Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.11.16修正
2001.2.19

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩の林家調金をめぐって」

相蘇 一弘

大塩研究 第37号』1996.7より転載


◇禁転載◇


   一 大塩と林述斎

 天保四年(一八三三)六月、大塩が家塾から刊行した『洗心洞箚記』を、敬愛する佐藤一斎に呈するに際して送った真文書簡 @ に「祭酒林公亦愛僕人也」という一節がある。著名な学者とは言え下級幕吏の隠居にすぎない大塩が、幕府儒官でしかも二十五歳も年長の林述斎についてこのように記すのは余程の理由があってのことと言わねばならない。大塩と林述斎との関係については、早くから大塩が若年の頃江戸に出て述斎の教えを受けたとする説があり、大正九年刊の石崎東国『大塩平八郎伝』文化十年条にはそのいくつかが紹介されている。なかには「江戸に遊びて林述斎の家塾にあるや、刻苦励精その行の方正にしてその進歩の速なる、常に儕輩を凌げり」とまで述べている書もあるが A、この説については先の佐藤一斎宛大塩書簡に「僕雖未獲仰眉宇聴謦咳」、つまり「私はまだ直々にはお目にかかっていませんが」と記していることで多言は不要であろう。佐藤一斎は安永元年(一七七二)の生まれで、寛政五年(一七九三)二十二歳のときに林信敬に入門、同年信敬が没し幕命によって衡すなわち述斎が林家を嗣ぐとその門人となり、文化二年(一八〇五)三十四歳のときに林家の塾長になっている。文化二年は大塩は十三歳であり、従ってもし彼が若年の頃に江戸に出て林述斎に学んだことがあるとすれば、佐藤一斎を直接知らないことはあり得ない。この大塩江戸遊学説(述斎門人説)についてはこれまでも否定的な見解をとる研究者が多かった。例えば幸田成友は明治四十二年刊の『大塩平八郎』で、「両者の関係は何うして結ばれたか。中斎門人田結荘千里前名但馬守約の話によると、林家用金の調達に起因してゐるらしい」とし、石崎も前掲書文化十年条で同様に「千里翁聞書ニ林家ノ門ニ入レリト称スル者アルハ謬伝ナリト断ジ、其先生ト林家トノ関係ヲ言フヤ別ニ林家整理先生調金ノ説ヲ挙グ(中略)東都遊学ノ事皆後人仮托ノ説カ」としている。

 実は大塩と述斎の関係については門弟説のほかに「大塩が林家の家政救済のために一千両を用立てた」という説が早くから行われており、幸田や石崎は大塩と林述斎の親密な関係についてはこれが原因であるとの説をとっているのである。しかしこの説についても江戸遊学説と同様、殆ど伝承の域を出ないものであった。この説につき幸田は前掲書では史料の不足から踏み込んだ論証はしなかったが、「年月さへも明白で無いが(中略)何様も事実らしく思はれる」と結論づけた。また石崎は前掲書天保二年条に「是年林大学頭ノ家政窮乏シ、執事ノ將ニ大阪ニ来テ債ヲ市ニ募ラントスルニ会ヒ、先生憤トシテ天下ノ学宗遂ニ茲ニ至ラシムベカラストシ、自ラ千金ヲ作テ一時林家ノ家政ヲ救済ス」と記した。そして、大塩が元西町奉行・新見正路の家宰武藤休右衛門にあてた書簡二通 B の分析から、これは天保二・三年のことで、田結荘千里の「千里翁聞書」に林家の執事が来坂して八田右衛門太郎に会ったとあるのは八田ではなく同じ町与力の瀬田藤四郎であり、林家執事というのは武藤休右衛門のことで、武藤が動いたのは新見伊賀守の命によるのではないか、つまり大塩の林家調金の一件は新見正路が仲介したと推定した。

