相蘇 一弘
『大阪天満宮史の研究 第2集』
(大阪天満宮史料室編 思文閣出版 1993) より
はじめに 一、 大塩は建国寺を砲撃したか 二、 二月十九日の大阪天満宮 三、 大阪天満宮の被害と再建への動き おわりに
「大塩は建国寺を火矢で攻撃した」と記した『塩賊騒乱記』は、大阪天満宮についても「天満の町屋を焼立\/、勿体なくも天満宮へ大筒を打込」んだと記し、さらには「此時宮奴一命をすてゝ神殿へ飛入、忝も天満宮之石像之御神体を持出しけるに、煙火の中なれとも神之擁護にて有けん、恙なく出し奉りぬ。」とかなり具体的な挿話を記したあと、「抑天満之天神と申ハ、大坂第一之大社にして錦城之乾ニ鎮座まし\/て、応感あらたなり。其宮殿之荘厳なる事目を驚かすへし。貴賎常ニ群集して繁昌他ニ異也。其産子と称するもの、大坂市中過半なり。賊徒神明を畏すして宮殿を焼立。豈其志を遂ることあらんや」と大塩を非難している。また、先にみたように今井克復もその回想録で、大塩は与力町を焼いたあと「十丁目へ出て、天満天神の社の宝庫等に火を掛け」たと述べている。つまりこれらの記事によれば、大塩は大阪天満宮を砲撃したと述べているのである。それでは、さきの建国寺の「天保御遷座一件」は大阪天満宮の状況を含め、その後の大塩の乱の展開についてどのように記しているだろうか。
追々近辺与力町騒動鉄砲打込、其次第西へ出、尤鉄砲三丁車ニ乗、其身陣笠皆々陣笠ニ晒ノ白木綿鉢巻揃ニ致し、天神へ打込、神徳有哉無哉と申、神宝蔵戸を開き打込、其外天神橋へ相渡可申之処、如何ニも存候哉、難波橋へ廻り直様天神橋ハ焼落、南へ火も移り候趣天神佛生寺焼失一陣之煙ト相成、依而堂嶋駈附会所ニ御見舞被降候内、其中ニ而駈附人足へ粥焼出し万端大混雑、其中申来候者有之、夜前東御役所ニ而大塩悪事及露顕、其同類之内両人宿番壱人ハ小泉勝治郎、此ハ御奉行御手打、瀬田済之助ハ其隙ニ大塩へ向駈込候旨承之、其
事発し候趣也、実ニ万代未曾有之此共也
この史料にも、大塩隊は大阪天満宮を攻撃したとあり、しかも「神徳有りや無しや」と言いながら神宝蔵を開いて火矢などを打ち込んだと記している。「神徳有りや無しや」と言うのは神の威徳があるなら示してみよ、神罰を与えてみよとの意味であろうか。そこにあるものは神を恐ぬ大塩のイメージであるが、建国寺についての風聞の誤りを正した一級史料に記されているだけに注目される記事である。しかも今井克復とおなじく「神宝蔵」(今井の表現では「宝蔵」)を焼き討ちしたとしている点に注目される。じつは大阪天満宮には大塩の「宝蔵」攻撃についてひとつの伝承がある。すなわち『天満宮由緒乃楽我記』 (21) の「天保八年天満宮ト大塩ノ乱」の項に、「天保八年二月大塩平八郎ノ乱ニ際シ乱徒ハ無法・モ大砲を宝蔵ニ放ツタカラ本殿始メ諸建物悉ク烏有ニ帰シ」云々とあり、「大塩ノ乱ニ乱徒ハ天満宮ヲナゼ砲撃シタカ、其レハ当文庫ノ献本ノ中ニ大塩洗心洞塾ノ人名録ヲ焼キ捨テル為ニト有ル」と記されている。つまり大阪天満宮の関係者の間には「大塩は、乱ののち残っていては多くの者に迷惑をかける恐れがある門人帖を焼くためにそれが入っている宝蔵を焼いた」との伝承があったことを記しているのである。ここでも「大塩が宝蔵を狙って焼いた」ことを記しているのであるが、その理由にまで言及している。大塩は果して大阪天満宮や同社の「宝蔵」を狙って攻撃を加えてたのだろうか。つぎに大阪天満宮の天保八年二月十九日を検証することにしよう。
