Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.5.14

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大塩の乱関係論文集目次


「天保六年、大塩平八郎の「江戸召命」について」
その4

相蘇 一弘

『大阪の歴史 第54号』』
(大阪市史編纂所編 大阪市史料調査会 1999.12) より

◇禁転載◇



  四、江戸召命の真相

 前章で正月十四日付の武藤宛大塩書簡について通説とは別の解釈ができることを示した。しかし既掲二通の書簡だけでは可能性の推測だけで全容の解明は不可能であり、私が抱いた疑問もいつかは解明したいと思いながらそのままになっていた。ところが、幸いなことに以来十年余の間にこの一件に関係する大塩書簡を新たに七通収集することができた。その結果、これまでよくわからなかったこの一件の多くの部分が判明した。これらの書簡と先の高階・芥川宛書簡、武藤宛書簡は内容的にみ繋がり、大塩の江戸召命一件は確かに天保五〜六年にかけて起きたものであった。但し、この一件はやはり大塩を幕府へ再仕官させる話ではなかった。以後、発端から順序を追って記すことにしよう。

 天保五年八月二十四日、備中笠岡の儒者小田敬斎の息子で、昌平黌に学ぶ俊蔵という者が帰省の途中大坂に寄り、大塩を訪ねてきた。聞けば同じ修学生の古賀大一郎から書簡を託されたという。披いてみると真文(漢文)で議論を挑んで来たものである。真文での議論には真文で答えるのが礼儀であるが、真文を作るには時間が必要である。そこで取り敢えず翌二十五日に俗文で古賀大一郎に出したのが次の書簡である。

古賀大一郎はのちに佐賀藩の儒臣となる若皐(一八一一〜五八)である。古賀精里の長男穀堂の息子で、名は坤、字は元戴。大一郎と通称し、若皐のほか素堂とも号した。書簡の後半に登場する古賀小太郎は幕府の御儒者で昌平黌教授の古賀庵(一七八八〜一八四七)である。庵は古賀精里の三男であるから大一郎とは叔父・甥の関係になる。名はU、字は季曄、通称小太郎。幼少より子供とは遊ばず、学問を好んで諸子百家を渉猟したという。寛政八年、父に従って江戸に移住し、文化六年に抜擢されて幕府の儒者見習になり、父子ともに昌平黌に出仕している。文化十四年御儒者となって二百俵を賜わり、天保十二年また布衣を許され、官禄百俵を増した。家学の朱子学を奉じて西洋事情、海防問題にも深い関心を持ち、著書に『劉子論語管窺記』『海防臆測』『学迷雑録』等があり、しばしば政策の建言も行っている。大塩は、学問の異なる庵との付き合いはなかったが、本書簡を出す少し前に篠崎小竹へ庵から書簡が届いた際に、大塩へ袱紗二つを添えて伝言を貰ったことがあった。本書簡では、その礼状を出していないので小竹にこの書状を託すが、大一郎からも宜しく伝えて欲しいと述べている。

というのが要点の概略である。このように大塩は真文での回答を九月下旬までに書く積もりであった。ところが大一郎の書簡をよく読むと、大塩にとって聞き捨てならないことが書いてあった。それは、@王陽明の弁文について管見がある。Aここ十四、五年のうちに聖堂の教化により心性修正、政事練達、忠義鉄石の俊士、偉人が輩出している。Bこの質問状については庵も承知の上である、という内容であったと推定できる (25)。日頃から陽明学が異端視され強い不満を抱いていた大塩は、「朱王の弁に管見あり」という大一郎の言葉にカチンときた。そこで、先の八月二十五日付の書簡を追うようにして再び出したのが次の書簡である。

写本のため、誤読の存否を確認できないが、大意は

ということになろうか。丁寧だが内にかなりの思いを籠めた文章である。結果的にはこの書簡に「ここ十四、五年内に昌平黌から出た人材の名前を教えよ」と書いたことが後に昌平黌で問題になり、江戸召命騒動に発展することになるのである。なお、九月五日、大塩はこの大一郎宛の書簡とともに古賀庵にも手紙を出したが、同じ日、林家塾長の佐藤一斎(一七二二〜一八五)にも手紙を出している。大一郎に回答する真文書簡作成の参考にするため、江戸中期の陽明学者三輪執斎(一六六九〜一七四四)の履歴について質問したものである。これを次に掲げる。