 その後この一件については、新たな史料もなく論じられることもなかったが、宮城公子氏は昭和五十二年刊の『大塩平八郎』で石崎説を踏襲し、「林家救済については、それに関する大塩の手紙三通が手元にあるばかりで全貌は知りがたい(中略)時期もその一通に大塩が中斎と自署することより、中斎の号を用いたのは天保四年であるから、それ以降のことと推測できるのみである。だが天保四年、この年のこととしても無理はない」とした。宮城氏は天保四年の大塩の「祭酒林公」云々の発言は、この年に林家への調金がなされたためと推定されたのであった。しかし大塩が中斎号を用いたのは天保三年の夏であるので C、この大塩の林家調金の年についての宮城説は成立しない。大塩の林家調金一件が史実であるとともにその年とが判明したのは平成二年に刊行された『大塩平八郎建議書』 D によってであった。すなわち同書所収の天保八年二月十七日付林述斎宛大塩書簡に「先年御約束之上御用立申候金子証文此度返進候」とあり、同書にはほかに借用証文や年賦借用金返済勘定書などが収録されていたのである。従来言われてきた「林家が資金を必要としたのは家法改革のためであり、調金額は一千両」という浮説についても史実であった。『大塩平八郎建議書』で明らかになった大塩の林家調金のポイントを整理すると、

1.林家が千両もの大金を必要としたのは「家法改革無拠入用」のためであった。
2.千両は文政十年(一八二七)十一月、四口に分けて貸付られた E
3.返済は翌文政十一年から十五年賦とされた。
4.大塩はこの金を「同人え学業を請候者」のうち「同人隠居等致し候節助力を頼置候もの」へ「此後世話を掛ヶ不申候」との約束で用立てさせた。
5.見返りとしては「外ニ相願候筋も無之候得共、此後容易ニ難得書物も筋ニ寄拝借相願可申由」、つまり稀覯書の拝見を願うことがあるかも知れないということ以外には何も求めなかった。
6.大塩は乱を起こす直前に林大学頭の借用証文を返却した。

ということになるだろう。ところが、この史料には石崎によって林家調金の一件に関係したとされた新見正路もその家臣武藤休右衛門も登場しない。それでは石崎が大塩の林家への調金の資料とした二通の武藤宛書簡は何を意味するのであろうか。結論を先に言えば、実は大塩は林家だけでなく新見家にも同じく千両の融資を天保三年に斡旋していたのである。額面がまったく同じであったところから石崎の研究以来、新見家への調金のことが林家のことと誤解されてきたのであった。そこで本稿ではまずこの大塩の新見家への調金一件をあきらかにし、つぎに大塩の林家調金についての問題について考察を加えることにしたい。


   二 大塩の新見家調金

 旗本新見家は徳川家康に仕えて慶長十九年(一六一四)鎌倉に采地二百五十石を拝領し、のち加増されて鎌倉と近江国に七百七十石余(開墾後八百十石余)を領した。近江での領地は蒲生郡小中村(現安土町)、薬師村(現竜王町、のち領主交替)、下迫村(現日野町)、滋賀郡谷口村(現大津市)である。この新見家の九代が正路(通称吉次郎、字は義卿、伊賀守、号は茅山または賜蘆)で、寛政三年(一七九一)の生まれ。傑出した人物で、小姓組番士、小納戸、小性、西丸小姓、使番、西丸目付、目付を歴任したのち文政十二年に大坂町奉行(西)となった。天保二年に行われた淀川の浚渫事業(御救大浚)は彼の功績であり、大塩とはこの大坂町奉行在職中に親交を結んだ。安治川口の浚渫が終わった段階の同年九月、小姓組番頭格御用取次見習を命じられ江戸に戻った。このとき関係者は「古今珍敷出世」と喜んだといい F、この出世を機にのち正路は御側御用御取次を命じられ将軍側近の機密連絡を務めるまでになっている。一方、武藤家は屋号を信濃屋といい、新見家の領地近江国蒲生郡小中村で呉服太物・小間物を扱う商人で、京都にも店を持つ富豪であった。代々新見家の信頼厚く大庄屋後見を務めた。この武藤家の六代当主(養子)が休右衛門(栄信)である。宝暦十年(一七六〇)生まれであるから正路より三十一歳の年上であった。正路は武藤を武士待遇として文政十二年五月「御用人席勝手方元〆役」に任命し、大坂町奉行として赴任する際には大坂に伴った。このとき武藤は正路に支度金として金五百両を上納している G。武藤は大坂で会計元締役として手腕を発揮し、淀川の大浚渫事業では一切の事務を処理した。大塩とはこの在坂中に知り合って意気投合し、天保二年の末に近江に戻ってのちも親交が続いたのであった。

