此時に大阪は大変焼けました、二月の十九日から焼けて其統計を見ます
と.町数が百二十四町、家の数が三千三百八十九軒、明家が千三百六軒、
それから土蔵、納屋、神社、仏閣、道場等が大変焼けた。さうして今日
と違つて不完全な橋でありますから、多くの橋が落ちた、天神橋、高麗
橋、よしや橋、今橋、平野橋、此五箇所の橋が落ちて、さうして御救米
が三箇所に立つたけれども、到頭大塩の快挙と云ふものは、志を達せず
して、あんなことになつたのであります。
アレハ匪徒であると申しますけれども、あの人の精神は決して匪徒でな
い、あの人の書物を見ますると、尊王愛民、熊沢蕃山と同じ精神が現は
れて居ります。洗心洞剳記を富士山に納め、又伊勢へ献納して自分の赤
誠を披瀝して居る。感心な人であります、殊に騒動をしました時にどう
云ふ精神だと申しますと、第一京都の御方が御困りになつて居るではな
いか、人民の窮を救ふばかりではないと、斯う云ふやうな精神に出て居
るのであります。即ちあの時の記録によると。
京畿の飢饉甚し、九重の奥、今何の状ぞ、畏れ多し、世にも民にも
代へ難き、一天万衆の御一人を如何かする
斯う云ふこどが書いてあつて、世にも民にも代へ難い、一天万衆の天子
が、饑饉のために御悩みになつて居る、畏多い話だ、それを口実を藉て
グズ/\して居るは、何ういふ精神か、又従て「陛下の赤子なる民衆の
飢餓を如何する」とかいふ事が書いてある。之を読んで私は転が溢れた、
之が即ち尊皇愛民であります。
もう一つ面白いことをお話しますと、斯う云ふことがあります。今日の
時代には、外国から米が来ますし、斯う云ふやうな世の中になつて居り
ますから、凶年だとて、高いのが承知ならば、金を持ちつゝ餓死するや
うなことはない、所が昔は日本だけでやつて居つたのでありますから、
凶年が続くし、餓道に踵く、そして金を出しても、米がないから、死
人が多い、併し沢山の金のある者は、兎に角、金の力で一時どうなり斯
うなり出来る、それで少し金のある者は、貧民に粥などを炊いて、時間
をきめて之を施す、私の家などでも天保の饑饉の時には竈を二三箇所に
据へて貧民を救つたと云ふことを母から聞いて居りますが、今日では、
金があれば食ふに困らぬが、其当時は、日本は鎖国でありますから、如
何に金があつても食ふものがない、夫故に、社会民衆を救ふには、実に
非常の果断を要したのであります、所謂義の為に尽さなければならぬの
でありました、
加之、米が欠乏するので、成るべく米を多く食はぬやうにとて、江戸で
オハチ
斯う云ふことがあつた。それは飯櫃検め、兜改めでない、飯櫃改め、斯
う云ふことが書いてある。どう云ふことかかと云ふと、米が払底に付き、
○ ○
江戸の町々へ触れ、飯にカラを加へ食すべき由を命ず云々、然るに、江
戸の風俗は痩我慢が強いから、中々之を実行せず、何だ箆棒め、といふ
風で、米の飯をドシ/\食ふ、そこで町奉行より家主共に下知し、町内
の役人、毎日借屋を廻りて飯櫃を改めた、これが即ち「お鉢改め」であ
カ ラ
ります、即ち貴様の所は米の中へ豆滓を入れて居るであらうなど云ふの
で、一々飯櫃改め、入れて居ないと直ちに拘引、オカラを入れて居らぬ
で拘引、実にツマラヌ話ではあるが、時世時節で仕方がない、此位まで
の饑饉であつた、
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