Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.3.30

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩の乱と大阪天満宮」
その4

相蘇 一弘

『大阪天満宮史の研究 第2集』
(大阪天満宮史料室編 思文閣出版 1993) より


◇禁転載◇


    三、 大阪天満宮の被害と再建への動き

 大塩の乱による火災について幸田成友『大塩平八郎』(28)は「火は次第に東に延焼し(中略)二十日夜五ツ半時過を以て鎮火した。」(「五ツ半時」は午後九時)とし、岡本良一『大塩平八郎』(29)も「翌二十日夜九時すぎにようやく鎮火する、まれにみる大火となった」と記している。このように一般には大塩の乱による火災が鎮火した日時は二十日午後九時過ぎとされているが、史料的には『塩賊騒乱記』に「廿日成ても未鎮火せす、風変りて西より北へ焼戻り御城へも余煙吹覆ふ」、「昨廿日申刻頃迄鎮火無之」(「申刻」は午後四時頃)、『奸賊聞集記』二(30)に「翌廿日戌中刻火鎮」(「戌中刻」は午後九時)などとあって通説やそれに近いものから、「翌廿一日寅ノ刻火しづまる」(31)(「寅ノ刻」は午前四時)、「ようやく十九廿日夜とうし黒けぶりにして、廿一日朝五ツ時火鎮りけり」(32)(「朝五ツ時」は午前八時)、「漸廿一日朝下火計り相成、先々慎火之事」(33)など二十一日の朝とするものも多く、よくわからない。ところが、「役所日記」二月二十日条には「今七ツ時・火納ル、則朝五ツ時主人焼地へ御見廻り、九ツ時御旅所へ御帰り也」(「七ツ時」は午前四時、「朝五ツ時」は午前八時、「九ツ時」は十二時)とあり、二十日の朝に大阪天満宮に戻っている。このことは「仮日記」二十日条にも「早朝御旅所て焼場へ帰坂、種繁、義之、信淑、守典同船也、後功長来」とあることで裏付けられるが、これでは既掲の鎮火時刻の遅い記事とはまる一昼夜以上の隔たりがあることになり、この差は早くに火災が発生した天満郷と、船場から火が移った上町の時刻差を考えても幅があり過ぎるように思われる。しかし一方では同じ「仮日記」二十日条に「今夜亥刻鎮火」(「亥刻」は夜十時頃)とあるので、火災全体としては二十日の夜遅くにはほぼ鎮火したと考えて良いであろう。大阪天満宮関係者たちはまだ市中の火災が治まらず、天満郷でも余燼が燻っていたであろう時刻にいち早く宮へ立ち戻ったことになる。

 さて、不安な一夜が明けた二十日の朝「(小谷)守典外両人斗同道て天満本社へ」(34)戻った功長が見たものは「社内外及私宅之有様目もあてられぬ哀なるさま也、平日之出火ならハ御土蔵も御文庫もやけまじく、又私宅なども道具も少しハ残すべく、実\/真之丸やけと申今度也、当社既享保九年・安永六年・寛政四年等之御類焼にもかゝる丸やけ出合候事なし」という変わり果てた大阪天満宮の姿であった。社内で焼け残った建物はわずかに参籠所前の書蔵と連歌所の後手の米屋蔵の二棟だけであった。これについては「仮日記」にも「社内焼所見分仕土蔵二ケ所のこる、但書物蔵、八木屋蔵」と記されている。書蔵は事件当日、土の戸も窓も閉めていなかったのに不思議に焼け残ったものである。外に残ったものは平野屋五兵衛が奉納した表御門左右の金灯籠と、滋岡、両渡辺、寺井、大町ら神主社家の土蔵、西渡辺家の表門の塀だけで「其外ハ門塀ものこらず候事」というありさまであった。火勢のすさまじさは、非常用に漬けて置いた滋岡家の漬物樽が「平日の火事ならハ納屋持出し置候ハゝぬかミそ故やけ残り可申候へども、今度ハケ様なものまでやけ」たことでもよくかるが、天満郷は「東西南北町々見渡それ只広々タル野郊也」と言う状態になってしまっていたのであった。わずかに半樽ばかり残った香の物を取り出し、焼け残りの鍋で粥を炊いてこの日の夕食を凌いだ功長は、その日記に「実乞食同様之仕合困難筆紙に難尽」と記している (35)