 ところで、この武藤休右衛門に宛てた大塩の書簡二十一通(現存は十四通)あり、うち何らかの形で金銭の貸借に絡むものが十一通ある。また新見正路から武藤にあてた書簡で大塩に関係するものが昭和六年の「太湖」六六号〜六九号に六通収録されており、このなかにも金銭貸借に関わるものが三通含まれている。私は当初これら一連の書簡を石崎説に従って、林家の調金に関わるものと推定していたのであるが、たとえば十月三日付武藤宛大塩書簡 H に「御証文御裏書新見伊賀と御認御返御越候様相願候、林家認振左様に御座候」とあること、新見から武藤に宛てた十月十六日書簡 Iに「先年林家にて此度の様なる義有之候節如何様之取斗方に哉、内々承合了簡可致と存居候」などとあることからこの一件は林家ではなく、新見家への調金であることが判明したのである。

 まず、この新見家への大塩調金が何年のことかを検証しよう。大阪城天守閣が蔵する九月五日付の武藤宛の大塩書簡は、本文中に「金七百両此代銀四十弐貫目、為替手形都合三枚受取候付、服心門人ニ為持さし上候」「跡金三百両之義」などとあって明らかに大塩が新見家に用立てた千両の一件に関するものであるが、この書簡で大塩は中斎号を使用しているので天保三年夏以降のものであることがわかる(註4を参照)。また文中に登場の大坂町奉行所東組与力瀬田藤四郎は、天保三年末もしくは四年の早い時期に病に倒れ J 、天保四年八月三日に退番しているが K、本書簡ではまだ健在である。よってこの九月五日付書簡は天保三年ということになり、大塩が新見家に調金を行った年を同年と特定することが可能となる。この「大塩の武藤家調金の年は天保三年」ということを基準にしてその他の武藤宛の大塩書簡や、新見から武藤に宛てた書簡を矛盾なく順序だてることができ、これらの史料によってこの一件の内容を明らかにすることが可能となる。また、書簡でのやりとりでは、遅配があったり返事を待たずに次の書簡が出されると行き違いが生じるため、新見と武藤の間で行われた大塩の調金に関する書簡の往復では、新見はいつ付けの書簡を入手したか、また伝えてきた重要事項について内容を再確認した上で自分の意志を告げている。例えば八月十七日付書簡では「本月七日附之書状相達致披見候」と記したあと「不図中斎伏見より罷越寛話有之、藤四郎への談も程能相整て承知安心候て、元より此方も同意に存候」とある。この場合「不図」から「程能相整」までは八月七日で武藤が新見に知らせた内容の反復、「承知」以降が正路の意志である。従って新見から武藤への返書であってもその前に武藤が新見に宛てた書簡内容のポイントを知ることができるわけで、新見から武藤宛の大塩調金に関する書簡は、同じ件についての武藤宛の大塩書簡の内容を補足し、事実関係についての信頼度を高めることになるものである。

 十一通の武藤宛大塩書簡と、三通の武藤宛新見書簡によって判明する「天保三年に大塩が関係した新見家へ千両の調金」とはどのような内容であったか。この件については、石崎が『大塩平八郎伝』に一部を紹介した(天保三年)正月十七日付の武藤宛大塩書簡に、「御調金之義被仰下、右ハ先般御直書之内へ申置候、今一応御沙汰も御座候趣被仰下御座候上、貴老様当春御下坂にて藤四郎かたへ御越も御座候趣承知罷在候間、御老体御六ヶ敷可有御座候へ共、三月と不申御出坂被下候様御待申候」とあり、天保二年の暮れ頃でもあろうか、まず大塩に対して新見家から調金の依頼があり、大塩が新見へ直接に瀬田藤四郎に世話をさせる旨の返書を出したことが推定できる。そして新見の意向を受けた武藤が三月に瀬田を訪問したいとの返事をよこしたので、急ぐ話であろうからすぐに来てはいかがと伝えたのであろう。新見家がこの時期になぜ一千両もの金を必要としたかについては不明ながら、近松文三郎が『太湖』六九号で「安治川浚渫工事に関し伊賀守が在役中の負債」と推定しているように、淀川浚渫など大坂町奉行在職中の負債である可能性が高いと思われる。