大阪天満宮関係者の残した大塩の乱についての記録でもっとも詳細を極めるのは滋岡家文書No.124の「滋岡日記」である。表題に「従天保八二月十九日 類焼到三月廿四日 日記 功長」とあり、二月十九日から大坂の靭油掛町で大塩が自刃する直前の三月二十四日までを記録している。冒頭に大塩焼図(刊行図)を掲げて「大坂与力大塩平八郎父子狂乱之節焼亡之図」と墨書し、天満郷の大塩邸に丸印をつけ「此所より初り則大塩屋敷也」と記し、欄外には「土蔵の落数不知、鴻池三ヶ所、三井同断、其外沢山」「人死凡七十人余、東天満絵図之通り、不残焼失、中々大やけニて御座候」などと被害の状況を書き入れている。本文は「天保八年二月十九日 当日晴、巳の上剋ヨリ西風至て烈敷よし」という書き出しに始まるが、この記録は乱当日分を含め何日か分は少し後の回想に基づくものと思われる。このことは二月十九日条に「御社内都て相残候者一所もなし、漸平のや五兵衛旧年奉納之表門東西左右之金灯篭斗残ル」と、鎮火後でしか判明しないことが記されていることでもわかる。あるいはこの日記は当座のメモをもとに後で清書したものかもしれない。つづく「朝五ツ剋比
川崎之四軒屋敷大塩平八郎宅騒動有之由ニて追々東御町奉行跡部山城守殿に何か注進之様子ニて人往来有之」という記事も、町奉行所にでもいなければわかることではないので後に人から聞いた話であろう。従って「其内出火と申立候故見届ニ遣候所、大塩宅
向側工藤万三郎・浅岡助之丞 当時迎与力ニて出頭なり 宅へ火矢打かけ焼立候由、此間良暫ひまあり」という記述からが功長自身の直接経験を記したものである。そのうち町奉行所から「今日両御奉行市中御巡見ニ付、其御社へも御立寄有之候様昨日申達候へとも今日ハ御延引ニ相成候間其旨相心得可申」との差紙が届いたと言うが、これはこの日町西奉行が着任の例として東町奉行とともに市内を巡見することになっており、大阪天満宮にも立ち寄ることになっていたからである。大塩は両町奉行が大塩邸向かいの朝岡助之丞邸で休憩の際に挙兵して二人を討ち取る手筈にしていた。
大阪天満宮ではこの朝、伏見町道具屋勝兵衛より御湯の献上があり、宮司の滋岡功長も出勤していた。御湯献上が済んで退出しかけたところ、すでに大塩邸での騒動が取沙汰されていたが、大阪天満宮では当初は事態をあまり深刻には受けとめてはいなかった。巳の剋(午前十時頃)には「大塩邸へ蓑笠をつけた百姓数十人が集まり、大筒を発して与力町を次々に焼いている、先に鎗を立て並べいずれも軍中の出立である」というニュースが入ったが、「然れとも風ハ西也、当社なとハ何も焼払事ハなし、与力町丈ヶニて相済」などと物見に行った人足も言うので、大阪天満宮では近火見舞に来た人へ酒や握り飯を出すなどしてなおも落ちついていた。ところが「彼賊等とも、西与力町左右へ打かけ追々大筒ニて焼回り、終ニ津国町通を十町目に打廻り、又一組ハ仏生寺立田町通に焼立来り、不存寄油断之所へ火急ニ焼立来り、上ヲ下へと騒動ス」という状況になった。功長は朝から何となくこれは尋常のことでないと思い、用意させて置いた船に臨月の妻(千枝)と二人の子ども(米千代と文千代)を避難させた。この船は宮の焼失に備えたのではなく、賊が乱入するようなことがあってはとの措置であったので、出産に必用な少しばかりの品を用意していただけであった。この船にはこの日、野がけ(野遊び)に行く予定で用意してあった弁当も入れさせた。