと、嘆きとの暗い思いばかりにスッカリ包まれてしまっているために、なんらの喜びも、希望も、勇気も、自分に触れ合う人々に与えることも、受けることもできないのであった。しかし、その反対に彼女は、私たち共通の人間生活にあまりにも行きわたっている暗い精神状態をすべての人々に暗示し、多くの人々にその暗さを増強する助けをなしているのである。

この老いたる彼女が、先に述べた永遠に若き友だちとすれちがったときに、彼女の頭がちょっとふり返ったのを私は見た。その表情には --- あなたの服装と動作は全然あなたの年頃の婦人とは見えませんね --- というような思いがあらわれていたのである。

神に感謝すべきかな、年に似合わず永遠の若さをこの友だちが保っていることを私は神に感謝します。そして神よ、こい願わくは、あなたの善と愛において、この同じような稀有なるタイプの友だちを、私たちの世界に無数に送り給わんことを、そして彼らが、人類を祝福するために一千年の長寿を得て、これらの人々の感化を必要とする私たちの周囲にいる無数の人々に、これらの人々の忠実なる生活から来る賦活的影響をもたらし給わんことを。

あなたは常に若さを保ちたいと願われますか。あなたは中年以後の生活に青年の元気はつらつたる歓喜をたずさえて生きようと欲せられますか? ではこれだけは注意なさいませ --- いかに想念の世界においてあなたが生きるかということです。これがすべてを決定するのです。「心がいっさいである。心で思うところのものに汝はなるのである」と仰せられたのは神啓を受けた先達なる仏陀・釈尊である。

「汝自身を快き想念の住む巣たらしめよ」と言ったラスキンは同様の心理を心の中に描いていたのである。私たちは、少年時代から誰も教えられたことがないから、想念がどんな不幸にも対抗し得る安全保障であり、どんな華麗な宮殿が美しい想念によってつくりうるかということを誰もまだ知らないのである。

また、あなたは、あなたの肉体のうちに、若かりしころの柔軟性と力と美とのあらゆる善さを保ちたいとのぞまれますか? では、このように生きなさい。あなたの心に中に、清からぬ想念の住み込む余地をなからしめることです。さすればその清らかな、想念が、あなたの肉体において具象化するのである。あなたが想念の世界において、あなたが若さを保っている程度にしたがって、肉体にも若さが保たれるのである。そして心の若さで得られた肉体の若さは、さらに反転してあなたの心の若さを保つ助けとなり、心が肉体を築きあげるごとく、また肉体は心を築き上げる助けをなすのである。

(後略)

『無限者との協調』 ラルフ・ウォルドー・トライン 1896年 谷口雅春訳


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