 大塩は新見から依頼された千両をどのようにして調達したのだろうか。これについては八月十七日付武藤宛新見書簡に、「右藤四郎は鴻池一類の内別て入魂之者有之、其方にて相調候間、後にも差支之節は同人へ申遣候て追々用弁も出来候様取計可申間、外々にて彼是と借入候義は無用に致候様呉々申聞候也」とあるので、大塩から瀬田藤四郎に頼み瀬田が懇意の鴻池一統に調えさせたものであることがわかる。大塩と瀬田の骨折りによって千両の金が調ったのは秋であった。九月五日付武藤宛大塩書簡(大阪城天守閣蔵)には、

とあり、大塩はまず千両のうち七百両を為替手形三枚にして腹心の門人に持たせて近江に届け、残る三百両は大坂で武藤に手渡す手はずにしていた。しかし十月十六日付武藤宛新見書簡に「十月五日夕不存処中斎来訪、兼て残の三百両手形持参にて別紙の通証札と引替、都合千両無障相済候旨安堵大悦いたし候」とあって、残りの三百両は少し遅れたが、結局十月五日に大塩が自ら小中村に足を運んで届け、武藤を驚かせたのであった。

 実は新見家はこの大塩の件とは別に住友から借金をしており、天保三年十月十六日付武藤宛新見書簡に「当暮住友返金弐百両の義、其方にも心配致候に付、両村役人共へも申諭、中斎実意の趣も為申聞候処承伏いたし、当年収納の内、二ヶ村より金弐百両、来冬迄無利息にて用立申度旨申出、当霜月中に差下候義、一統承知いたし候に付、為念内々申越候旨委細承知候」とあるように、天保三年には二百両の返金に迫られていたことがわかる。大塩が斡旋した千両の借入金の返済条件の詳細は不明であるが、返済は翌四年からの約束になっており、それは新見家にとって大変な負担を強いたようである。すなわち天保四年九月七日付武藤宛新見書簡で「大塩年賦金何分手当も不行届、右に付ては其方へ談申度段役人共申聞候間、是迄追々用金も其方にて融通いたし居、住友返金も有之旁申置候義は何共迷惑と存、可成丈此方にて相働、都合いたし候様申付候処、何分此節の処篤策も無之趣に付、無據申遣」とあり、この意を受けた武藤は、「早速喜左衛門年寄善助相招及示談候処、彼二人も其方同様心配いたし」、結局「中斎住友両口にては弐百五十両余の義故容易に難整、下迫村名主庄右衛門相招、小中にて百五十両相調候間、下迫にて百金引受」させている。L 。 このような武藤らの努力に対し、新見は「三人共不一通厚骨折尽忠節候段、于今はじめぬ事ながら感入欣悦此事にて大に安堵いたし候」と礼を述べている。新見からの直書により天保四年分の返済金が約束通り済んだことを知った大塩は、十月二十二日付で武藤に対し、次のような書簡を送った。(白井孝昌氏蔵)

 新見から篤く礼を述べられ、瀬田本人からも返礼すべきところであるが退職後手足が痿痺しているために大塩が代わって意志を伝えたのである。この新見家への調金について大塩は一貫して誠意を持って当たり、二度も自ら小中村の武藤宅に足を運んでいることが八月十七日付と十月十六日付の武藤宛の新見正路の書簡でわかる。特に三百両の手形を持参した二度目の訪問では武藤宅で持病である疝気の発作を起こしたが、十分な静養を勧める武藤の制止を振り切って帰坂したのであった。このように新見家に誠意を尽くした大塩は、既述天保三年正月十七日付武藤宛書簡のなかで、「公儀を大切ニ奉存候てよろしく御世話奉申上候義ニ御座候、自分之身為ニいたし候様の存心更に無之候間、いつ迄も其処御忘却無之様いたし度奉存候」とその理由を述べているが、前掲八月十七日付武藤宛新見書簡に「瀬田藤四郎義、戸塚備前へ自分在勤中見込置候存意委相咄引立候様精々談候間、此所者安堵いたし候様、是又中斎へ能々咄置可申候」とあるように、自分へり見返りは何も要求せず瀬田藤四郎を引き立てることを戸塚忠栄(この年六月二十八日に大坂東町奉行となった)に頼んでほしいと新見に頼んだだけであった。このような大塩の骨折りに対して新見は天保三年八月十七日付の武藤宛書簡で、「先以大金の借入都合よく出来安心の事に候、右に付て者中斎当初より段々不一通自分為をも存意を入、心切之取計にて事整候段不浅辱存候事に候」と深い感謝の念を抱き、「中斎生并に瀬田にも報いたし度候へ共、容易の義いたし候ては却て趣意に背可申間、先年林家にて此度の様なる義有之候節如何様の取斗方に哉、内々承合了簡可致と存居候」(天保三年十月十六日付武藤宛新見書簡)と、先年大塩が林家に調金したとき林家ではどのような謝礼をしたのか参考にしたいと告げたのであった。