大塩がこの書簡を出した天保五年、佐藤一斎は六十三歳。幕府の御儒者となって昌平黌の官舎に移るのは天保十二年、七十歳のときであるから、この時点ではまだ林家塾長として林家の邸内に住んでいた。一斎は朱子学を奉じる林家の塾に籍を置きながら陽明学に関心を持っていたので巷間「陽朱陰王」と評され、大塩は一斎を早くから敬慕私淑して、天保四年六月に自著『洗心洞箚記』に長文の真文書簡を添えて贈っている。これに対して一斎は俗文で答え、それも大塩が満足するような内容ではなかったが、大塩は敢えてこれを天保六年の精義堂板『洗心洞箚記附録抄』に刻している。長年敬愛してきた一斎が必ずしも良き理解者ではないことを知った大塩は、天保四年十二月二十四日、大溝藩士四名宛の書簡で一斎を悪し様に批判し (28) 、以後一斎との交際を断ったとされているが、実際はその後も一斎とは書簡の往復を続けている (29) 。大塩は大一郎が挑んできた論争は背後で庵が糸を引いていることを見抜き、昌平黌と関係の深い佐藤一斎に相談を持ちかけたのであった。

というのがこの書簡の本稿に関係する部分の概要である。やがて、九月某日(中旬頃か)庵から返書が到来した。これを受けて大塩は某日(下旬から十月七日までの間)、庵に再答。そして十月初旬、佐藤一斎から先の質問に対する答書が返ってきた。以下に大塩の一斎宛再答から関係部分を掲げる。

これも要点の概略を記すと、

ということになろう。この書簡に対して再度一斎から返書が届き、それには庵との論争は避けよとあった。次は大塩からさらに一斎宛の返書。

これも大意を示すと

となる。「昨日書状さし立申候」とあるので、大塩は天保五年十二月十一日に庵に「兼而心得居候次第」を認めて送ったことがわかる。これが十二月十四日付の高階・芥川宛書簡に「御儒者古賀小太郎へ当十二日差立候」とある「別冊」(石崎が「真知聖道実践ノ一篇」とした文)のことである (34)。大塩は俗文のこの文章を先ず十一日に庵に送り、翌日一斎にも送ったのである。そして一斎を通じてさらに林述斎と新見正路に読んで貰うことを求めたのであった。

 なぜ大塩は林述斎と新見正路に読むことを求めたのだろうか。新見と大塩の親密な関係については既に記した。大塩と幕府儒官林述斎との関係については、文政十年に林家が大坂で無尽による金策を企てていることを聞いた大塩が、予て自分への援助を約束していた富裕門弟に自分への今後の援助と引き換えに醵金させ、千両を用立てて以来のことである。大塩は辞職後天保二年には江戸に行き、述斎に面会を乞うている (35) 。こうして大塩と林述斎は大塩をして「祭酒林公亦愛僕人也」(36) と言わしめるほどの仲になっていた。林と新見は幕府中枢にある大塩の理解者であった。大塩は古賀大一郎に仕掛けられたことに始まる論争が、古賀庵と昌平黌、更には幕府にまで及んで行きそうな気配を感じ、庵に出した文章を二人にも読んで置いて貰いたかったのであろう。そして、大塩はこの文章を十四日に門弟の高階・芥川に示したのである。従って石崎が示した

(六)大塩平八郎書状 高階子収・芥川思軒宛 天保五年十二月十四日付

はここに位置するものである。これまで示した書簡には「老中方」のことは一度も登場せず、この書簡ではじめて「兼而心得居候次第」を記した冊子が「小太郎より御老中方迄も可入御覧心得」になっていたことが知れる。そしてこの頃、大塩が古賀大一郎に出した天保五年九月五日付の書簡で「茲十四五年已来聖堂御教化之申分、心性修正、政事練達、忠義鉄石之俊士偉人者誰々薫陶逐出いたし公儀之御為ニ相成候や(中略)其姓名御面倒なから御聞せ可被下候」と書き送ったことが、昌平黌で問題になっていた。昌平黌がいわゆる寛政異学の禁で朱子学以外を排除する江戸幕府直轄の教育施設となったのは寛政九年(一七九七)であるから、「茲十四、五年」のことは全く朱子学の責任に帰属するわけで、彼らは大塩が「人材が出たというのなら名前を挙げてみろ」と言ったことを昌平黌と朱子学に対する侮辱と挑戦と受け止めたのである。「怪しからん、江戸に呼んで釈明させろ」ということになり、問題は老中をも巻き込む騒動に発展したのであろう。この事態を新見がキャッチし武藤を通じて大塩に注意を促した。その返事が

(七)大塩平八郎書状 武藤休右衛門宛 天保六年正月十五日付

である。ここで改めてこの書簡を読むと、「御別帋ニ被仰聞候」から「千万辱奉存候」までの文がこれまで紹介した書簡の内容と符合し、後半部では以前は期待に胸をはずませているやに見えた文章が大塩の悲壮な決意を伝え、同じ文章が読む側の前提でこれほどまで変るかと思われる程である。大塩はもし召喚の実否がわかれば教えて欲しいこと、もし噂通り参府せねばならぬことになれば、新見邸へ落ち着く様にと伝えられたことに感謝しているが、このあたりの文章も緊迫感を以って伝わって来るのである。

