相蘇 一弘
『大阪の歴史 第54号』』
(大阪市史編纂所編 大阪市史料調査会 1999.12) より
◇禁転載◇
一、はじめに 二、「大久保忠真の江戸召命」説 三、二通の大塩書簡を巡って 四、江戸召命の真相 五、おわりに
天保五年八月二十四日、備中笠岡の儒者小田敬斎の息子で、昌平黌に学ぶ俊蔵という者が帰省の途中大坂に寄り、大塩を訪ねてきた。聞けば同じ修学生の古賀大一郎から書簡を託されたという。披いてみると真文(漢文)で議論を挑んで来たものである。真文での議論には真文で答えるのが礼儀であるが、真文を作るには時間が必要である。そこで取り敢えず翌二十五日に俗文で古賀大一郎に出したのが次の書簡である。
未得貴意候へとも以手紙啓上仕候、秋冷之節御座候処、弥御堅勝被成御勤学珍重之御儀奉存候、然者昨廿四日備中笠岡、小田敬斎息、俊蔵と申仁、拙宅え罷越請謁、貴所様より小子え被贈候御一封指出、貴所様御儀只今聖堂御修学、俊蔵ハ帰省、当六月(註、右に「当月」とある)初旬江戸発足、其節右御一封御渡有之処、医用ニて暫く在京、夫故彼是日間取延引相成候由、断被申候、即披緘拝読、御真文一大議論之御事ニ付、何連回答可仕之間、指出方俊蔵え猶又及相談候処、同人も当九月下旬江戸表え又々罷越候、其節拙宅え立寄請取持下り、貴所様え御渡可被下、乍然右下旬若不参候ハゝ、直ニ聖堂諸生寮え向指出候様申聞候間、俊蔵再来迄御回答見合、左様御承知可被下候、扨遠方之処被懸御心頭、縷々御垂訓、厚意千万辱奉存候、小太郎様より先頃篠崎長左衛門え御書簡被遣候節、小子え御致声、殊ニ御幅(袱)紗二賜之、直ニ御礼可申上処、御文通未仕候故、長左衛門え頼遣候得共、猶宜奉頼候、且貴所様御年齢を俊蔵より承候処、二十五春秋御富被成、道徳文学経済御兼備之御趣承、精里先生之御血脈、左も可有之と申相分候儀ニ而、来月下旬御真文奉復候節、意緒万々可被尽候、猶御翩教も候ハゝ大慶不過之候、一応御挨拶迄貴報旁如此ニ御座候、以上
八月二十五日 大塩平八郎
古賀大一郎様
古賀大一郎はのちに佐賀藩の儒臣となる若皐(一八一一〜五八)である。古賀精里の長男穀堂の息子で、名は坤、字は元戴。大一郎と通称し、若皐のほか素堂とも号した。書簡の後半に登場する古賀小太郎は幕府の御儒者で昌平黌教授の古賀庵(一七八八〜一八四七)である。
庵は古賀精里の三男であるから大一郎とは叔父・甥の関係になる。名はU、字は季曄、通称小太郎。幼少より子供とは遊ばず、学問を好んで諸子百家を渉猟したという。寛政八年、父に従って江戸に移住し、文化六年に抜擢されて幕府の儒者見習になり、父子ともに昌平黌に出仕している。文化十四年御儒者となって二百俵を賜わり、天保十二年また布衣を許され、官禄百俵を増した。家学の朱子学を奉じて西洋事情、海防問題にも深い関心を持ち、著書に『劉子論語管窺記』『海防臆測』『学迷雑録』等があり、しばしば政策の建言も行っている。大塩は、学問の異なる
庵との付き合いはなかったが、本書簡を出す少し前に篠崎小竹へ
庵から書簡が届いた際に、大塩へ袱紗二つを添えて伝言を貰ったことがあった。本書簡では、その礼状を出していないので小竹にこの書状を託すが、大一郎からも宜しく伝えて欲しいと述べている。
というのが要点の概略である。このように大塩は真文での回答を九月下旬までに書く積もりであった。ところが大一郎の書簡をよく読むと、大塩にとって聞き捨てならないことが書いてあった。それは、@王陽明の弁文について管見がある。Aここ十四、五年のうちに聖堂の教化により心性修正、政事練達、忠義鉄石の俊士、偉人が輩出している。Bこの質問状については庵も承知の上である、という内容であったと推定できる (25)。日頃から陽明学が異端視され強い不満を抱いていた大塩は、「朱王の弁に管見あり」という大一郎の言葉にカチンときた。そこで、先の八月二十五日付の書簡を追うようにして再び出したのが次の書簡である。