   三 大塩の林家調金

 大塩が新見家にも一千両を調金していたことが明らかになったことで、これまで信頼度が低いとみなされてきた大塩の林家調金に関する史料を改めて検討する必要が出てきたと思われる。石崎東国『大塩平八郎伝』には大塩の林家調金に関して相反する二つの史料が掲載されている。その一つは田結荘千里の「千里翁聞書」で、

というものである。この史料では白井孝右衛門・橋本忠兵衛ら富裕農民の門弟によって千両が調ったとされている。大塩が千両を調えた方法について『大塩平八郎建議書』所収の八月廿五日付島村兵助宛の坂井左近書簡は「大塩平八郎儀(中略)格別ニ志を立、金千両一手ニ引請、働出候由、右は同人え学業を請候者之由、同人隠居等致し候節、助力を頼置候ものえ相頼、依之同人此後世話を掛ヶ不申候由之趣意」と記している。大塩を経済的に支えたのが富裕な農民門弟であったことはよく知られており、大塩は引退後の助力を頼んでいた彼らに「今後世話をかけない」と約束して千両を都合させたのである。『甲子夜話』巻四三に「又坂の近郷の里豪に、何事をか説て、愚夫ども咸く仏法を厭ひ、聖道に随喜して、林氏へ一千鐐を贈ると云しを、己れ媒して、林氏より其報に迚、志津兼氏の刀を彼農に与へたり」とあることも断片的な真実しか含まないながら林家調金と農民の関係が顕れている。「同人え学業を請候者」について仲田氏は「門人の商人」と推定したが、これまでの大塩研究では大塩と市中の商人との関係は見えていない。林家調金から五年後の天保三年、新見家に千両の調金を頼まれたとき、大塩は今度は富裕門弟を頼ることができず、他に方法もなかったために瀬田藤四郎が懇意にしている鴻池一統から融通させる方法を選んだのであろう。ところで、この「千里翁聞書」に出てくる人物について、石崎が『大塩平八郎伝』で、八田五郎左衛門は瀬田藤四郎、林家の執事は武藤休右衛門であると推定したことについては既述のような事情から否定されて良い。とするとこの「平八郎が林大学頭の頼母子無尽講を峻拒して別に千金を義捐した」という内容の「千里翁聞書」は、骨子としては真実を伝えていると考えても良いのではないだろうか。

 二つ目は「大塩平八郎実記」に記す記事で M

というものである。この史料では、富裕農民の門弟に金を工面させたという話自体は「千里翁聞書」と変わらず、かえって詳細で具体的にさえなっているが、林家への調金は大塩引退後の話とされ、しかも江戸で林述斎から直接頼まれたことになっていること、大塩は門人を無尽に加入させて千両を調達した、という点が大きく異なっている。実際には大塩の林家調金は大塩が引退する前の文政十年のことであったし、また大塩と林述斎との関係は既述のように若年の江戸遊学説は成立せず、この千両調金で交際が生まれたと考えられることからこの「大塩平八郎実記」の信頼度は低いと考えざるを得ない。しかしながらこの際検討を加えておかなければならないのが無尽の問題である。すなわち「千里翁聞書」が、大塩は林家の無尽を峻拒して調金したとするのに対し、「大塩平八郎実記」ではご丁寧にも大塩は一旦門人から無尽で金を集めたあと、