このように手配を済ませたので妊婦と小児のことは少し安心したが、今後どうなることか「宮町火鎮めの公役人は出ないのか」と言っているうち、大塩隊は火矢を放っているので瞬くうちに大溝の側辺に火が近づいてきた。そこで土蔵を閉めてまわるように指示したが、土蔵へ入れるべきものを入れる間もなく、ようやく長持一棹だけを船に積むことができただけであった。このあと功長は御殿に駆けつけ、御本宮を開扉し、社家の大町義之と二人で御旅所へ向け御神体の御鳳輦を遷す手配をした。普通の火事ならば御神体の避難は行列して行くところであるが、それもなくまた担ぎ手の駕輿丁もいないので参詣の人を頼んだ。
【図2 日記壱番(大阪天満宮文書 K1−52) 略】
以上が「滋岡日記」記すところの大阪天満宮焼失の状況である。火が迫る直前の様子を功長は「宮町火鎮メ之公役人も出ずやなどと申合候内、早火矢ニて打かけ候事故、暫時之間ニ大ミぞの側辺ニ火近付申候故、家内之事ハ土蔵〆よセありく様申付、土蔵へ入ルものも不入漸ク御用長持一棹船ニ入サセ跡ハ片付不申」と表現している。「火矢ニて打かけ候事故」と言うのは「火矢で天満宮を攻撃してきた」とも解釈できるが、続いて「暫時之間ニ大ミぞの側辺ニ火近付申候故」とあるからには「火矢を放っているので」と言うように一般的な意味に解釈するのが妥当であろう。功長は大塩隊の姿を見ておらず、火勢は長持一棹と御神体の鳳輦を持ち出すのが精いっぱいであるほど早かったのである。この間もし「宝蔵」や社殿に攻撃が加えられたならば功長は当然そのように記しているはずである。大阪天満宮の焼失の状況について他の史料はどのように記しているだろうか。まず「役所日記」は「二月十九日 晴天」として、
朝五ツ時、大塩平八郎屋敷出火、此一件者別帳ニ記ス略之、夫長柄町北江焼出シ、其節建国寺観音院江大筒鉄炮ニ而打焼、段々類焼東与力町焼失、夫より西与力町東之方
右筒ニて西江十丁目迄焼払、夫
天神橋迄打焼折悪敷西風つよく御当社始め御末社不残焼失ニ付、朝五ツ時前ニ柴船ニて奥様・御子様方皆々御旅所江向ヶ舟出ス、間もなく近火ニ付 御神輿出ス、神主社中守護ニて御旅所江移り是亦一件者別帳ニ記、夫
東天満不残焼失天神橋打焼、難波橋
船場江渡り焼失也
と記している。この記録が功長の手になるものでないことは、文中に「奥様并御子様方皆々御旅所江向ケ舟出ス」とあることで明らかである。ここでも「建国寺観音院江大筒鉄炮ニ而打焼」と記していることに注目されるが、大阪天満宮そのものについては「折悪敷西風つよく御当社始め御末社不残焼失」「間もなく近火ニ付 御神輿出ス」とあって大阪天満宮焼失の理由を火器の攻撃による火災とは記していない。つぎに、社家の一人寺井種繁(十二代種永)の「仮日記」は次のように記している。
今朝辰之上刻東組与力大塩格之助、父平八郎以火矢大筒、同与力朝岡助之丞屋敷へ打掛出火、右出火ニ付火消人、見舞人をい\/行、大塩屋敷門前ニて刀をぬきたる者大有、行者打物等之事、大塩平八郎段々近所へ火器大筒を打掛、追々大火ニ成、此時人之うわさニわ、役屋敷ばかり焼払候等之事、無風にて安心の事、後四ツ時
南西風出也、火元者東ニて安心也、然ル所大塩組人数大有、火箭、大筒、やり、長刀、刀をぬき東西与力同心所々打掛、大々火大々也、火西へ\/と行、御社之北之方者黒烟也、種繁見之大ニをそれて御立除之御用心、御立除之用意調致候処、早蛭児門外へ焼来