再以手紙啓上仕候、秋冷之節御座候処弥御安全被成御勤学珍重奉存候、然ハ小田敬斎息俊蔵を以御真文一通被贈下候儀ニ付、当座之御答書俗文を以先月廿五日篠崎長左衛門え託し指出候、定而相達候半と奉存候、其後御真文始末篤と論読いたし候処、御深切之意、御雄偉之気、御文章之外ニ相溢、不容易思召と奉感謝候、然処御結句ニ朱王之弁御管見有之と御座候、何連先書得貴意候通、俊蔵再来之節御真文回答可指出候間、夫迄ニ右之御弁文一覧仕度候間、無御腹臓御貸渡可被下候、次愚拙儀得学抔と申、剛腹ニ墨守之訳ニ者無之事、理明向之上者非を捨、是ニ随ひ候へ共、天下実践之人も又稀ニ御座候、貴家ハ格別、精里先生より御相伝之御高説も可有之候間、旁先右御弁文借用仕度相願候事ニ御座候、小太郎様えも一応相伺候儀有之、別段長左衛門へ今日一書進呈仕候、学之異同を以彼是偏屈ニ申候様之儀ハ決而不仕候、是迄
公儀之俸禄を食、御政務之端ニ加ハり候付、其差別者聊相弁居申候、乍去学問之路ハ御政事之一大基本ニ相成、志気之振否、人心之張弛、国禄之盛衰ニ関係いたし候事ニ付、右より隠顕となく論究、其損益利害ニ頓着不致儀ハ裁藉ニ有之、御案内之通ニ付、是等者嘗試履歴之事理ヲ以、林祭酒御内々御心易御座候付、御同人并小太郎様へ追々ニ相伺可申と奉存候、且茲十四五年已来聖堂御教化之申分、心性修正、政事練達、忠義鉄石之俊士偉人者誰々薫陶逐出いたし
公儀之御為ニ相成候や、遠方之儀承候も難仕、貴所様御儀聖堂へ御日勤ニ付、定而御聞見も可有之候間、其姓名御面倒なから御聞せ可被下候、学問実行之工夫ニ仕度候間偏奉頼候、緊要ハ右御弁文借用之儀相願候迄ニ而、餘ハ追々可得貴意、如此御座候、以上
九月五日 大塩平八郎
古賀大一郎様
写本のため、誤読の存否を確認できないが、大意は
ということになろうか。丁寧だが内にかなりの思いを籠めた文章である。結果的にはこの書簡に「ここ十四、五年内に昌平黌から出た人材の名前を教えよ」と書いたことが後に昌平黌で問題になり、江戸召命騒動に発展することになるのである。なお、九月五日、大塩はこの大一郎宛の書簡とともに古賀庵にも手紙を出したが、同じ日、林家塾長の佐藤一斎(一七二二〜一八五)にも手紙を出している。大一郎に回答する真文書簡作成の参考にするため、江戸中期の陽明学者三輪執斎(一六六九〜一七四四)の履歴について質問したものである。これを次に掲げる。
一柬啓上仕候、爾来御疎濶、秋冷之候御座候処、弥御壮適被成御座奉恭寿候、次ニ僕無異、乍憚御休慮可被下候、先頃御門人若山氏坂府へ往来之節、枉訊有之、 大人之御様子粗承知仕、御多事と奉察候、然者三輪執斎子
徳廟之節被徴、御儒者ニ被命候由ニ承候得共、京都ニて悛候趣ニ相聞ハ不審ニ御座候、近頃乍御面倒執斎子之出処始末、詳ニ被仰知可被下奉希候、右見合ハ他事ニ無之、古賀庵子之姪古賀某より於昌平学校裁候真文一通到来、陋撰一覧之上と相見候、則同人并
庵子へ一応之返翰者差出、猶真文之回答可差出モ、中々入用御座候間、御多用之御中重々奉恐入候得共宜奉希候、平心易気、決而争事候義者不仕候、御休慮可被下候、且大学翼真と申本、手ニ入申候、夫禹貢錐指、撰者之胡氏之義ニ付、甚微細ニ御座候、乍然畢竟者訓詁家者、依之臭気不相離やニ被存候、何連不遠内東遊仕候ハゝ、拝謁万々可申上候、先者右御頼申上度、匆々如斯御座候、謹言
九月五日 大塩平八郎
佐藤一斎老師梧下