とまで記している。仲田正之氏は『大塩平八郎建議書』の解説において、大塩の林家への「千両の貸渡し、返済については、二つの方法が考えられる」とし、「一つは千両を無尽により長期に捻出して行く方法(中略)もう一つは千両を即金で貸渡し、それを元利とも無尽で返済させていく方法である」とした。いずれにしても仲田氏は大塩は林家に無尽を仲介することによって千両を提供したと断定している。その根拠については、林家は「臨時に必要になったからこそ、大坂までいって金策したのである。であるから、林家本来の収入の中から返済していくことは困難であろう。やはり、無から有を生ずる濡れ手に粟の千両は、無尽から生まれたとしか考えられない」と述べ、「(大塩は)自ら探索・研究した無尽仕法を不正ときめつけ、老中に密告しながら、その中のもっとも巧妙な仕法で大学頭に献金した。この解釈がまちがいないなら、何をか况やの感がする。」と結論づけている。

 大塩の林家調金に関し、少なくとも「貸渡し」については既述のように事実関係が明らかである。問題は千両の返済方法で、確かに臨時入用の金策であるから「林家本来の収入の中から返済していくことは困難」ではあっただろう。しかし、この推定を以て直ちに無尽を行ったとする仲田氏の説はあまりにも飛躍した論理と言わざるを得ないと思う。大塩は挙兵二日前に出した老中宛の書簡 N で、大久保忠真ら現職の老中について、水野忠成が「上様を惑し、賄賂公行、賢人被退義ハ世間皆々一同承知之処、各様御同職ニ乍御在、一応之御異見も無之、終ニ天下之害引出」たのは、

1.大久保忠真は京都所司代時代に御法度の無尽を催し、町人へ金作の大小を遣わしたこと。
2.松平乗寛・宗発は大坂で獄門の八尾屋新蔵、自殺した弓削新右衛門らに頼んで無縁の町人へ無尽を企て、扶持方紋付羽織等まで新蔵へ遣わしたこと。
3.水野忠邦も去年、一心寺の宰領となった牧野権次郎の兄八田衛門太郎らに立入を申し付けて無尽の企てをしたが、新蔵の一件で中止したこと。

 つまり、不正な無尽 O を行い、腐敗という点では四人とも忠成と同列だったからだと厳しく彼らの政治責任を追求している。そして文政十二年に問題となった不正無尽事件を大坂破損奉行ら数人の処罰で終らせたことも非難している。大塩は自らの捜査によって知り得た事実に基づき、幕府中枢の政治的腐敗を告発していたのである。ここに登場する弓削新右衛門事件は文政十二年の事件であるが、大塩が林家に調金した文政十年時点でも彼は上方の不正武家無尽についてある程度の実態をつかみ怒りを抑えていたことであろう。命を賭けて決起し、老中に対してこのように厳しい告発を行うような人物が、不正無尽を怒りその探索を実施しようとする一方で、自らそれを斡旋するようなことをするだろうか。

 陽明学では「知行合一」つまり、言葉と行動を一致させることは大切なことで、言動に裏表のあることは最も恥ずべきこととされる。陽明学者である大塩が不正無尽に関わることは自己の存在を否定する行為である。頼山陽が「小陽明」と評し P 、足代弘訓が「大塩氏より約束の如く昨日門人両人参り、両文庫へ奉納の書物持参ニ御座候、誠ニ大塩氏のごときハ言行一致、一事一言を見聞候度毎に此方まで心中快然と仕候」 Q と記しているように、大塩は陽明学者として日々厳しい生活を送り、言行一致の人物として知られていた。これについては、彼の若年からの行動の軌跡を知り、彼が多くの人々に宛てた手紙や著作を読めば理解できる。

 次に、『大塩平八郎建議書』所収の八月廿五日付島村兵助宛の坂井左近書簡には、大塩は林家の調金に際して「平八郎外ニ相願候筋も無之候得共、此後容易ニ難得書物も筋ニ寄拝借相願可申由」、つまり稀覯本の拝借以外には何の見返りも要求しなかったとある。また、大塩は新見家の調金でも何の見返りも求めていなかった。林家に対しては「千里翁聞書」に大塩が「林家は天下の学政治を掌るもの、(中略)此の不祥のことを為すに忍びんや」として調金を決意したとあり、新見家には天保三年正月十七日付武藤宛書簡に「公儀を大切ニ奉存候てよろしく御世話奉申上候義ニ御座候」とあるように、彼は義のために引き受けたのである。義を重んじての行動ならば、見返りを要求することはもちろん不正手段によって目的を遂げるのでは何の意味もない。前章で見たように新見家では住友からも借金があるという苦しい台所事情のなか武藤の骨折りで綱渡りのようなやりくりをしながらも正当な方法で借金の返済をしていた。つまり、新見正路も大塩の義に感じ誠意に応えたのであった。賄賂や不正が横行する世の中でこのような誠実な往復行為が行われることが大塩にとって意味のあることであったのではなかろうか。また、新見は天保三年十月十六日付の武藤宛書簡に「先年林家にて此度の様なる義有之候節如何様の取斗方に哉」と述べている。新見が大塩の林家調金のことを知っていたのは、既掲十月三日付武藤宛大塩書簡に「御証文御裏書新見伊賀と御認御返御越候様相願候、林家認振左様に御座候」とあることでわかるように大塩が話していたからである。このことは、大塩が斡旋した林家への融資が不正無尽というような彼にとって恥ずべき内容のものではなかったことを示している証拠といって良いだろう。

