相蘇 一弘
『大阪の歴史 第54号』』
(大阪市史編纂所編 大阪市史料調査会 1999.12) より
◇禁転載◇
一、はじめに 二、「大久保忠真の江戸召命」説 三、二通の大塩書簡を巡って 四、江戸召命の真相 五、おわりに
寒中御健全大慶ニ奉存候、別冊、御儒者古賀小太郎へ当十二日差立候、賢弟連御一覧可被成候、文芸之類ニあらす、実以斯道のためと存、小太郎より御老中方迄も可入御覧心得ニて聖堂へ向ヶ差出候、賢弟連も吾門ニ入、致真知之聖道御実践之事ニ候ハゝ、客気之私を除却、御精勤可有之候、御写取早々御返却可被成候、尤賢弟之外、同社忠義を可立と存取候人へハ御見せ可被成候、異存有之向へハ親子兄弟たり共一覧も御断申候、早々御改心も承度候、御自筆ニて御写可然、他人之手を御かりハあしく候、緒余面晤、匆々不備
十二月十四日夕灯下 洗心洞中斎
高階芥川両賢弟
同封の冊子を御儒者の古賀小太郎(庵)へ十二日に送ったので一覧すること、内容は文芸の類ではなく、斯道(孔孟の説く聖人の道)のためのもので、古賀から老中にも見せる扱いで湯島の聖堂へ送ったこと、諸君は我が門に入り「真知を致すの聖道」を実践しているので血気を除き精勤して欲しいこと、これを写し取って早々に返却すること、藩内で忠義を立てんとする人物へは見せてもよいが、異論のある者には親子兄弟でも見せてはならぬこと、この文は自筆で写しとること、などをやや昂揚した筆致で記している。
石崎がこの書簡を天保五年としたのは、次に掲げる正月十五日付の武藤宛書簡を天保六年と考えたからであろう。すなわち本書簡の「別冊御儒者古賀小太郎へ当十二日差立候」という箇所が武藤宛書簡の「窮臘小太郎へ向俗書を以及掛合候事之御座候」を指すとみられるからである。石崎は本書簡を以って「幕府ノ密カニ対策ヲ徴セルニ答ヘタル内容ノ一斑ヲ門人ニ告ケタルノ証左」とするが、内容からはこの「別冊」が「幕府ノ密カニ対策ヲ徴セルニ答ヘタル」ものかはわからない。また石崎は古賀に提出した「別冊」を「真知聖道実践ノ一篇」としているが、これも本文に「致真知之聖道御実践」という文言はあるものの係りは明白ではなく、石崎は他に根拠を示していないのでこれらは彼の推定によるものとせざるを得ない。但し、大塩が大久保の人材登用の候補に挙げられたことを前提とすれば、本書簡は、大塩の登用を決定する判断材料としてまず論文(石崎のいう「真知聖道実践ノ一篇」)が御儒者の古賀庵に届けられ、それが老中に提出される予定であること、つまりは「幕府ノ密カニ対策ヲ徴セルニ答ヘタルノ証左」となることが充分考えられる。
二通目は旗本新見正路の家臣武藤休右衛門に送られた正月十五日付の書簡である。武藤は新見の所領である近江国蒲生郡小中村の商人で新見の信任厚く、新見が文政十二年に大坂町奉行となって来坂後、天保二年に淀川の浚渫(御救大浚)を実施したときには新見をよく助けている。大塩と新見・武藤の付き合いはこの新見の大坂時代以来のことである。新見はその後天保二年九月、「御小姓組番頭格」の「西丸御用御取次見習」に抜擢されて大坂を去り、以後幕府の中枢に席を置いている (20)。御小姓組番頭は六番まである君辺第一の役で、一組に組頭と五十人の御小姓衆がおり、御小姓組番頭格は御小姓組番頭の次席の職である。大塩は新見・武藤とその後も交際を続け、天保三年には町与力瀬田藤四郎を通じて鴻池一統から新見家へ千両を貸しつける仲介まで行っている。このとき大塩と直接の交渉にあたったのも近江に住む武藤休右衛門であった (21)。本書簡は天保二年九月以降、幕府内部の重要事項を知り得る立場にあった新見正路から、武藤休右衛門を通じて、幕府が近く大塩を江戸に召命する計画があるという情報をいちはやく知らせて来た礼と、召命に対する決意を述べたものである。
貴墨拝読、新禧被成御超歳奉敬賀候、次ニ鄙人も無異加年仕候、乍憚御休慮可被下候、年始御祝詞可申上候処却而御枉訊奉痛入候、且又御別帋ニ被仰聞候身心修正、政事練達、忠義銕石之人々、聖堂教化中より出 公義の御為ニ相成候やにて、御儒者古賀小太郎姪大一郎より尺牘掛合有之、当座之返書ニ申遣候儀ニ付、江戸表より鄙人を被召候外説御座候付、心得ニ被仰下候次第、千万辱奉存候、素より此方仕掛候義ニハ更無之、御方よりの仕掛ニ付、千万人相手有之候とも不苦、家名を滅亡いたし候積にて出府いたし可申候、勿論
公義より之御召ニ候ハゝ、
主命ニ付、門人一人も召連不申、草履取も引具し不申候、只鄙人独歩ニて直様参府可致積ニ候、且窮臘小太郎へ向、俗書を以及掛合候事之御座候、其返書も可有之と相楽しミ罷在候、助り候儀に候ハゝ独歩ニても上之御為ニ相成候、幾人召連候とも難免節者助り不申候間、先祖之美名を今又天下ニ施し候義到来と竊喜候、此の上 御召之実否を御聞取候ハゝ早々御聞せ可被下候、先者右貴答迄如此御座候、恐惶謹言
正月十五日 大塩平八郎後素(花押)
武藤休右衛門様梧下
