享保十七年
の蝗害
御定相場
京都及び大
津の米相場
所
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今迄幕府は米価の安いのに苦しんだのですが、享保十七年には
西国・中国・四国方面が未曾有の蝗害で、同年九月には百三十目
乃至百五十目に騰貴した。今度は幕府は米直段の引下に尽力しな
ければならぬ羽目に陥つた。江戸の買上米、大阪の囲米、本年の
摂津・河内・近江・美濃等の年貢米、京畿地方諸藩の用米を続々
是等の蝗害地へ輸送して払下げた。合計二十五万石といふ。それ
から蝗害地の諸大名に貸付けた金額は二十五軒で三十四万両に上
つた。大阪や京都にも、米価高値のため窮民が多いので、米の廉
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売を行ひ、また一方には救貧のために土木を起した。難波入堀川
といつて難波村の米蔵から道頓堀に通ずる運河があるが、これは
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その時に掘られたもので、異名を極貧堀といふ。
享保十八年から十九年にかけては未曾有の豊作で、幕府は今度
はまた米価の釣上に苦心し、到頭享保二十年の十月に米相場の公
定といふことを創めた。江戸は金一両につき一石四斗以上、大阪
は一石四十二匁以上に買請けよ、若し定価以下にて買受けるもの
があれば、一石につき十匁の運上銀を取るとの規定です。然るに
米商人から陳情が出た。米には上・中・下・下々の差等がある、
若し御定相場が上米であるならば、中米以下は勿論それより安い
筈で、その度毎に十匁を取られては困るといふので、幕府は俄に
下米は金一両につき一石五斗以上、一石につき三十九匁以上とし、
中米は上米下米の直段の中間を以て定めよといつて居る。この相
場は十二月・翌年一月・三月と三回改正し、又蔵米の等級を上・
中・下の三つに区別してゐるが、元来が無理な規定であるから、
六月から廃止になつてしまつた。堂島仲買から差出した御定相場
廃止の歎願書はよくその事情をあらはしてゐます。
第三回の米仲買が享保二十年に許されてゐるのも、同年京都や
大津の米相場所に御用米会所の名称が許されて居るのも、いづれ
も米価引上の趣旨に基くものと考へられる。京都の米会所は六條
河原新家地にあつて、これは大したものではなく、大阪と大津の
米相場を移すだけであるが、大津の方は琵琶湖といふ一つの交通
路を控へて居るから仲々盛んで、蔵屋敷が三十六ケ所もあつた。
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この外問屋が七十四株、小売屋が三百二十九株、荷売屋が百有余
株もあつて、以上の蔵屋敷の米と京都二條の御蔵の払米とを買入
れて京都市中の需要を供給したといふ。会所はその頃浜町通坂本
町にあつて、正米延商の両方をやり、年行司があつて取締つた。
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