 大塩は既掲老中宛書簡の末尾に「猶以別封林大学頭江御渡可被下候、同人義累代聖賢之道を学候家柄ニ付、御諫言も被申上候身分と存、先年取結候言葉も有之候付、右之義懸合候義ニ御座候」と記している。つまり、別封の書簡を老中から林述斎に渡して欲しい、同人は累代聖賢の道を学ぶ家柄であるので、あなた方に諫言を言える身分と思うし、彼とは先年約束したこともあるというのである。また林述斎の用人島村丈助に宛てた二月八日付書簡には「国家之儀ニ付御老中方え申上候儀有之、大学頭様え差上候間別箱名宛え早々御届可被下様仕度、大学頭様え御掛合申候書通も箱中ニ御座候」と認めていた。つまり島村から林述斎に老中宛の書簡箱が渡され、林が老中にその箱を届けると中に林宛の書簡が入っていて老中から林に渡されるという仕組みであった。林は大塩が老中に宛てて記した内容について傍観者でいることはできない仕掛けになっていたのである。大塩と林の「先年取結候言葉」についての内容は知る由もないが、林は大塩から老中に対して諫言することが期待されていたことは間違いがない。それは何に対する諫言か。それは倫理に関するものであって、なかには老中がかつて行った不正無尽を含むことは間違いのないところであろう。大塩は「聖賢之道を学候家柄」である林家が不正無尽を行うことを許すことができなかった。だから調金に奔走したのであり、もし林家に文政十年に不正無尽を斡旋していたとしたら、命を賭して決起するときに、諫言を老中に言える資格のない述斎に期待する筈はないのである。融資から約九年を経過した天保八年二月時点で七百両分(二百五十両二口と二百両)の証文が大塩の手元にあったのである。もし林家に入ったのが「濡れ手に粟の千両」であったのなら大塩の手元に借用証文などは残らなかった筈である。私は文政十年の林家の調金に際しては、仲田氏の言うような不正無尽はなかったものと考える。

 確実な史料がないような問題で、どんな説を唱えようともそれはその人の自由である。しかし、小説ならばともかく研究の場合は状況による憶測だけで断定するようなことは慎むべきであろう。また自説に有利な史料を提示するだけでなく、異なる方向を示す史料について検討を加えたうえで結論を導く姿勢も必要であると思う。それまでの研究成果を根底から覆すような説を唱える場合は、なおさら確実な証拠や論拠を示すことが求められると思う。『大塩平八郎建議書』は大塩研究にとっては画期的な素晴らしい史料発掘であったが、本論で取りあげた林家調金無尽説に限らず、仲田氏が解説で述べられたいくつかの説は、これを認めればこれまでの大塩の人物像が変わり、歴史的評価が根底から覆るようなものを含み、重要な資料集の解説という性格から言って影響少なからざるものがあったと思う。本報告では大塩の林家への調金について仲田氏とは見解の異なる結論を示となったが、『大塩平八郎建議書』の一つの解釈として受けとめていただき論議が生まれれば幸いである。


【註】

@ 「寄一斎佐藤氏書」幸田成友著『大塩平八郎』所収
A 高瀬代次郎『佐藤一斎と其門人』大正十一年、南陽堂刊
B 「第一書」として正月十七日付書簡の一部、「第二書」 として十月三日付書簡の一部を紹介。全文は石崎自筆 の「洗心洞尺牘集」(京都大学蔵)に所載。