 しかし、さすがに幕府内では一介の大坂の町与力の隠居学者の言を問題にして召喚までするのは如何なものかということになり、結局この大塩の江戸召命一件は沙汰止みになったのであろう。これから少し経った天保六年四月、大塩は安芸三原藩の儒臣吉村秋陽に対して次のような書簡を送っている。これも関係部分を抄録する。

吉村秋陽は佐藤一斎の門人で陽明学を奉じ、中斎とは天保四年に真文で質問を寄せて『洗心洞箚記』を贈呈され、書評を返して以来の付き合いである。天保六年間確斎が出した『洗心洞箚記附録抄』にその返書が収録されている。この書簡は秋陽から度々手紙で質問を受けていたことに対し、「昨年より御儒者古賀庵の甥で、大一郎という者から学術上の談判があり、やむを得ず庵とも書簡を往復させ、このほど漸く返書が到来した。このようことで寸暇なく失敬した」と断りを述べたものである。大塩の江戸召命一件についてのその後についてはよくわからないが、

(九)大塩平八郎書状 佐藤一斎宛 天保六年五月二十四日付 (38)

書簡の尚々書に「先頃入御内覧候古賀氏へ贈候俗牘之返簡、三月之末到来仕候、淡泊ニ答有之候、乍序申上候」とあり、三月末になってやっと大塩は昨年末に出した「兼而心得居候次第」の返事を庵から受け取ったが、それは淡白なもので、もはや論争を継続させるような内容のものではなかったことがわかる。結局この一件は、幕府からの沙汰もなく、うやむやのうちに終息したように思われる。

 以上、新たに七通の書簡を得て天保六年の大塩の江戸召命についてかなりのことが判明したが、なお途中数通の書簡が欠けており、九月に出されたであろう大一郎宛の真文の返答も、十二月に古賀庵に宛て「兼而心得居候次第」を俗文で記した冊子も、天保六年正月以降の武藤から大塩への連絡内容についても不明である。ただ一連の書簡を読むと、当初古賀大一郎の書簡から始まったこの論争は、最終的には庵の存在が大きくクローズアップされて来るように見える。この一件は庵が直接大塩に論争を挑むのを避け、大一郎に命じたものであったらしいが、(五)の佐藤一斎宛五年十二月十二日付書簡に「内実小太郎殿陰より使令之躰と相見候」とあるように、大塩はそのあたりを見抜いて対応したことがわかるのである。


【註】

(24) (26) 個人蔵。二通とも同一筆跡であるが、大塩の自筆ではない。門弟代筆または写しということになるが、内容から代筆は考えにくく、写本と見られる。
(25) 次掲九月五日付古賀大一郎宛大塩書簡。同日付佐藤一斎宛大塩書簡からの推定
(27) 大阪市立博物館蔵
(28) 大阪市立博物館蔵。「一斎始一同、翁(筆者注、中江藤樹のこと)之致良知に大眼目之処者不書顕、只其字画、筆勢、墨色之巧拙美悪を論せサラハと綴而巳」などと記す。他に同年十二月十四日付の津藩平松楽斎宛書簡(津市教育委員会蔵)でも「今の学者」に仮託して一斎を批判している。
(29) 残存が確認される佐藤一斎宛の大塩書簡で最も年代の遅いものは天保六年七月二十一日付である(大阪市立博物館蔵)。
(30) (31) 大阪市立博物館蔵
(32) 『享保以後出版目録』によれば『三魚堂文集』は「唐本翻刻 外集附録共八冊・丁数五百八十丁、点者源後素(大坂)、板元小川屋市兵衛(本町五丁目)、出願文政十二年正月、許可文政十二年正月十八日」とあるが、結局は出版されなかったようである。
(33) 正式名は『洗心洞学名学則并答人論学書略』天保五年十二月の刊行。
(34) 佐藤宛と武藤宛では庵に宛てて書簡を出した日付が一日異なるが、これは大塩の勘違いで、記憶が新しい佐藤宛に記す十二月十一日が正しいと思われる。
(35) 拙稿「大塩の林家調金をめぐって」(「大塩研究」三十七号、大塩事件研究会、平成八年)、及び前掲「大塩平八郎の出府と『猟官運動』について」
(36) 既掲天保四年六月付、佐藤一斎宛真文書簡
(37) (38) 大阪市立博物館蔵


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