一、社中大ニをそれて 御本宮御立除有義之御附行、種春病気御座候得共、一寸出勤致し、病気ニ付家内等同々ニて立除、種繁、迪吉者残御宮御立除之致調、早御本社之御屋根黒烟来候ニ付、種繁、迪吉、信淑、守典、手力雄尊之御宮を右之四人して持立除、時九ツ時御旅所へ等行
今朝辰の上刻(八時頃)、大塩父子が火矢大筒で朝岡邸を攻撃し出火、火消人や見舞が行ったところ、大塩邸門前には抜刀した者が大勢いた。大塩は近辺へ火器大筒を発したので次第に大火になったが、人の噂では役人屋敷ばかり焼き払っており、無風で安心とのこと。のち四ツ時(十時頃)から南西の風が出たが火元は東の方角で安心していた。ところが大塩隊は大勢で火矢・大筒・槍・長刀・刀を抜き、与力同心宅を攻撃したので大火となって火は西へ西へと移り、気がついたときには大阪天満宮の北の方は黒煙が立ち込め、これを見た種繁が恐れて立退きの用意にかかったときには火ははや蛭児門外まで迫っていた。社中大いに恐れて御本宮の御神体の避難には大町義之が付き、病気の寺井種春は家人同道で避難、種繁と渡辺迪吉 (22)、(東)渡辺信淑、小谷守典の四名は相殿の手力雄尊像を抱えて、九ツ(十二時)頃に御旅所に避難した。
と言うものである。また大将軍社の御正体は「滋岡日記」に「既ニ大将軍御正体ヲ取退奉りしハ渡辺迪吉也、是時などハ火煙頭上に覆候由、実ニ\/危難ナル事と承り申候」と記しており、渡辺迪吉の手によって危機一髪焼失を免れている。既述の『塩賊騒乱記』の「此時宮奴一命をすてゝ」云々の記事はこのことを指すものであろう。ともあれ、これらの記事にも大塩隊が直接大阪天満宮を攻撃したことは見えておらず、以上を総合すると大阪天満宮も建国寺と同様やはり類焼であったと結論せざるを得ないのである。ただし「滋岡日記」は「十丁目裏門辺ハ八軒西側並芝居へ向ヶ大筒打かけ候よし」と記しており、これとても功長自身が見たわけではないが、大阪天満宮に隣接する場所についての情報であるのでかなり信頼度の高いものと言えるだろう。これが事実とすれば当日は強い西風で種繁が避難しようとしたときには南西の蛭児門外にまで火が迫っていたとあるから、大阪天満宮は西側から焼けたと考えられるが、大塩隊は大阪天満宮から東の方向二百メートルたらずの仏照寺竜田通辺にも分かれて進行したとあるからには、すでに天満郷は一面火の海になっていたわけで、もはや風向きには関係なく類焼は時間の問題であっただろう。
それにしても、「天保御遷座一件」のような一級史料がなぜ事実に反することを記しているのだろうか。そこで改めてこの史料を読むと、建国寺の件については筆者が直接体験したことを記しているのに対し、大阪天満宮以下についての記述はすべて後日に彼が収集した情報、つまり伝聞であることに気がつく。したがって建国寺の様子を知るためには最重要史料であったこの史料もそれ以外の部分では『塩賊騒乱記』や今井克復の証言と同じ程度、つまり「そのような噂がある」と言うことでしかないのであるが、「天保御遷座一件」が先に記したような一級史料であるだけに無批判に信用してしまう可能性があるわけで、このあたりに大塩の乱の史料を扱う恐さがあると思われる。しかしながら風聞や伝承はまったくの作り話ばかりと言うわけではなく、むしろそのなかには必ずと言ってよいほど幾許かの真実が含まれているものである。たとえば建国寺の一件では、建国寺が類焼し東照宮の御神体を守って僧侶が避難したことは事実であった。