C 中斎改号について宮城氏は『大塩平八郎』の年譜の天保四年条に「連斎改め中斎と号す」と記すがその根拠は示さず、石崎は『大塩平八郎伝』天保三年条に「是年五月先生連斎ノ号ヲ改メテ中軒ト云ヒ、後中斎ニ改ム」とするものの中斎改号の月には言及していない。ここで大塩の中斎改号について検証しておきたい。

 大塩の秋吉雲桂宛天保三年九月三十日付書簡(大阪市立博物館蔵)に「五月、連斎之号を中斎に改申候」とあるが、この間に大塩が「中軒」という号を用いた時期のあることは自筆の書「過江州小河里弔藤樹先生遺跡」(大阪市立博物館蔵)に「于時天保三壬辰夏六月五日 洗心洞中軒」と署名していることで明らかである。石崎のいうように大塩は五月に連斎から中軒に改めたのである。上記二つの史料により大塩は六月五日時点では「中軒」、九月三十日には「中斎」と号していたことがわかる。従って中斎と改めたのはこの間ということになる。(天保三年)八月二日付の武藤休右衛門宛大塩書簡(大阪城天守閣蔵)で、大塩は号のことについて何の断りもなく「大塩中斎」と署名している。つまり、八月二日には中斎号を名乗っており、しかも改号して時間が経っていることを伺わせる。また新見伊賀守から武藤休右衛門にあてた(天保三年)八月十七日付の書簡(「太湖」六六号所収)に「本月七日附之書状相達(中略)不図中斎伏見より罷越寛話有之」云々とあり、これもすでに中斎と改めて日が経っていることを窺わせる。これらから、大塩の中斎改号は天保三年六月から七月頃のことと推定することが可能となる。連斎を中軒と改めてからわずか二ヶ月足らずの改号はなぜだろうか。推測の域を出ないが、私はこれには大塩がこの年の六月藤樹書院からの帰途、琵琶湖で大嵐に遭って臨死体験をした(『洗心洞箚記』)ことが関係しているのではないかと思う。とすると中斎改号の時期は天保三年六月下旬から七月の早い時期であったのではなかろうか。

D 仲田正之編校注 文献出版刊
E 『建議書』には既返却の関係か借用金証文、年賦借用金返済勘定書ともに三通計七百両分しか収録されていないが、八月二十五日付島村兵助宛坂井左近書状に「大塩平八郎儀、(中略)八重洲御家を深く奉存、格別ニ志を立、金子千両一手ニ引請」とある。
F 武藤家文書(『太湖』六五号所収)
G 同上
H 石崎東国「洗心洞尺牘集」所収、京都大学蔵
I 「太湖」六八号所収。以下引用する新見正路から武藤休右衛門に宛てた書簡はすべて「太湖」六六号〜六九号に収録されているものであるので出典を省略する。
J 『蒲生郡誌』所収の推定天保四年二月二十一日付武藤宛大塩書状に「瀬田藤四郎へ御尋被下、是も先病体同辺ニ御座候」とある。
K 『蒲生郡誌』所収の天保四年八月二十九日付武藤宛大塩書状に「藤四郎も病気ニて勤筋六ヶ敷、先月中退役願聞済有之、当月三日退番隠退仕候」とある。
L 以上天保四年九月七日付武藤宛新見書簡
M 幸田の『大塩平八郎』が引用する「代官根本善左衛門風聞書」の内容と同じで、石崎東国も「此説代官根本善左衛門風説書に同じ」としている。
N 『大塩平八郎建議書』所収
O 武家が無尽を行うことは禁止されていた。平成七年十一月十一日の大塩事件研究会二十周年記念シンポジウムで藤田覚氏が発表された東京都立大学蔵水野家文書『浜松告稟録』所収の文政十三年四月付[無尽講之儀に付書付]三年四月に「無尽之儀は百姓町人に限り候事に候、武家に而は不相成候」とある。
P 文政十年、頼山陽が大塩に呈した「訪大塩君子起謝客而上衙作此贈之、丁亥閏六月十五日訪」に「号君当呼小陽明」とある。
Q 天保四年九月二日付 山中立介宛足代弘訓書簡 大阪市立博物館蔵


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大坂町奉行一覧(大塩平八郎関係)
石崎東国『大塩平八郎伝』 その23
井上哲次郎「大塩中斎」 その8
佐藤一斎の大塩平八郎に答えた書簡


大塩の乱関係論文集目次

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