Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.1.1

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎の出府と「猟官運動」について」
その1

相蘇 一弘

『大坂城と城下町』
(思文閣出版 2000) より

◇禁転載◇



はじめに

 天保八年(一八三七)に大塩平八郎が挙兵した原因については、事件直後から大坂町奉行の跡部良弼や豪商たちに対する怒り、世の中への不満、幕府に登用されぬ不満などとさまざまに噂された。このうち、幕府に登用されぬ不満から乱を起こしたとする説は、明治二十五年の「史談会速記録」第六輯に掲載された天満組惣年寄今井克復の談話が代表的なものである。その趣旨は「大塩は辞職直後に高井実徳を追って江戸に行き、猟官運動をしたが果たすことができず、その不満から乱を起こした」というものであるが、この説では“辞職直後に出府し猟官運動をしたが失敗した”ということが大きなポイントになっている。今井の説については、幸田成友が明治四十二年刊の『大塩平八郎』で「(今井が言う大塩の)江戸出仕一條は全く信じられぬ」(1)と否定して以来、積極的に論議されることはなかったが、平成二年に『大塩平八郎建議書』(2)を刊行した仲田正之はその解説で、「幸田成友によって否定された大塩の江戸出府と、旗本としての就職運動を肯定したい」と積極的に支持説を打ち出し、建議書についても「大塩個人の栄達のために作成されていた可能性を考え」ているとした。また氏は同時に、大塩の林家への千両の調金は不正無尽によるもので「もっとも巧妙な仕法で大学頭に献金した」との説も同時に展開している。もしこの辞職直後の猟官運動と不正無尽による林家調金の二説が正しければ、大塩は辞職後、仕官する気はないと公言しながら裏で出世を画策し、不正であると自ら摘発した方法で林家に献金するという矛盾した行動を取っていたことになる訳であり、これまでの「清廉潔白」「言行一致」という大塩のイメージを変える大きな問題が提起されたのであった(3)

 大塩平八郎が乱を起こす直前に老中等に宛てた書類(いわゆる『大塩平八郎建議書』)については幕府は一切公表せず、その内容は本来、後世の我々が知ることはできないものであった。従って江川坦庵によって作成された写本が発見されたことは大塩研究にとって大変意義が深かったが、それだけに『大塩平八郎建議書』に付された仲田の解説の影響力も大きいものがあったと思われる。事実、大塩が辞職直後に高井を追って江戸に行き、猟官運動を行ったという説については、「(今井克復の談話は)そのまま信を置けないにしても大塩が挙兵の直前まで猟官運動をしていたことは事実とみてよい」と断定する研究者も現れており(4)、朝日新聞も平成五年(一九九三年)四月二十八日付夕刊で「幕府の『構造汚職』に照明、大塩『建議書』、意外な背景も」という見出しで、「大塩が与力の職に満足できず、中央で猟官的行動をしたこと、また意外な大金を動かしていたことも史料が示している。ここからは定型的な『義人』像を越えて、身分・門閥の壁に憤り、苦しむ人間的な姿が、むしろ陰影深く浮かび上がってくる。」と、明らかに仲田解説の影響を受けたと見られる記事を載せている。

 大塩は、仲田のいうように辞職直後に高井実徳を追って出府し猟官運動を行っているだろうか。本稿ではこの説について検証し、〈定型的な義人像を越えて苦しむ人間的な姿〉という近年指摘されている大塩のイメージが妥当であるか否かについて考えてみたい。


【注】
(1) 幸田成友『大塩平八郎』明治四十二年、東亜堂刊。昭和十七年に『改定大塩平八郎』として創元社から再刊された。
(2) 原資料の題箋は「大塩後素建議書」。ただし、一点文書を書写し綴じた段階でつけられたものである。仲田正之校訂で『大塩平八郎建議書』として平成二年に文献出版から刊行。
(3) このうち、「不正無尽によって林家に献金した」という説について私は、一九九五年十一月十一日に行われた大塩事件研究会二十周年記念シンポジウム「『大塩平八郎建議書』を検討する」で私見を述べ、「大塩研究」第三十七号(一九九六年七月)に「大塩の林家調金をめぐって」と題し、大塩が不正無尽によって林家に調金したのではないことを証明した。
(4) 臼井寿光「大塩平八郎の賤民認識」(大阪人権歴史資料館特別展図録『大塩平八郎と民衆』一九九三年三月)。


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相蘇一弘「大塩の林家調金をめぐって


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