大塩がこの書簡を出した天保五年、佐藤一斎は六十三歳。幕府の御儒者となって昌平黌の官舎に移るのは天保十二年、七十歳のときであるから、この時点ではまだ林家塾長として林家の邸内に住んでいた。一斎は朱子学を奉じる林家の塾に籍を置きながら陽明学に関心を持っていたので巷間「陽朱陰王」と評され、大塩は一斎を早くから敬慕私淑して、天保四年六月に自著『洗心洞箚記』に長文の真文書簡を添えて贈っている。これに対して一斎は俗文で答え、それも大塩が満足するような内容ではなかったが、大塩は敢えてこれを天保六年の精義堂板『洗心洞箚記附録抄』に刻している。長年敬愛してきた一斎が必ずしも良き理解者ではないことを知った大塩は、天保四年十二月二十四日、大溝藩士四名宛の書簡で一斎を悪し様に批判し (28) 、以後一斎との交際を断ったとされているが、実際はその後も一斎とは書簡の往復を続けている (29) 。大塩は大一郎が挑んできた論争は背後で庵が糸を引いていることを見抜き、昌平黌と関係の深い佐藤一斎に相談を持ちかけたのであった。
というのがこの書簡の本稿に関係する部分の概要である。やがて、九月某日(中旬頃か)庵から返書が到来した。これを受けて大塩は某日(下旬から十月七日までの間)、
庵に再答。そして十月初旬、佐藤一斎から先の質問に対する答書が返ってきた。以下に大塩の一斎宛再答から関係部分を掲げる。
貴報拝見仕候、秋寒之候御座候處、弥御壮適被成御座奉恭祝候、然者御多用之御中、御問合申候執斎先生出処詳ニ御教示、篤と相分、千万辱仕合奉存候(中略)先便一寸申上候古賀氏へ及返答候内ニ、茲十四五年以来、聖堂御教化之中より身性修正、政事練達、忠義鉄石之偉人豪傑、誰々薫陶蒸出いたし
公義御為ニ相成候哉、実工之心得ニいたし度候間、其姓氏聞せ呉候様、大一郎へ申遣置御座候、小太郎殿へハ其父精里先生、素々姚江之書を被信、後に紫陽へ被転候趣ニ伝承仕候間、其始末之遺書も有之候ハゝ一覧いたし度、且小太郎殿ニも祟程説と歟申著書有之段、承知罷在候間、是亦借覧いたし度、其上ニて愚意追々回答可致と申遣し候ニ付てハ、いまた回答ハ到来不仕候得共、何連再報可有之候、其仕宜ニ寄、先年平賀信濃守殿阪尹之節、御同人ハ豊富学ニて毎々不肖へ教誨有之候付、公私書物拝借写取候内、御儒者柴野彦助殿、岡田清助殿等へ学政御取締被仰付候節、林家より被仰立候弾文、并 尾張殿へ御召抱ニ相成候儒者、冢田多門より 白川侯へ献し候弾文等之書類、不肖写取所持罷在候、右を以及答度義も御座候ニ付、前ニ申上候通、古賀氏回答次第ニて右書類写、一応可入御覧候間、若御手許ニ御写も御座候ハゝ、乍御面倒御校合可被下候、兼而此段内々御願置候(中略)先者右御礼旁御再答迄、如此御座候、謹言
十月七日 大塩後素
一斎老師梧下
(以下、尚々書略)
これも要点の概略を記すと、
一筆啓上仕候、厳寒之節御座候処、益御勇適被成御座奉恭祝候、次ニ私義無事、御放慮可被下候、陳先達而者御問合申上候事ニ付御用多御中、其上御老境無御厭、縷々御教示、思召千万難有奉存候、古賀殿へ学問往復ハ仰ニ随ひ相見合候処、古賀殿姪大一郎より又々書状差返、陸稼書学術弁抜書をも相贈、私見込を書入、返事可致様との義之処、ヶ様成ル人出来可申哉と存、六年已前三魚堂集翻刻之義、当奉行所へ為願、則聞済ニ相成有之、彭南釈毀録并愚意加刻可仕積ニ付、見込書入ニ写及、竣功いたし候ハゝ御地へ回り一覧可有之と申遣候、内実小太郎殿陰より使令之躰と相見候、且
尊君之御義、大一郎真文中ニ不相見候得共、暗毀之様存取候処も有之、夫者兎も角、私義ハ元来俗吏より理学いたし候訳、小太郎殿ニハ承知無之事と奉存候ニ付、別冊之通兼而心得居候次第、昨日書状さし立申候、右厳教を背キ候歟、思召取も可有之哉ニ候へとも、追々学術論も有之事ニ付不得已生死決着之上返答旁 小太郎殿へ相贈候義ニて、右ニて寸衷御推察可被下候、不苦候間、御覧も相済候ハゝ、祭酒様并新伊賀殿へも御見セ置可被下奉頼候、尤学名学則之一冊彫刻進上之仕候、御覧御指摘御教訓可被下候、則古賀殿へも一冊相贈申候、私義ハ何茂異を立候義ニ者更無之、右俗文写ニて御推察呉々希候、先者右申上度、如此御座候、恐惶謹言