大阪天満宮では社家の一人が神殿へ飛び込み相殿の御神体を運び出した事実があった。これらの事実はそれを見た者や聞いた者が大塩および彼の行動をどう評価するかによって、その解釈が変わるとともに内容が補足され、人に伝わるに従って次第に増幅され尾鰭のついた話全体が史実として一人歩きして行ったのではないだろうか。江戸時代、大阪天満宮の宮司職を代々継いだ滋岡家の末裔である滋岡長平氏は「子どもの頃、母親から大塩の乱で天満宮の書蔵 (23) が残ったのは滋岡功長と大塩が親交があったので、大塩が記録類の入ったこの蔵だけは焼かなかったからだと聞かされていたが、古文書を読むようになってそれがまったくの憶説であることがわかった」と言う意味のことを筆者に語られたが、書蔵だけが焼け残ったのは大塩の配慮であると言う伝承は、書蔵が残ったという事実について大塩に好意的な人物が解釈を加えたことによって生まれたものであり、建国寺や大阪天満宮を焼き討ちしたという話は大塩の行動を否定する心が根底にある人物の解釈によって生み出された可能性が高い。
【図3 大阪天満宮御文庫(右上と左上に見える)(『摂津名所図会』) 略】
ちなみに、今井の証言や「天保御遷座一件」の記事にある「大塩が宝蔵を火矢で焼いた」とする伝聞であるが、そもそもこの宝蔵というのがよくわからない。『摂津名所図会』の図にも、『摂津名所図会大成』が「天満宮」の建物を書きあげたリストのなかにも「宝蔵」もしくは「神宝蔵」は見あたらない。既述の『天満宮由緒乃楽我記』では「宝蔵」と「文庫」を混同している疑いもある。実は「滋岡日記」二月二十日条に、この火事で書蔵と米屋蔵の二つの蔵だけが焼け残ったとあるが、その頁には「此米屋蔵トアルハ公辺江焼残届ニハ則宝蔵ト届あり、梁行三間桁行五間、俗ニ米屋蔵ト云ナラハセリ」と言う貼り紙があり、同三月五日条に載せる町奉行所への罹災届には「天満宮境内にて焼残候ヶ所」として書蔵とともに「宝蔵 梁行三間、桁間五間」が書きあげられている。この蔵に何が入っていたかは不明であるが、大阪天満宮には日常「宝蔵」と呼ばれている蔵はなく (24)、幕府に届け出た「宝蔵」は「俗ニ米屋蔵ト云ナラハ」していた米屋蔵であってしかも焼失を免れているのである。まったくの推測であるが、「宝蔵」攻撃の誤伝は神輿が搬出されるのを見た人々が「これが入っていた宝蔵」が攻撃されての避難と考えたことが火種であるのかもしれない。ともあれ、大塩隊が「神徳があるなら示して見よ」と大阪天満宮の宝蔵を砲撃したと言うような話が事実として広がれば、『塩賊騒乱記』が「賊徒神明を畏すして宮殿を焼立。豈其志を遂ることあらんや」と記しているように、聞いた者の大塩への評価を悪い方に変えることもあり得る。これは先に建国寺攻撃にみた (20) の例と同じである。また話の内容によってはこれと全く逆に大塩を実像以上に美化するケースもあるわけで、世に流布する大塩像は大なり小なりこのようにして形作られていったように思われる。