尚々、万一御申聞之通参府いたし候様之儀ニ候ハゝ、伊賀守様御宅へ落着候様被仰下候趣辱奉存候、以上
石崎はこの書簡を天保六年とする理由を挙げていないが、本書が大塩の江戸召命に係る内容であるところから、大久保が「先生ヲ召シテ政治ヲ問ハントスルノ議アリ」との仮説を立て、年紀を推定したのであろう。賄賂政治を行った水野忠成が他界した天保五年二月以降に、大久保は将軍家斉から幕政改革の断行を求められている。しかし翌六年には松平康任と水野忠邦が相拮抗する勢力として台頭して来るので、天保六年正月前後ならば大久保に政治刷新のために人材を登用する意欲ありと見たのであろう。
石崎はこの書簡の内容から「先生召命ノ議起レルハ独リ外説ノミナラズ、殆ト確定セルヲ信スルニ足ル」とするが、書簡内容については分析していない。しかし、この書簡も大久保忠真の人材登用を前提とすれば、「江戸表より鄙人を被召候外説」はその証拠で、「千万人相手有之候とも不苦、家名を滅亡いたし候積にて出府」、「門人一人も召連不申、草履取も引具し不申候、只鄙人独歩ニて直様参府可致積」とあることに大塩の「意気壮」(石崎前掲書)、「勇躍」(宮城前掲書)の姿を見、「先祖之美名を今又天下ニ施し候義到来と竊喜候」という文章に「大きな期待に胸をはずませる平八郎の姿」(岡本前掲書)を想像するのは当然である。実は、かつて私も「大塩の乱の当初計画について」(23) のなかで、高階・芥川宛書簡は「大塩が老中大久保忠真の人材登用策の候補に挙がったことにかかわるもの」とし、詳細は不明ながらこの計画がかなり具体的になっていたことが、この書簡と既掲武藤宛書簡でわかると記している。
このように私も天保六年の江戸召命が大久保の人材登用に係るものであることを疑っていなかったのであるが、一方では長年なぜか違和感を覚えていた。それはこの書簡の中の「助り候儀に候ハゝ独歩ニても上之御為ニ相成候、幾人召連候とも難免節者助り不申候」という箇所である。「助かる」「助からない」という文言は、出世のために江戸に呼ばれて勇躍する話には不釣り合いである。また「此方仕掛候義ニハ更無之、御方よりの仕掛ニ付、千万人相手有之候とも不苦、家名を滅亡いたし候積」という箇所も大塩の意気込みの表現ととれなくもないが、なぜ「苦しからず」なのか、なぜ家名を「滅亡」させる必要があるのか、これも「長年の秘められた欝勃の念願」(宮城前掲書)の実現を前にした人物にしては相応しくない文言である。
そこで、今一度この武藤宛正月十五日付書簡を詳細に読み直してみることにした。大塩に限らず書簡で重要な問題をやりとりするときは、双方の理解が同じでなければ話が噛み合わない。そこで「何月何日付の書簡でこのように言ってこられたことを承知した」というように、はじめにこれまでの内容を確認することがよく行われる。これは書簡の到着が前後したり、返事未着のまま次の書簡が出されたりしたときの混乱を避けるためである。この武藤宛の大塩書簡で、大塩がこれからの話題について自分が理解していることを再確認する部分は「御別帋ニ被仰聞候」から「千万辱奉存候」までである。この部分の文章構成は「身心修正、政事練達、忠義銕石之人々、聖堂教化中より出、公義の御為ニ相成候やにて」が次の「御儒者古賀小太郎姪大一郎より尺牘掛合有之」に係り、それを受けて「当座之返書ニ申遣候儀ニ付」に続き、ここまでが更に次の「江戸表より鄙人を被召候外説御座候」に係っている。そして上記の全体が最初の「御別帋ニ被仰聞」た内容、即ち「心得ニ被仰下候次第」であり、このように武藤が知らせてきたことに対して大塩は「千万辱奉存候」と書いているのである。つまりこの文章は順に必要なポイントを説明しながら、江戸に召されることになった理由を述べていることになる。これを素直に読めば、
と言うことになる。更に意訳すると、
(19) 原本は大阪市立博物館蔵。石崎の釈文中「御精励」とある箇所は「御精勤」の誤読と思われるので訂正した。
(20) 『柳営補任』巻之十九「大坂町奉行」、および同書巻之五「小性組番頭格式」による。のち天保七年九月に「大納言様御側御用御取次」、同十三年二月から翌年四月まで「日光山御宮御参詣之節御供并御用掛リ」を勤め(同巻之二、「側衆」)、同十四十月廿四日に御役御免になっている。
(21) 拙稿「大塩の林家調金をめぐって」(『大塩研究』三十七号、大塩事件研究会、平成八年)
(22) 石崎東国『大塩平八郎伝』に写真版が掲載されている。原本は現在不明である。石崎の釈文で「別紙」は同じ意味の「別帋」、「先祖之英名」は「先祖之美名」の読み違いと思われるので訂正した。
(23) 『大阪の歴史』二十一号、昭和六十二年三月、大阪市史編纂所。ならびに同号口絵「大塩平八郎書状 高階子収・芥川思軒宛 天保五年十二月十四日付」
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