十二月十二日 大塩平八郎後素(花押)
佐藤老先生梧下
(以下、尚々書略)
これも大意を示すと
なぜ大塩は林述斎と新見正路に読むことを求めたのだろうか。新見と大塩の親密な関係については既に記した。大塩と幕府儒官林述斎との関係については、文政十年に林家が大坂で無尽による金策を企てていることを聞いた大塩が、予て自分への援助を約束していた富裕門弟に自分への今後の援助と引き換えに醵金させ、千両を用立てて以来のことである。大塩は辞職後天保二年には江戸に行き、述斎に面会を乞うている (35) 。こうして大塩と林述斎は大塩をして「祭酒林公亦愛僕人也」(36) と言わしめるほどの仲になっていた。林と新見は幕府中枢にある大塩の理解者であった。大塩は古賀大一郎に仕掛けられたことに始まる論争が、古賀庵と昌平黌、更には幕府にまで及んで行きそうな気配を感じ、
庵に出した文章を二人にも読んで置いて貰いたかったのであろう。そして、大塩はこの文章を十四日に門弟の高階・芥川に示したのである。従って石崎が示した
(六)大塩平八郎書状 高階子収・芥川思軒宛 天保五年十二月十四日付
はここに位置するものである。これまで示した書簡には「老中方」のことは一度も登場せず、この書簡ではじめて「兼而心得居候次第」を記した冊子が「小太郎より御老中方迄も可入御覧心得」になっていたことが知れる。そしてこの頃、大塩が古賀大一郎に出した天保五年九月五日付の書簡で「茲十四五年已来聖堂御教化之申分、心性修正、政事練達、忠義鉄石之俊士偉人者誰々薫陶逐出いたし公儀之御為ニ相成候や(中略)其姓名御面倒なから御聞せ可被下候」と書き送ったことが、昌平黌で問題になっていた。昌平黌がいわゆる寛政異学の禁で朱子学以外を排除する江戸幕府直轄の教育施設となったのは寛政九年(一七九七)であるから、「茲十四、五年」のことは全く朱子学の責任に帰属するわけで、彼らは大塩が「人材が出たというのなら名前を挙げてみろ」と言ったことを昌平黌と朱子学に対する侮辱と挑戦と受け止めたのである。「怪しからん、江戸に呼んで釈明させろ」ということになり、問題は老中をも巻き込む騒動に発展したのであろう。この事態を新見がキャッチし武藤を通じて大塩に注意を促した。その返事が
(七)大塩平八郎書状 武藤休右衛門宛 天保六年正月十五日付
である。ここで改めてこの書簡を読むと、「御別帋ニ被仰聞候」から「千万辱奉存候」までの文がこれまで紹介した書簡の内容と符合し、後半部では以前は期待に胸をはずませているやに見えた文章が大塩の悲壮な決意を伝え、同じ文章が読む側の前提でこれほどまで変るかと思われる程である。大塩はもし召喚の実否がわかれば教えて欲しいこと、もし噂通り参府せねばならぬことになれば、新見邸へ落ち着く様にと伝えられたことに感謝しているが、このあたりの文章も緊迫感を以って伝わって来るのである。
しかし、さすがに幕府内では一介の大坂の町与力の隠居学者の言を問題にして召喚までするのは如何なものかということになり、結局この大塩の江戸召命一件は沙汰止みになったのであろう。これから少し経った天保六年四月、大塩は安芸三原藩の儒臣吉村秋陽に対して次のような書簡を送っている。これも関係部分を抄録する。
一柬謹啓、薄暑之候御座候処弥御健全被成御興居抃喜之至ニ奉存候、然者旧年已来度々預枉訊、王子伝本御序文等御遣し熟閲、至極御尤ニ存候、前より存付候王門親炙私叔人之列伝相集此節漸出来候付先名前斗入御覧申候、尚跡より逐々可得貴意候、昨年より東都御儒者古賀小太郎姪古賀大一郎と申者より学術之義ニ付掛合有之、無據小太郎へも及往復候義有之、此節漸返書到来いたし右等之用向且文武両道之世話日々多務無寸暇、夫故御無信失投之段御免可被下候、等閑ニいたし候訳ニ者無之候(中略)先者早々如此御座候、頓首
