Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.11.26修正
2001.1.7

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 に 時 を 超 え た 共 感」

相蘇 一弘

『日本経済新聞』(1997.10.17夕刊) より


◇禁転載◇

<Next関西>欄 掲載

大塩に時を超えた共感

   救民叫び決起 乱から160年
    重なる現代の腐敗 非業の死、英雄伝説を演出


 今年は天保の飢饉に大阪で起きた大塩の乱から百六十年。救民を叫び、非業の死をとげた大塩に対する当時の高い人気は、腐敗が絶えない現代の世相にも通じている。一ヵ月余も逃亡し自決した、大塩の最期と、現代に続く人気の秘密を探ってみた。


  逃亡劇一ヵ月余

 大塩が救民旗を掲げて決起したのは天保八年(一八三七)二月十九日。乱はその日のうちに鎮圧され、厳重な捜査網が敷かれた。「年齢四十五〜四十六歳。面長で色白。目は切れ長、眉(まゆ)は細く濃く、額が開き月代(さかやき)が薄い。中肉中背。鼻と耳は普通」というのが大塩の人相書きだ。

 「弁舌爽やかで鋭い。鍬(くわ)形付きの兜(かぶと)と黒の陣羽織を着用」ともあるが、兜をかぶり陣羽織姿で遊説しながら逃げるはずもない。大塩には銀百枚(約二千万円)の懸賞金もかけられた。

 大塩は大胆にも大阪市中に潜伏していた。靭油掛町(現西区靭本町一丁目)で手ぬぐい地仕入れ業を営む美吉屋に養子、格之助と共にいたのだ。美吉屋は大塩家と縁があり、古くから同家に出入りしていた。潜伏が発覚したのは美吉屋に住み込みで働く女が「このごろ不思議にコメが減る」と話したのがきっかけだった。

 三月二十七日の朝、捕り方が美吉屋に踏み込んだ。これまでと観念した大塩は部屋に火をかけ、脇指(わきざし)で喉(のど)を突き、それを引き抜いて捕り方に投げつけ、壮絶な死を遂げた。火の回りが早く召捕方はどうすることもできなかった。やがて焼け跡から二つの焼死体が引き出され、大塩父子であることが確認された。

  密告などできぬ

 美吉屋によると、二人が現れたのは事件から五日後の二月二十四日の夜。表をたたく者があり戸を開けるとねずみ色のかっぱに脇指姿の僧りょが二人、あいさつもなく足早に奥の間へ通った。これが大塩だった。当分かくまってくれ、不承知なら火を放ち焼き殺すと脅され、仕方なく居宅と庭を隔てた離れ座敷にかくまうことになったのだという。

 大塩は挙兵当日の夕方、混乱に紛れて小舟で大川を上下しながら暗くなるのを待ち、それから格之助と同心の渡辺良左衛門の三人で奈良に向かったと語った。途中頭をそって僧りょに変装し、昼夜の別なく間道を歩くうち、渡辺は疲れて自決。奈良は警戒が厳重だったので再び道を変えて生駒山中を歩き大坂に戻ったのだという。

 乱の後、大塩をうらむ者もいたが、市中での人気は高かった。藤田東湖の「浪華騒擾紀事」によれば、極端な場合は家を焼かれた者まで大塩様と尊び、「懸賞の銀百枚が千枚になっても大塩さんを密告できるものか」という者もいたという。

 英雄には不死伝説がつきものだが、死んだのは替え玉で大塩は外国に脱出したという熱狂的なファンもいた。大阪市天王寺区にある龍淵寺の秋篠昭足(明治十年=一八七七年、八十四歳で死亡)の墓碑には「乱に加わって大塩父子ほか五人と天草島(長崎県)に潜んだ後、清国に逃れた。のち大塩父子はヨーロッパに渡った」と刻まれている。文章は娘婿が作ったものだが、明治三十二年(一八九九年)の「史談会速記録」には娘の談話も載っており、家族ぐるみ本気で信じていたらしい。現代にもなお「大塩は逃げ通して結婚し、その子孫が私」と信じる人もいる。

  記念碑を建設

 大塩は腐敗した政治を批判し、徳川の治世を立て直すために挙兵したのだが、民衆は大塩の意図とは関係なく「救民旗を掲げて幕府に立ち向かい非業の最期を遂げた」という事実を評価し、彼を英雄に祭りあげたのだった。

 民衆は大塩を日ごろ自分が不満に思うことを代弁してくれた人物、かつ自分ならばとうていできそうもないことを大胆にも行動に起こした人物として魅力を感じ、尊敬と共感の念を抱いたのだ。それには悲劇的な死という舞台装置が必要だった。

 大塩の乱を研究する「大塩事件研究会」(酒井一会長)は、大塩終えんの地に記念碑を建設、九月二十七日除幕式を開いた。全国から三百万円を超える寄付金が寄せられ、当日は二百人が参加した。

 大塩はなぜ現代人の心をとらえたのだろう。多くの人々は政治家、官僚、財界の癒着による汚職の絶えない現代の世相を大塩の生きた時代と重ねあわせて見る。そして大塩の行動を思うとき改めて胸のすく爽快(そうかい)感と畏敬(いけい)の念を感じるのではないだろうか。

     大阪市立博物館館長 相蘇 一弘


  Copyright by Kazuhiro Aiso  相蘇一弘 reserved


・藤田東湖「浪華騒擾記事
・「大塩平八郎終焉の地碑」碑文
終焉の地碑


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