 惣年寄の要請を受けて大阪天満宮が三月朔日町会所に差し出した「覚」 (36) によれば、同宮の被害は「社地家数七拾四軒、竈数百弐軒、火入土蔵三ヶ所、火入穴蔵弐ヶ所、納屋拾三ヶ所、外御宮境内火入土蔵七ヶ所、日小屋 (37) 四十八ヶ所」。また三月五日に大阪天満宮が町奉行所に正式に差し出した「類焼届」 (38) には、本社、幣殿、拝殿、神楽所、拝殿西方三十番神、本社玉垣、大将軍社、祇園社、白大夫社、老松紅梅相殿、蛭児殿、同社拝殿、住吉社、神明社、同社拝殿、十二社権現、荒神社、宇賀神社、八幡社、神馬社、表門、東西随身舎、表通筋塀、薬医門、御供所、文庫、連歌所、参籠舎、火消道具置場、神輿蔵、絵馬舎、参籠所南手土蔵、本社西手土蔵、西手講中寄所二ヶ所、東廻廊、表門東手北拾五間之掛塀、本社井戸屋形、九丁目石鳥居、社内諸仮小屋、天満宮地続有之候霊符神社、同灯明所、同拝殿、同稲荷社、同社拝殿、同社拝殿上家、同社前木鳥居、同所住吉社宇賀神権現相殿、同所吉備公社、同社雨覆、同所坊城社、同所井戸屋形、同所西地境柵垣十三間半、

 以上五十二件の建造物を書き上げており、同時に書き上げた「天満宮境内にて焼残候ヶ所」は前記の宝蔵と書蔵のみである。

 二十二日には京都の高辻、飛鳥井家などから火事見舞が来たが、使者の話では途中大塩の残党を捕縛するために帯刀の者を厳しく吟味しているために到着が遅れたと言う。このとき功長は高辻家の使者に大坂の状況を知らせる手紙(39)を託しているが、これに大塩の乱について記したあと「御本社並御末社之御正体至まで無恙御旅所に御立退御無難被為在候間、此段御安心可被下候」と結んでいる。実はこの火災では、既述のように本殿御正体の鳳輦、相殿の手力男尊像が無事で、渡辺迪吉が避難させたあと一時所在不明となった大将軍社の御正体も天神筋町和泉屋庄五郎が保管していたほか、「猿田彦大神御神体」は剣先船仲間が保管、「法性房尊意御神体」は参詣者が井戸の中に入れて無事(40)であったのであるが、霊符社、稲荷社、吉備公その他末社については「取除候事ヲシソヒレ終御正体尽ク御焼失」(41)している。このことは「秘中秘」(42)であったために、噂が世間に広まることを恐れ、功長は高辻家にも前記のような報告をしたのであった。日記に記すのは「後年右御焼失之事も其職タルモノシラス不案内てハいかゝ故、又心得之為」である。焼失した霊符神は「格別当家由緒ある御木像」で「功長も一度相拝ミ申」したことがあり、「高サ六尺也、尤コシカレテゴザル也、御頭ハ後ナデボシ惣髪」の姿をしていたと言う。また稲荷の御正体は「瓦ほりてあり」、その他末社の御正体は「大かたハ御幣斗」であった。従ってこれら霊符神、稲荷、吉備公などの御正体「今出来ノハ天保八年火後ヒソカニ奉刻作之」されたものであると言う(43)。また注(24)に記したように綱敷御影と四十川ノ御影の二幅も焼失した。その他大塩の乱によって大阪天満宮の受けた被害については、日記類にはなにも記されていないものの、文庫蔵が焼けたためにそれまで御文庫講の尽力によって奉納された書籍類がことごとく烏有に帰したことが特筆される。

 大阪天満宮では二十日からまず焼けた金物類の片付け、二十二日からは灰かきが始まるなど火災後の片付けが開始された。二十三日夜丑の刻(深夜二時頃)には神主滋岡功長と社家らがひそかに御旅所に集まり、梅林の下に隠しておいた鳳輦と相殿の手力男尊像を取り出して清めたあと御旅所の拝殿に納め、その夜は社中二名づつが交代で警護にあたった。このこともやはり「大秘事」であり、畑の地主には「内々ながら夫と申さず大切なる品ヲ土中に埋メ奉り候事故心得居くれ候様申置」いたと言う。功長にとっては「都此節ヶ様之無勿体取斗方仕候事も御無難ヲ奉祈候との事、実\/心配心痩筆紙難尽」ことであった。翌二十四日は曇り後雨と言うあいにくの天気で「御還行列大風雨付実途中困」りながら、御旅所から神主を先頭に社家と御供講世話方数十人に守られた鳳輦がやっとのことで大阪天満宮に還幸している。そして遷宮までの仮御殿を造るためにまず白大夫社の跡に雨舎の建設を町奉行所に願い出、雨舎が完成するまでは焼け残った書蔵に仮遷座することにした(44)

