Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.5.15

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大塩の乱関係論文集目次


「天保六年、大塩平八郎の「江戸召命」について」
その5

相蘇 一弘

『大阪の歴史 第54号』』
(大阪市史編纂所編 大阪市史料調査会 1999.12) より

◇禁転載◇



  五、おわりに

 以上、前章で天保六年の江戸召命一件が大久保忠真の人材登用によるものではないことについて述べた。通説の間違いは思い込みから石崎東国が二通の大塩書簡についての解釈を誤ったことに始まったのであるが、この説が定説になったのは氏の『大塩平八郎伝』が豊富な資料に裏打ちされた大塩研究の基本文献であることが以後の研究者の判断に影響を与えたものと思われる。また、大塩が非凡な才能を持っていたことから「彼は決して草莽に空言を吐くを以て自ら安んずる者では無い」(徳富蘇峰前掲書)、「しょせん平八郎は市井の貧儒としてうずもれることに、とうてい甘んじうる人物ではなかった」(岡本良一前掲書)という先入観があったことも石崎説が抵抗なく受け入れられた下地になったと言えるであろう。やはり史料は常に原点に立って読む必要があることを示す戒めとなる実例である。

 しかしよく考えてみれば、大久保忠真が老中首座になったのは仙石騒動で暗躍した松平康任が失脚した天保六年九月二十九日以降のことで、大久保がこの事件の解決に尽力した川路聖謨の才を認めて勘定吟味役に抜擢したのは天保六年十一月二十八日、同じく功績のあった寺社奉行脇坂安董が西丸老中格に登用されたのは天保七年二月十六日のことである (39)。つまり天保六年正月前後に大久保が人材登用を行ったとするのは少し早すぎるように思われるのである。

 また、大塩が登用されるとすれば御儒者以外にはあり得ないと思われるが、寛政異学の禁の下、陽明学を公言して憚らない大塩を敢えて登用するとは考えられないことである。大塩が敬慕した「陽朱陰王」佐藤一斎でさえ天保四年七月朔日付の大塩宛返書 (40)

と述べている。この現実を一番よく知っていたのは大塩であり、だからこそ天保四年の夏、『洗心洞箚記』を富士山の石室に納めて後世を俟ち、伊勢の朝熊山に燔いて天の神に告げようとしたのである。石崎も前掲書で、結局大塩の召命が消えたのは「当時聖堂儒官ハ恰モ政治顧問ノ府タリ、而シテ程朱学ヲ宗トスル初メヨリ陸王学ヲ容ルゝノ余地ナキ也」と述べている。

 ところで、もし天保六年の江戸召命が本当に幕府への登用であったなら大塩はどう対応したであろうか。私はやはり出府していたのではないかと思う。大塩は天保元年十二月十三日付大蔵永常宛書簡 (41) に「無余義御用も有之、上命ならば可勤候へども何分其迄ハ養生遊可致」と記しており、日付欠天保三年の荻野四郎助宛書状 (42) には「御暇受候共、天下御大切之是と申事之節者、隠者なからも急度砕身粉骨可致積」と述べている。それは「公義より之御召ニ候ハゝ、主命ニ付」 (43) 行くのであり、大塩にとっては日頃秋吉や平松、足代らに宣言したことと矛盾するものではなく、後ろめたさも伴わない当然の行動であった筈である。たとえ隠居しても「君臣之名分は一生難離」 (44) とする大塩にとって、幕府の命令は絶対であったであろうからである。しかし現実には幕府の召命は一度もなく、故に大塩は天保六年の一件では失意も挫折も感じることはなかったのである。大塩は天保七年五月二十九日、平松楽斎に宛てた付書状(45)に「小生素より退身いたし候已前勤向等之義は勿論、隠居仕候事共万端上之気受不宜よし」と、在職中から自分の公儀での評判がよくないことを自覚し「古来賢哲何れも学問を以陰禍被受候例甚多し」と達観していた。そして

と述べている。大塩は幕府から登用されるとは決して思ってはいなかったのである。従って、天保六年の江戸召命一件は大塩が蜂起を決心した原因とは全く関係がない。

 近年大塩の乱や大塩周辺の研究は進んだが、大塩個人についてはまだまだ石崎や幸田らの基礎的研究に負うところが大きい。しかし本稿で述べたように優れた研究であってもすべてが正しいとは限らない。たとえ一旦定説となっている事柄でも原点に返り、根拠とされる史料を検討し直し、確定してゆく作業の必要性を感じた次第である。


【註】

(39) 以上『柳営補任』巻之一、巻之六
(40) 天保六年精義堂板『洗心洞箚記附録抄』所収
(41) 大阪市立博物館蔵
(42) 幸田成友前掲書所収
(43) 既掲天保六年正月十五日付武藤宛大塩書簡
(44) 前掲荻野四郎助宛書状
(45) 津市教育委員会蔵


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石崎東国「大塩平八郎伝」その75
荻野凖造「大塩と与力荻野


「天保六年、大塩平八郎の「江戸召命」について」目次その4

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