さて、御鳳輦を運んで天神橋の下まで来た功長らは、手配されているはずの船がおらず、しかたがないので一休みしてまた大川に沿って一気に「はだし蔵」の辺まで運び、頼みまわってようやく一船を借り、ようやく鳳輦を戎島の御旅所へ避難させることができた。なお鳳輦を運んだ六人は近在の池田町、天満東寺町、堂島新地中二丁目、上福島村の住人のほか順慶町や遠く下大和橋南詰付近から参詣に来ていた人々であった。御相殿のうち多力雄尊は三名の社家が天神橋の下から船に乗せて船場へ出、小橋屋兵助の店で休息したのち前垂島の三原屋定兵衛方で握り飯をもらい人足を頼んで無事に御旅所へ入っている。また渡辺迪吉は大将軍社の御正体を守護して難波あたりまでさ迷っているうちに手力男尊の御鳳輦に行き合い、一緒に御旅所へ入ることができた。しかし火勢は一向に衰える気配もない。さまざまな流言が飛び交う不安な御旅所での乱当夜の様子を「滋岡日記」は生々しく次のように記している。
当夜一社中御鳳輦之左右ニ守護之内、追々取沙汰ニ川口奉行所も焼払候由故心ならず候所、入夜追々火勢盛ニ相見候、中々いつしづまる事とも不覚、其上西辺へも打まはり申候沙汰故、あるにもあられず銘々どもハいか様ニしてもにげはしりつる也、御鳳輦守護及駕輿丁力ラ弱ニてハ覚束なく候故、一先京都へ船ニて可参、其上御鳳輦ヲ高辻家に御預可申と存候て旅守次郎右衛門ニ船ヲ用意さセ候へ共、一向船なく是非もなし、然りとて彼悪賊等焼打来ラハ御正体乍恐危シ、いかがと兎や角と一社中円ニ合して評議最中ニみゝよろしからぬ便のミ也、仍て是非ニ不及只此上ハ御正体御無難之謀ヲスルニしかじと一決して、則乍恐御旅所後手畑之中ニ時も時ニて梅花林さかり也、此梅林の下ヲ深ク掘、御鳳輦ヲ沈メ奉り其上ヨリ清キ莚ヲ覆、土ヲ埋メ奉り目立ぬ中・取斗ひ火難及悪賊ヲサクル如此
川口船番所も焼き払われたとの流言が飛ぶなか、御鳳輦を京都に避難させようとするが船の都合がつかず、このままでは賊が来れば御正体が危ない、そこで御旅所裏の畑に穴を掘って隠したのであるが、「仮日記」には「夜入神主功長申候ニ者、大塩平八郎者当 御神体ヲねらゐ候等聞申が、いかゝ致候」と相談があったと神主功長がかなり疑心暗鬼になっていた様子を記している。同史料によって当初は鳳輦を井戸のなかに隠そうとしたが入らなかったために次善の策として埋めたこと、手力男命像も御鳳輦と同様にしたことも知ることができる。一方、船で避難した功長の妻は、伊勢両宮の神号と救民と書いた白い旗を押し立て、難波橋から船場に向けて大砲を打ち放つ大塩隊を「難波はし波止場辺まで船漕出候時、見帰りて船中右之様ヲ聢与見受」け「再ヒ咄スもおそろしき事なりし」と功長に語ったという。功長の妻子は川口与力で滋岡家の親戚である人見伴三郎から白米を貰って飯を炊き、社家の小谷・大道の家族と一緒に、この夜は御旅所の前に繋留した船のなかで過ごした。功長はこのような事件当夜の大阪天満宮関係者の心境を「都て男女ニ不限心しづかならず、心中皆々薄氷ヲ踏之場ニて心配也、中々此筆記ニ尽サレズ」と記している。また、
今日之大坂之焼払候事より彼悪賊之存方之事さつぱりとわけわからず、落し文と申一筆書ヲ所々へ配りちらし申候、其文中ニ上ヲそしり、町奉行之下ヲ不思不憐愍之事ありて何か口から出次第事ヲ相認、我意ヲ申立候文あるよし、何かむほん之根ナしと一見申候也、是ヨリ先キ窮民に大塩の所持之本ヲうりはらいよほどの金銀高ヲ米高ニ付施行申候、則当春ニ相成て是ヲはじむ金一朱ツゝの施行也、是等之事が大ニあやしく候と今ニてハ存候
と記したあと、大塩の乱について「実ニ今度之趣意、先今日ニ至りいかなる事かハ不存申候へどもはたさしものゝ字ニある救民ノ字とハ大ニ\/相違ニて、社寺ヲ焼払民屋ヲ焼捨などして救民ニてハなくて窮民ノ事也」と怒りもあらわに書き綴っている。