 二十五日「早朝御仮屋出来」(45)、鳳輦はこの日が菅原道真の「格別之御忌故、諸人参詣もあるべく存候て御仮屋へ出御ヲ催」し、夜には再び書蔵に戻された。これは「又蜂起も候と存候て如此、且又火ノ用心心得もあり大事奉存候故、如此相斗申候事」と言う配慮から前日に取り決められたものであった(46)。摂社大将軍社の御正体もこの日の朝、避難先から還幸した。この日、雨舎の北手と表門内西手とへ六月の天神祭に用いる楽船の屋形二つを借用して幕を張って寄進所として用い、神事は「御神楽道具神供類一ツもなし、盡御旅所取寄」て行われたが、大阪天満宮関係者にとっては「何もなく候故如此、扨々哀なるべし」(47)と言う心境であったと言う。この火災後初めての祭礼に大阪天満宮では寄進が相次いだので、「本社焼跡之前南向御類焼見舞之出札さし出ス、第一薩摩屋仁兵衛也、金百〆奉納、其後北新地置屋伊丹八十と申人金五十両奉納也」と言う。薩摩屋仁兵衛(井辻尚監)は天満組の惣年寄である。ほかに「北新地大柳と申置屋日参也、此娘だいと申げい子也、是も日参也、父子にて金五十両奉納也、則今日大ナル別段之出札スル也」とか、「やしき内対州テ牛丸売店之京屋伊右衛門、金三両仮殿へ持参也」など大口の寄付もあった。一般参詣者を含むこれら氏子の篤い大阪天満宮への崇敬によって、焼け出された神主家や社家も「昨晩より御上りもの御散物一社中に頂戴候事」、「御散物此間より溜り鳥目十貫文斗頂戴事」などとあるように一息つくことができたのであった。霊符社裏側にあった霊符茶店仲間十五軒から類焼見舞として銀二貫目が贈られた滋岡功長は、その感激を「神主彼方も一統悉く丸焼故気毒御座候、辞退申候へども、押てさし出くれ忝受納申候、彼中間格別之出精也、子々孫々至ともかの仲間随分憐愍ヲ加へべき事也」とその日記に記している(48)

 ところで御鳳輦と大将軍社以外の御正体については、「仮日記」二十六日条に「未之刻種繁、元常同船て御相殿弐社御むかへ行、御旅所て一社、又新地一社有、亥之刻二社共御還幸也」と見え、二十六日には御旅所に避難していた手力男命像と、剣先船仲間が救った猿田彦像が戻っている。二十九日までには法性房尊意像も戻り、これで焼け残った御神体はすべて還幸したのであった。法性房尊意は「滋岡日記」二月二十九日条に「菅公之文学之師也、叡山之阿闍梨也」とあり「小サキ坊様て余程古キ御像也、御木像也」で、本社前の井戸へ投げ込まれていたために「少々損シ候へども彼御正体ハ無恙」と言う。同じく「滋岡日記」二月二十九日条には、辰の刻(午前八時)に町奉行所から火事役二名が来て火事場の検分を行ったが「何之別段尋もなし」とある。さらに同日記によればこの日「平日之火事ならハ尤も御届申上候て仮屋も可仕候処、何分昼夜之混雑申故」ひそかに霊符神の仮屋を拵え、そのなかに稲荷も末社も混座させたと言う。これでひとまず一段落である。