四月二日 大塩後素
吉村仁兄梧下
吉村秋陽は佐藤一斎の門人で陽明学を奉じ、中斎とは天保四年に真文で質問を寄せて『洗心洞箚記』を贈呈され、書評を返して以来の付き合いである。天保六年間確斎が出した『洗心洞箚記附録抄』にその返書が収録されている。この書簡は秋陽から度々手紙で質問を受けていたことに対し、「昨年より御儒者古賀庵の甥で、大一郎という者から学術上の談判があり、やむを得ず
庵とも書簡を往復させ、このほど漸く返書が到来した。このようことで寸暇なく失敬した」と断りを述べたものである。大塩の江戸召命一件についてのその後についてはよくわからないが、
(九)大塩平八郎書状 佐藤一斎宛 天保六年五月二十四日付 (38)
書簡の尚々書に「先頃入御内覧候古賀氏へ贈候俗牘之返簡、三月之末到来仕候、淡泊ニ答有之候、乍序申上候」とあり、三月末になってやっと大塩は昨年末に出した「兼而心得居候次第」の返事を庵から受け取ったが、それは淡白なもので、もはや論争を継続させるような内容のものではなかったことがわかる。結局この一件は、幕府からの沙汰もなく、うやむやのうちに終息したように思われる。
以上、新たに七通の書簡を得て天保六年の大塩の江戸召命についてかなりのことが判明したが、なお途中数通の書簡が欠けており、九月に出されたであろう大一郎宛の真文の返答も、十二月に古賀庵に宛て「兼而心得居候次第」を俗文で記した冊子も、天保六年正月以降の武藤から大塩への連絡内容についても不明である。ただ一連の書簡を読むと、当初古賀大一郎の書簡から始まったこの論争は、最終的には
庵の存在が大きくクローズアップされて来るように見える。この一件は
庵が直接大塩に論争を挑むのを避け、大一郎に命じたものであったらしいが、(五)の佐藤一斎宛五年十二月十二日付書簡に「内実小太郎殿陰より使令之躰と相見候」とあるように、大塩はそのあたりを見抜いて対応したことがわかるのである。
(24) (26) 個人蔵。二通とも同一筆跡であるが、大塩の自筆ではない。門弟代筆または写しということになるが、内容から代筆は考えにくく、写本と見られる。
(25) 次掲九月五日付古賀大一郎宛大塩書簡。同日付佐藤一斎宛大塩書簡からの推定
(27) 大阪市立博物館蔵
(28) 大阪市立博物館蔵。「一斎始一同、翁(筆者注、中江藤樹のこと)之致良知に大眼目之処者不書顕、只其字画、筆勢、墨色之巧拙美悪を論せサラハと綴而巳」などと記す。他に同年十二月十四日付の津藩平松楽斎宛書簡(津市教育委員会蔵)でも「今の学者」に仮託して一斎を批判している。
(29) 残存が確認される佐藤一斎宛の大塩書簡で最も年代の遅いものは天保六年七月二十一日付である(大阪市立博物館蔵)。
(30) (31) 大阪市立博物館蔵
(32) 『享保以後出版目録』によれば『三魚堂文集』は「唐本翻刻 外集附録共八冊・丁数五百八十丁、点者源後素(大坂)、板元小川屋市兵衛(本町五丁目)、出願文政十二年正月、許可文政十二年正月十八日」とあるが、結局は出版されなかったようである。
(33) 正式名は『洗心洞学名学則并答人論学書略』天保五年十二月の刊行。
(34) 佐藤宛と武藤宛では庵に宛てて書簡を出した日付が一日異なるが、これは大塩の勘違いで、記憶が新しい佐藤宛に記す十二月十一日が正しいと思われる。
(35) 拙稿「大塩の林家調金をめぐって」(「大塩研究」三十七号、大塩事件研究会、平成八年)、及び前掲「大塩平八郎の出府と『猟官運動』について」
(36) 既掲天保四年六月付、佐藤一斎宛真文書簡
(37) (38) 大阪市立博物館蔵
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