大塩の乱によって家屋を焼失した被害者について、藤田東湖の『浪華騒擾紀事』 (25) に「大坂市中殊之外平八郎を貴ひ候由、甚しきハ焼たくられ候者迄少しも怨み不申」と記している。この史料は、大塩から主君水戸斉昭に密書を送られた関係から、乱の情報を収集する必要のあった藤田東湖が放った密偵・斎藤弥九郎 **1 の報告をもとにした信頼度の高いもので、一般には市中での大塩の人気が非常に高かったことを示している。が、一方では「己計聖人顔にて、民を救うなとゝ広言を吐き、却て民をなやまし、高価の米を焼失ひ、其外町家の財宝を失ひし事かそへかたし」 (26) などと記す史料も多い。大塩の乱で焼失した地域は三郷の約五分の一にあたるが、大塩隊の砲撃を目の当たりにし、家や家財道具を焼かれ、乱の拡大を恐れながら不安な夜を野宿同然に過ごした被害者たちの多くは、とても大塩の行為を賞賛はおろか容認すらできる気持ちではなかったであろう。「滋岡日記」の上記のような感想は特別なものではなく、これら直接被害者の気持ちを素直に代弁するものであると思われる。功長は大塩が靭油掛町で自刃した三月二十七日の日記 (27) にも
大賊大塩平八郎同格之助、大坂油かけ町さらさや宅ニて亡滅、其宅へ火かけ相果候、前夜より右宅ノ近辺取巻終ニ如此、城与力町御奉行与力同心各出役なり、右弥亡滅事、社頭へ市川杢右衛門参詣ニて承候ニ付、夫より神楽二座上候、神敵大塩父子亡滅ノ御礼ノ為也、功長、種繁、元常上候、右早朝事ニて尤も出火有之候へども暫して鎮火、大塩父子ともかバね召捕ニ相成候、天之あみ不遁処也、大坂市中万歳ヲ唱
と、心中を表現し「大坂市中万歳を唱えた」と記しているのである。
【注】
(20) 「堀伊賀守家来筆記」(『浮世の有様』七所収)。
(21) 大阪天満宮所蔵M―二七号文書。奥書に「昭和四十一年二月写ス、太鼓中参与山田精一」とある。
(22) ただし、迪吉は後に記すように大将軍社の御正体を避難させているので種繁の思い違いか。
(23) 「滋岡日記」(阪大滋岡家文書No.124)二月廿日条には「書蔵とハ申ならひ候へども書物類ハ不入、只勘定所書物又日記など入玉ふ蔵也」とある。
(24) 「滋岡日記」二月二十五日条には、本来御内陣に置いて御鳳輦と一緒に「平日ノ火事ナラハヶ様な宝もの類ハ唐櫃ニ入行列ニて御立退」という「神像かけもの二幅並ニ画伝記」を「文庫へ入」、掛軸の蛭児尊像も「西蔵」に入っていたので焼失の憂き目にあったと記しているので、大阪天満宮では日頃主として文庫蔵(西蔵)が宝物庫として使用されていたらしい。なお上記の神像かけもの二幅とは「綱敷御影」と「四十川ノ御影」と呼ばれる天神画像である。
(25) 大坂城天守閣蔵。
(26) 「夢の跡濱の松風」、他見舎御免南子述(『大阪編年史』所収)。
(27) 阪大滋岡家文書No.125
管理人註
**1 斎藤弥九郎は江川代官の指示で大坂探索に向かったと思われる。「浪華騒擾記事」(東湖全集)には次のようにある。
大坂乱妨の巨魁大塩平八郎行方不相知候処大胆のものに候得ば、万一海上へ乗出し大島八丈島等へ引籠候はヾ不容易儀と豆州韮山御代官江川太郎左衛門致苦心、内密斎藤弥九郎 加州浪人無念流創術指南飯田町住居江川同流にて因み有之者也 を頼み、平八郎退き口為糺候に付三月上旬弥九郎韮山へ罷越し、夫より大阪へ発足畿内相廻り韮山へ立寄り、四月七日江戸へ帰着に付 弥九郎見聞の趣内々承り候処左の通り。