 さっそく大阪天満宮再建への動きが高まった。ただし正遷宮までの急場をしのぐ仮殿の造営である。三月三日には「表門と元本社前との間仮殿場所申札ヲ出ス」とともに「表門内東手仮殿寄進之札」を出して大口寄進者の名前を発表。十三日には幣殿を兼ねた仮本社(梁行三間桁行五間)と仮拝殿(梁行弐間半、桁行五間)の造営を神主、社家惣代、大工の連名で町奉行所へ願い出ている。いずれも仮建物のことで屋根は「枌葺て仮建」とある。そして十五日に「仮殿釿始」(49)があり、早くも四月三日には上棟、十日には完成し、十四日に仮遷宮を行うことを役所に願い出、十四日の夜雨舎の仮屋より「先つ末社、次三十番神、次御相殿、次御鳳輦、已上六度相勤」め、「戌刻新仮殿遷座万々無滞相済」み、四月二十一日に仮殿遷宮に伴う儀式が無事終了する(50)。こうして大塩の乱の罹災後わずか二ヶ月で大阪天満宮は再建への大きな一歩を踏み出したのであった。


【注】
(24) 「滋岡日記」二月二十五日条には、本来御内陣に置いて御鳳輦と一緒に「平日ノ火事ナラハヶ様な宝もの類ハ唐櫃入行列て御立退」という「神像かけもの二幅並画伝記」を「文庫へ入」、掛軸の蛭児尊像も「西蔵」に入っていたので焼失の憂き目にあったと記しているので、大阪天満宮では日頃主として文庫蔵(西蔵)が宝物庫として使用されていたらしい。なお上記の神像かけもの二幅とは「綱敷御影」と「四十川ノ御影」と呼ばれる天神画像である。
(28) 明治四十三年東亜堂書房刊、昭和十七年創元社改定再刊。
(29) 昭和三十一年、創元社刊。
(30) 大阪市立博物館蔵。
(31) 大塩の乱で焼失した町の家数・竃数・空家・土蔵・穴蔵・納屋などを記した一枚摺「大阪大火」。内容は『大阪編年史』第十九巻に「天保八年大坂大火図」として所収されている。
(32) 『近来年代記』。大阪市史編纂所蔵(昭和五十五年『大阪市史史料第一輯』)。
(33) 船場両替商助松屋の記録『毎日御用留』。(藻井泰忠編『船場両替商の記録(抄)』昭和五四年)。
(34) 「滋岡日記」(阪大滋岡家文書No.124)二月二十日条。ただし上記のように「仮日記」(『大阪天満宮所蔵古文書目録』K―52)では小谷守典は寺井種繁らと船で行き、功長は後から天満宮に行ったことになっている。
(35) 以上引用文は「滋岡日記」二月二十日条。
(36) 「滋岡日記」三月四日条(阪大滋岡家文書No.124)所収。ただし、一枚摺「大阪大火」には天満宮の被害を「天神社地」として「家(筆者注、家数のこと、以下同じ)六十六、か(竃数)九十九、明(空家)三、くら(土蔵)三、穴(穴蔵)弐、納(納屋)十二」とし、別に天満宮関係者の建物として「天神社神主屋敷二、社家七、くら(土蔵)七」と記し、両者の数字に若干の違いがみられる。
(37) 功長の注によれば日小屋はヒコヤと読み社内の貸小屋のことである。
(38) 「滋岡日記」三月五日条(阪大滋岡家文書No.124)所収。
(39) 内容は「滋岡日記」二月二十二日条」(阪大滋岡家文書No.124)所収。「旅所て功長作文して西渡辺迪吉認候」と言う。
(40) 以上「仮日記」二月二十日条」(『大阪天満宮所蔵古文書目録』K1―52)。
(41) 「滋岡日記」二月二十五日条(阪大滋岡家文書No.124)。
(42) 注(41)に同じ。
(43)  以上、引用は注(41)に同じ。「今出来ノハ天保八年火後」云々の表現はこの日記の少なくともこの部分は後年に記されたものであることを物語る。
(44) 以上「滋岡日記」二月二十四日条(阪大滋岡家文書No.124)。
(45) 「仮日記」二月二十五日条(『大阪天満宮所蔵古文書目録』K1―52)。滋岡功長の表現によればこの建物は「仮屋之御仮屋」である。広さは間口三間、奥行二間(「滋岡日記」同日条)(阪大滋岡家文書No.124)。
(46) 以上「滋岡日記」二月二十四日条(阪大滋岡家文書No.124)。
(47) 「滋岡日記」二月二十五日条(阪大滋岡家文書No.124)。
(48) 以上「滋岡日記」二月二十五日、二十七日条(阪大滋岡家文書No.124)。
(49) 以上「滋岡日記」三月三日、十三日、十五日条(阪大滋岡家文書No.124)。
(50)  以上「滋岡日記」四月三日、十日、十四日、二十二日条(阪大滋岡家文書No.125)。




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